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法正はすごい能力を持った人だが性格に難があった蜀の謀臣

2022年11月13日

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名前法正(ほうせい) 字:孝直
生没年176年ー220年
時代後漢末期、三国志
主君劉璋→劉備
一族曽祖父:法雄 祖父:法真 父:法衍 子:法邈
年表215年 益州平定戦
219年 漢中争奪戦
220年 尚書令、護軍太守となる
画像©コーエーテクモゲームス

法正は劉備に仕えた謀臣であり、正史三国志には龐統と共に龐統法正伝が立てられています。

法正はすごい才能を持った人でもあり、劉備に蜀を取らせたり、漢中争奪戦でも活躍した人物です。

劉備政権においては尚書令となり、もっとも寵愛された人物だと言えるでしょう。

諸葛亮も才能を認めており劉備が夷陵の戦いで敗れた時には「法正が生きていれば、この様な結果にはならなかったであろう」と述べた話があります。

劉備の全盛期には法正がおり、法正の死と共に劉備は凋落を迎えたと見る事も出来るはずです。

ただし、法正の性格は気難しい部分もあり、性格が原因で評価されなかったり、自分が上に立った時には容赦なく復讐も行っています。

コーエーテクモゲームスの真三国無双シリーズでは「徳性なき参謀、仁の下で怪しく輝く」や「全てに報いる劇薬」などのキャッチフレーズで登場します。

これらのフレーズは、史実の法正の性格を現わした結果だと言えるでしょう。

陳寿は龐統を荀彧、荀攸の様な人材だと述べ、法正を郭嘉や程昱の様な人物だと述べています。

蜀に移る

法正は司隷扶風郡郿県の出身だと正史三国志に記載されています。

法氏の先祖を辿って行くと、戦国七雄の斉の襄王(法章)にまで繋がるとも言われる家柄です。

法正の祖父である法真は清廉潔白で名声はありましたが、仕官せず気難しい人でもあった様で、法正の性格形成に影響したとも考えられます。

法正と孟達は同じく扶風郡の出身であり、くせ者同士で馬があったのか親交を結んだ話があります。

建安の初年(196年)に飢饉があり、法正は孟達と共に蜀に行く事になります。

同じく扶風郡の出身である射堅射援の兄弟も蜀に行き、劉璋に仕えた話があり、当時の扶風郡では飢饉を避ける為に益州に移住する人が多かったのでしょう。

不遇の時代

法正は孟達と共に蜀に移ると、劉璋は新都の令に任命し、後に軍議校尉としました。

しかし、正史三国志によれば法正は劉璋に重用される事はなく、同郷の者には品行を問題視され志を得なかったとあります。

益州を治める劉璋は天下統一の野心などは持っておらず、法正の様な凄い能力は持っているが品行や性格に問題がある人物を使いこなす事は出来なかったのでしょう。

劉璋にとってみれば、態度がイマイチな法正は問題児であり迷惑な人だと思ったのかも知れません。

法正は戦乱を避け食料を得る為に益州に行ったのだと思われますが、不遇な生活を送る事になります。

尚、法正は孟達だけではなく、張松とも仲が良かった話があります。

張松も能力は凄まじいが風采が上がらなかった話もあり、法正とは「はみ出し者同士」で気があったのでしょう。

益州で悶々とした日々を過ごしていた法正ですが、転機が訪れます。

劉備との出会い

西暦208年に劉備は長坂の戦いで曹操に敗れ敗走しました。

この時に張松が曹操に面会しますが、相手にされず恨みを抱き逆に劉備に対しては好意を得ました。

張松は益州に戻ると劉璋には「曹操と絶縁し同姓の劉備を助けるべき」と進言しています。

張松は劉備への援軍の将として法正を劉璋に推薦した話がありますが、この時の法正は乗り気ではありませんでした。

法正は噂でしか劉備を知らず、高く評価してはいなかったのでしょう。

曹操は赤壁の戦いでは周瑜魯粛黄蓋らの活躍により敗れ、劉備は荊州南部の平定に取り掛かり、荊州四天王を討つ事になります。

法正は孟達と共に劉備への援軍となり、劉備軍と合流しました。

正史三国志の先主伝に劉備が法正と会った時の事が書かれており「先に張松に会い後で法正に会ったが、どちらにも手厚く温情を以って接した」とあります。

記録はありませんが、荊州四天王との戦いでは、劉備の傍に法正がおり、法正の進言を劉備がよく用いた可能性もあるでしょう。

法正は劉備への援軍が乗り気でなかったのにも関わらず、益州に戻る頃には劉備に惚れ込む事になります。

法正は張松には劉備は優れた武略を持っていると述べ、張松と共に劉備を益州の主にすべく計画を練りました。

法正としてみれば「自分の能力を発揮させてくれるのは、この人だ」と劉備に対して思ったのかも知れません。

劉備と合流

曹操は馬超や韓遂を潼関の戦いで破り、劉璋は曹操が漢中の張魯討伐を行うのではないか?と不安になります。

ここで張松が劉璋に配下の龐羲や李異の行動を問題視し「劉備の助けが必要」と進言しました。

黄権王累、劉巴などは劉備を迎え入れる事に反対しますが、劉璋は聞き入れず法正に数千の兵を与え迎えとしました。

法正は劉備と会うと、次の様に進言しています

法正「将軍(劉備)の英才を以って、惰弱な劉璋に付け込むべきです。

張松は益州の股肱の臣下ではありますが、内部で呼応してくれる手筈となっております。

益州を取ったら、その地の豊かな富を享受し、険しい地形を頼りとしてください。

富と地形を根本とすれば、功業を成すのは容易いことです」

法正の言葉を見ると分かる様に、既に心は劉璋にはなく劉備にあった事が分かるはずです。

正史三国志の先主伝には「法正は劉備に益州を取る為の策を述べた」とあります。

法正は劉璋政権の内部事情に精通しており、全て劉備に暴露してしまったのでしょう。

劉璋側には友人の張松がおり、劉備の側には法正がいた事から、張松と法正で密に連絡を取り劉備に益州を取らせる為に動く事になります。

劉備は法正の進言に従い西に向かいました。

尚、正史三国志には張松と法正について「正しい君臣のあり方ではなかった」とも記載がありますが、劉璋への態度を見るにあたっているとも言えるでしょう。

益州平定戦

劉璋と劉備は涪城で会見しますが、この時に張松、法正、龐統などは劉璋を襲撃すべきと意見しました。

しかし、劉備は実行せず、劉璋から物資を受け取ると北上する事になります。

この時に劉備はゆっくりと北上しましたが、本当に張魯を討伐するつもりではないか?と考えた人もいる様です。

尚、龐統と法正ですが彭羕を推挙しました。

劉備は龐統、法正の推薦とあり彭羕を重用しましたが、後に彭羕は謀反を口走り処刑されています。

彭羕も性格的に問題があり、法正は気にしなかったかも知れませんが、後に彭羕の性格が問題視されたわけです。

劉備の入蜀ですが、張松の兄である張粛が計画を劉璋に密告した事で、劉備と劉璋は対立する事になります。

この時に、劉璋配下の鄭度が焦土作戦を進言し、それが劉備の耳に入ると恐れ法正に相談しました。

法正は「鄭度の焦土作戦を劉璋が聞き入れない」と述べ、実際にその通りになっています。

法正が内部事情を劉備にばらしてしまったのか、劉備軍は各地で劉璋の軍を圧倒しました。

劉璋側の李厳が劉備に寝返るなど、戦局は圧倒的に劉備が有利だったわけです。

こうした中で、劉備軍は劉循張任が籠る雒城を包囲しますが、この時に法正は劉璋に手紙を送っています。

法正の手紙を要約すると下記の通りになります。

讒言などもあり劉璋の元には戻れなくなったが、劉璋のやり方にも問題がある。

持久戦に持ち込んで劉備側の食料が切れる事を期待しても無駄である。

降伏した方が賢明

さらに、張飛が成都に向かって進撃しており、呉の孫権配下の甘寧や李異も後続部隊になっているから、劉璋に勝ち目はないと手紙で伝えました。

ただし、呉の孫権が甘寧や李異を益州に本当に差し向けたのかは不明であり、劉璋の戦意を挫く為の嘘も混ざっている様に思います。

尚、法正が劉璋へ送った手紙は法正伝の多くの紙面を割いている状態です。

法正の手紙にどれほどの効果があったのかは不明ですが、雒城が陥落し成都も包囲され劉璋は降伏しました。

法正の活躍もあり劉備は入蜀を成し遂げたわけです。

許靖の処遇

劉璋の蜀郡太守である許靖が、城壁を乗り越え、劉備軍に投降しようとしますが、劉璋に見つかり捕らえられた事件がありました。

劉璋は許靖を捕えはしましたが、劉備軍に成都が包囲されている事もあり、許靖を処罰しなかったわけです。

劉璋は降伏しますが、劉備は許靖の事を聞き知り軽く扱おうとしますが、法正は次の様に述べ劉備を諫めています。

法正「今の天下には虚名でありながら、実質を伴っていない者がおり、それが許靖となります。

しかし、現在のご主君(劉備)は大業を始めたばかりであり、天下の一人一人に説明するわけにも行かないでしょう。

それにも関わらず、許靖の虚名は四海の中で広まっているのです。

ご主君が許靖を軽く扱ったのであれば、天下の人々は賢者を蔑ろにしたと感じます。

それならば、許靖に敬意を持ち丁重に扱い、世間の目をくらますべきです。

戦国時代に燕王が郭隗を待遇したのを真似るのが良策となります」

許靖の虚名を利用しようとするところが、法正の謀臣たる由縁なのでしょう。

劉備は法正の進言に従い、許靖を左将軍長史に任命し、後には太傅となり、劉備が皇帝になった時には司徒としました。

劉備が後に許靖を司徒にまで任命した事を考えると、法正が言った様に許靖を礼遇するのは効果があったと考えるべきでしょう。

尚、法正の口から出た郭隗は燕の昭王の人材優遇策で豪邸を建てて貰った人物であり「隗より始めよ」の語源になった人でもあります。

蜀郡太守

正史三国志によれば、劉備が益州を奪うと「諸葛亮が手足に当たる補佐役となり、法正が策謀を預かる相談役となり、関羽、張飛、馬超らが爪牙の臣となった」とあります。

さらに、張飛伝には「益州の平定が終わると諸葛亮、法正、張飛、関羽に金五百斤、銀千斤、銭五千万両、錦千匹を賜わった」と記録されています。

益州攻略戦において劉備は法正の功績を「最上級」だと認め、功績に報いた結果だと言えるでしょう。

劉備は法正を楊武将軍、蜀郡太守に任命しました。

法正は劉備政権において重きをなした事は言うまでもありません。

報いの精神

劉備が益州を取った後に、法正の性格をよく現わした逸話があります。

法正は権力の中枢に入ると「過去に加えられた僅かな恩恵や少しの恨みにも全て報復した」とあります。

さらに、自分を非難した者数人を勝手に殺害したとあり、恨みのある者に対し容赦しなかったのでしょう。

過去に劉璋に自分を非難した者の中で、法正により命を落とした者もいたはずです。

記録に書かれる辺りは、法正は法を度外視して個人の裁量で処刑してしまったり、酷吏の如く刑を加えたのかも知れません。

ただし、法正の様な行動はの宰相となった范雎にも見られる行動であり、決して法正だけが特別ではないとする指摘もあります。

尚、法正が蜀郡で余りにも好き勝手やる事から、諸葛亮に訴え法正の権限を抑える様に劉備に進言すべきだと述べた人がいました。

しかし、諸葛亮は劉備が荊州の公安にいた時に、曹操、孫権、孫尚香により気苦労が堪えなかったと述べ「法正が劉備を自由にしてくれた」と述べ取り合わなかった話があります。

諸葛亮は法に厳格でしたが、法正に対しては目をつぶったとも言えるでしょう。

ただし、諸葛亮の法正に対する言葉を孫盛などは、国の正道を乱す行為として批判しています。

蜀科の制定

伊籍伝によれば、蜀科という法律を諸葛亮、法正、李厳、劉巴、伊籍の五名が中心となり制定した話があります。

蜀の法律制定など内政面でも法正は活躍があったのでしょう。

尚、蜀記の郭沖の話では、諸葛亮が厳格な刑罰を行い、法正が劉邦が秦に入った時を例に出し、刑罰を緩める様に諫めた話があります。

しかし、諸葛亮はなぜ刑罰を強める必要があるのか説明し譲りませんでした。

この話では法正は刑罰を緩める様に進言していますが、法正が生きていると言う事は、劉備が生きている時代の話であり、矛盾点があると裴松之は指摘している状態です。

穆皇后を娶る様に進言

穆皇后は劉焉の子である劉瑁に嫁いでいましたが、未亡人となっていました。

群臣らが劉備に呉懿の妹である穆皇后を、劉備に娶る様に進言した話があります。

劉備は劉焉や劉瑁が同姓である事を理由に嫌がりますが、法正は晋の文公と子圉を例にあげ劉備を説得しました。

劉備も法正の進言を聞き入れ穆皇后を娶る事になります。

余談ですが、子圉は秦に人質に行っており、秦の穆公の娘を妻としました。

子圉は父親の秦の恵公が亡くなると、晋に無断で逃げ帰り晋の懐公として即位します。

後に秦の穆公は重耳がやってくると、子圉の妻だった女性を重耳に娶らせ、重耳が晋に入るのを助けています。

法正は細かな所を気にすると、好機を逃すと言いたかったのでしょう。

漢中争奪戦

劉備への進言

正史三国志によると建安22年(217年)に法正は劉備に次の様に進言しました。

法正「曹操は一度行動を起こしただけで張魯を降し漢中を平定したのに、余力を以って巴・蜀を手に入れる事をしませんでした。

今の漢中は夏侯淵と張郃が守備しているだけであり、曹操は北に帰ってしまいおりません。

これは曹操の智謀が足らなかったわけではなく、内部に心配事があった為です。

漢中にいる夏侯淵や張郃の才能を見るに、国家の将帥として荷いきれていません。

軍勢をこぞって出撃させ、討伐に赴けば必ず勝つ事が出来ます。

漢中を手に入れた後に、農業を推奨し備蓄を行い隙をうかがえば良いでしょう。

上手くいけば仇敵を覆す事も出来ますし、王室を尊崇する事も出来ます。

普通でも涼州や雍州を侵食し、領土を拡張する事が出来るのです。

失敗したとしても要害を守り持久戦に持ち込む事が出来ます。

これは天が与えた好機であり、これを見過ごしてはなりません」

法正は曹操がいない間に、夏侯淵と張郃が守る漢中を手に入れる様に進言しました。

法正が状況を客観的に分析した結果だとも言えます。

曹操が漢中の張魯を降伏させた後に、司馬懿は益州に侵攻する様に進言したのに、曹操は光武帝に倣い「隴を得て蜀を望む」の言葉を用いて巴蜀に兵を向けませんでした。

しかし、実際には法正の言う様に献帝がいる許昌や本拠地の鄴や北方などに、何らかの問題があり兵を引いたのかも知れません。

尚、重要都市である長安と漢中の間には秦嶺山脈があり、移動及び補給が非常に難しい状態です。

それらも考えた上で、法正は劉備に漢中が取れると進言したのでしょう。

劉備は法正の進言を聞き入れ、漢中に兵を向けました。

漢中を奪取

漢中争奪戦では法正は劉備と共に北上し、代理の蜀郡太守として楊洪が務めた話があります。

楊洪は見事に蜀郡太守を務めあげる事になります。

漢中争奪戦では張郃らと戦い、最終的に定軍山の戦いが勃発しました。

定軍山の戦いでは法正が状況をよく見定め「ここで攻撃すべきです」と進言した話があります。

劉備は法正の進言を聞き入れ、黄忠に命じて夏侯淵に攻撃を加えました。

これにより夏侯淵は討ち取られ、漢中争奪戦は劉備の勝利に終わっています。

法正は漢中争奪戦において絶大なる功績を挙げたとも言えるでしょう。

尚、曹操は夏侯淵を助ける為に漢中に向かっていましたが、法正の話を聞くと、次の様に述べた話があります。

曹操「玄徳(劉備)にこの様な策が思いつくはずがない。

誰かに教わったと、儂は最初から考えていた」

曹操も法正の能力の高さを認めた事になるでしょう。

ただし、裴松之は曹操の発言を「苦し紛れの言葉」だったと見解を述べています。

法正の諫め

正史三国志の注釈に出所不明の話として、次の逸話があります。

劉備が曹操の軍と戦った時に形勢不利となり、退却しなければならなくなりました。

しかし、劉備は腹を立てており、退却しようとしませんでした。

この時の劉備はかなり気分を害していたのか、誰も劉備を諫める者がいなかったわけです。

こうした中で法正が劉備の前に立ちはだかる事になります。

劉備は法正に向かって「孝直よ。矢を避けよ」と言うと、法正は次の様に述べました。

法正「明公(劉備)が自ら矢石の中におられるのです。つまらぬ男なら当たり前でしょう」

劉備は法正の言葉の意味を理解し「孝直よ。儂はお前と一緒に引き上げる事に致す」と述べ、法正と共に退却しました。

この話はいつの話なのか書かれていません。

しかし、劉備の配下に法正がいて曹操の軍と戦ったのは、漢中争奪戦のみであり、定軍山の戦いの時の逸話だとされています。

ただし、この話が真実なのかは不明です。

法正の絶頂期

劉備は長年に渡り曹操に負け続けていましたが、法正の活躍もあり漢中の地を手に入れました。

念願であった曹操から土地を奪う事に成功したわけです。

漢中の地は漢の高祖劉邦が項羽から封じられた地でもあり、漢王朝の発症とも言える地でした。

それを考えると、劉備にとって漢中を手に入れた意味は非常に大きかったと言えます。

劉備は漢中の地を手に入れると、漢中王に即位しますが、劉備を漢中王に推挙した人物の中に「揚武将軍の臣法正」の名が見えます。

下記が正史三国志に記載されている劉備を漢中王に推挙した人材です。

馬超許靖龐羲射援諸葛亮関羽
張飛黄忠頼恭法正李厳

劉邦は漢中王になると、絶大なる功績を挙げた法正を評価し尚書令、護軍将軍に任命しました。

ここにおいて法正は劉備政で、最も尊貴な身分になったと伝わっています。

劉備が最も寵愛したのは法正だったと考える人もいる位です。

ただし、味方によっては劉備政権には荊州と益州の人材が多く益州派閥の長が法正で、荊州派閥の長を諸葛亮とした話があります。

劉備としては自分よりも強大な者が政権内に現れる事を危惧し、法正と諸葛亮の両方を重用し、牽制させたなどの説もあると言う事です。

劉備が漢中王になった時は、劉備の全盛期でもあり、法正の絶頂期でもあった事でしょう。

しかし、法正の絶頂期は呆気ない終わり方を迎えます。

法正の最期

法正は劉備が漢中王になった翌年に死去したとあります。

法正は蜀の尚書令であったはずであり、絶頂期で亡くなってしまったとも言えます。

正史三国志には法正が亡くなった時の年齢を記されており、45歳だったと書かれていました。

劉備は法正の死がショックであり、何日も泣き続け涙を流し、法正には翼侯の諡号を賜わっています。

趙雲伝によれば、劉備が生存中に諡号を与えたのは法正だけであり、関羽張飛ですら諡号を与えてはいません。

それらを考えると、劉備が最も愛した臣下は法正だったと見る事が出来ます。

法正は翼侯の名前の通り、劉備の翼となり天に浮上させたとも言えるでしょう。

法正が亡くなると劉備は劉巴を尚書令とし、法正の子である法邈に関内侯の爵位を与え厚遇しました。

楊戯の季漢輔臣賛には、次の記述があります。

翼侯は優れた策謀家であり、世の中の盛衰を予測し、主上に臣礼を取り、意見を述べ諮問を受けると、少し考えるだけで正しく計を立てた。

事態を観察し、変化の兆しを察知した。

法孝直を讃う

法正が生きていれば夷陵の戦いで負けなかった??

諸葛亮と法正は性格的にはかなり違っていましたが、お互いを認め合っていた話があります。

諸葛亮は法正の智謀を高く評価していました。

後に荊州の関羽が呂蒙らに討たれ、劉備は関羽の敵討ちと称し、呉に攻め入ろうとしましたが、群臣が諫めても全く聞き入れられなかったと伝わっています。

劉備は呉を攻撃しますが、夷陵の戦いで陸遜に敗れ白帝城に逃れました。

劉備が敗れた話を聞いた諸葛亮は、次の様に述べています。

諸葛亮「法孝直が生きていたら、主上(劉備)に進言し東征を抑える事が出来たであろう。

たとえ東征を行ったとしても、むざむざと敗戦になる事も無かったはずだ」

法正の能力の高さと劉備の信頼が厚さが分かる逸話であると同時に、諸葛亮の無念さも伝わってきます。

劉備が亡くなり劉禅の時代になると、諸葛亮が政務を見る事になりますが、法正がいれば諸葛亮ももっと楽に仕事が出来たのかも知れません。

戦略眼のある法正が世を去ってしまったのは、蜀にとって痛手だったはずです。

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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