
| 名前 | 陳の利公 |
| 別名 | 厲公? |
| 姓・諱 | 嬀躍 |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前700年 |
| 在位 | 紀元前706年ー紀元前700年 |
| 一族 | 父:桓公 兄:免 弟:荘公、宣公 子:陳完 |
| コメント | 史記と春秋で記述が相違がある。 |
陳の利公は陳の桓公の子です。
兄には太子免がおり、陳の荘公や陳の宣公は陳の利公の弟になります。
兄の免は叔父の陳公他に殺害されました。
陳の利公ら三兄弟は蔡の人と結託し、陳公他を殺害しています。
陳の利公は君主となりますが、子の陳完は陳の後継者になる事が出来ず、後に斉に出奔する事になります。
陳完が斉の田斉の祖でもあります。
陳では利公が亡くなると、陳の荘公が即位しました。
尚、史記と春秋左氏伝では陳の利公の記述に食い違いがあり、合わせて解説します。
陳の利公・厲公問題
史記を見ると、次の記述があります。
※史記・陳杞世家より
桓公の弟の佗は母親が蔡の公女であり、蔡の人は佗の為に五父及び桓公の太子の免を殺害して、佗を立てた。
これが厲公である。
これが紀元前707年の事であり、史記の記述を普通に読めば、陳の厲公は佗(陳公他)になります。
史記では陳公他の在位は7年あった事になっていますが、春秋を読むと、次の記述が存在します。
※春秋 魯の桓公6年より
蔡人、陳佗を殺す。
魯の桓公の6年は紀元前706年であり、春秋の記述を見る限りでは、陳公他の在位期間は2年という事になり、史記の記述の様に7年とする記述とは整合性が取れません。
陳公他が亡くなると、史記では陳の利公が即位しており、実際には陳公他には諡がなく、陳の利公と厲公が同一だとも考えられる様になっています。
春秋左氏伝では陳佗(陳公他)が亡くなった後に、誰が陳の君主になったのかは書かれていませんが、春秋の魯の桓公の12年(紀元前700年)に、陳侯躍(陳の利公)が亡くなった記述があり、陳の利公が陳の君主になった事が分かります。
尚、史記を見ると陳の厲公の2年に陳完が生まれた記述があります。
陳完は陳の利公の子だと考えられています。
陳の利公が立つ
史記の陳杞世家には、陳の利公が即位した経緯が書かれています。
ここでは史記の陳の厲公の記述を陳公他だと考えて記述していきます。
陳公他は蔡の公女を娶り、その公女が蔡の人と私通したとあります。
陳の君主の妻が蔡の人と私通するのは問題行動であり、私通した者は事が露見する事を畏れたのではないでしょうか。
陳公他も蔡に何度も行き放蕩したとあります。
陳の桓公の子の躍、林、杵臼の三人は兄で太子の免が、陳公他に殺害された事を恨みに思っていたと感じました。
蔡の人で陳公他の妻と私通していた者は、躍、林、杵臼の三兄弟と繋がり、陳公他の排除を考えたとみる事が出来ます。
躍、林、杵臼は蔡の人と結託し、史記にある様に美女を使って陳公他を誘惑し殺害してしまったのでしょう。
陳公他が亡くなると、年長の躍が陳の君主として立ち、陳の利公となった様に感じました。
陳の利公の最後
史記を見ると、陳の利公は、即位して五カ月で亡くなり、弟が即位し陳の荘公が立った事になっています。
しかし、実際には陳公他は紀元前706年に亡くなり、陳の利公が即位したと考えられており、陳の利公の在位期間は紀元前706年から紀元前700年が正解でしょう。
春秋を見ると紀元前701年に、次の記述があります。
※春秋より
柔、宋公、陳侯、蔡叔に会し、折に盟す。
上記の記述の宋公は宋の荘公であり、陳侯は陳の利公で、蔡叔は蔡の桓公が派遣した者なのでしょう。
この記述から陳の利公が宋や蔡と友好を深めている様子が分かるはずです。
そして、宋や蔡との盟約が終わり帰還し、翌年の紀元前700年に陳の利公は世を去ったのでしょう。
陳の利公が亡くなると、弟の林が陳の荘公として即位しました。
陳の利公には陳完などもいた様ですが、幼かった為か即位せず、弟の陳の荘公が立つ事になります。
| 先代:陳公他 | 利公 | 次代:荘公 |