武都の戦いは劉備と曹操の漢中攻防戦の戦いの一つであり、史実にもあった戦いです。
この時に蜀軍を率いたのは、張飛や馬超です。
三国志演義だと張飛と馬超は共に五虎大将軍であり、夢の共演となりますが、残念ながら武都の戦いでは勝利を得る事が出来ませんでした。
武都の戦いで、張飛や馬超の軍は雷銅と呉蘭を討たれるなど敗れ去ったわけです。
それでも、曹休、曹洪、曹真らを武都方面に釘付けとし、曹休らの軍が夏侯淵の軍に合流するのを阻止しました。
それを考えれば、張飛らは敗れはしましたが、戦略面では十分に役目を果たしたと言えるでしょう。
武都を占拠
劉備は劉璋から蜀の地を奪いますが、孫権といがみ合っているうちに曹操は漢中の張魯を降しました。
ここにおいて劉備と孫権は関羽と魯粛の単刀赴会で和解しています。
黄権が劉備に逃亡中の張魯を迎え入れる様に進言しますが、張魯は黄権が到達する前に曹操に降伏しました。
西暦217年に劉備は法正や黄権の進言もあり、曹操から漢中を奪う為に北上する事になります。
これが定軍山の戦いに繋がるわけですが、劉備は手始めに張飛、馬超、呉蘭、雷銅を武都に進軍させました。
ここで張飛らの軍は、武都郡の中心地でもある下弁を占拠する事に成功し、下弁を呉蘭と雷銅に守らせています。
呉蘭、雷銅らは陳倉方面から来る魏軍を迎撃する構えを見せます。
張飛は自ら兵を率いて北方の固山に出て、魏軍の後方を遮断する動きを見せました。
張飛は魏軍が自分の動きを警戒すれば、勝機を見出す事が出来ると考えたのかも知れません。
任務は達成
張飛は陽動のつもりで固山に向かったかも知れませんが、魏の曹休は張飛の動きが陽動だと考え、張飛を相手にしなかったわけです。
曹休は武都にいる呉蘭、雷銅らを攻撃し打ち破りました。
この時に呉蘭、雷銅が戦死しており、曹休の完勝だったとも言えるでしょう。
蜀軍の呉蘭、雷銅が敗れた事で、北方にいる張飛は敵陣で孤立する可能性が出て来ました。
ここで張飛は後退を決断し退路の確保に動きます。
本来であれば曹休らは、夏侯淵の軍に合流し救援する事が役目だったはずです。
しかし、張飛は程昱や郭嘉から「兵1万に匹敵する」と呼ばれ、周瑜も戦闘能力を高く評価した程の逸材でした。
曹休らは武都方面から進軍してくる張飛を警戒し、夏侯淵の軍に合流する事が出来なかったわけです。
それを考えると武都の戦いで張飛は戦術的には破れたかも知れませんが、戦略的に考えれば任務は充分に果たしたと言えるでしょう。
この後に、蜀の陳式も徐晃に敗れてはいますが、夏侯淵の軍から徐晃を切り離したとみる事も出来ます。
定軍山の戦いで夏侯淵が自らの兵の半分を割き張郃の救援に向かわせ、自らは四百の兵を率いて鹿角の修繕を行いますが、黄忠に急襲され戦死しています。
それらを考えれば、魏軍は兵士の不足もあり、武都の戦いで張飛が曹休を引き付けたのは、十分に価値がある事だったはずです。