三国志

陳到(ちんとう)は謎多き勇将

2021年10月20日

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宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

名前陳到(ちんとう) 字は叔至
生没年不明
時代後漢末期、三国志
勢力劉備、劉禅(蜀)
年表194年頃 劉備の配下となる
 223年 永安都督・征西将軍となる
 226年 上司の李厳が江州に移るが陳到は永安に残る
コメント趙雲に次ぐ武勇の持ち主と伝わっているが謎が多い。

陳到は劉備劉禅に仕えた人物であり、趙雲に次ぐ武勇を持っていたとも考えられています。

正史三国志には、陳到が李厳の管理下に置かれた武将だった事くらいの実績しかありません。

しかし、呉との国境付近を守った武将でもあり、諸葛亮などは陳到を高く評価していたとも考えられています。

正史三国志では簡略な記述しかありませんが、季漢輔臣賛や太平御覧で内容を補って記載しようと思います。

残念ではありますが、陳到は三国志演義では登場しません。

尚、上記はコーエーテクモゲームスさんの三国志の陳到の画像ですが、凛々しく描かれている事が分かります。

この記事の出典:ちくま学芸文庫(正史三国志5巻)、太平御覧、掲載されている動画

陳到の動画

ゆっくり解説者さんである、危険な鬼太郎さんが作成した陳到の動画です。

私もこの動画を見て太平御覧の陳到の存在を知りました。

劉備に仕える

季漢輔臣賛によれば、陳到は汝南の出身であり、劉備が豫州にいた時に仕えた人物だとあります。

劉備は公孫瓚の配下となっていましたが、曹操に攻められた徐州の陶謙を救う為に、田楷と共に陶謙の援軍に行きました。

曹操が撤退した後に、陶謙は豫州刺史に劉備を推挙しており、その頃に陳到は劉備に仕える事になったのでしょう。

同時期に孫乾なども劉備に仕えており、孫乾と同じ頃に陳到も劉備に仕える様になったとも考えられています。

白耳兵を率いる

太平御覧(たいへいぎょらん)によれば、陳到は白耳兵を率いたとあります。

曹操軍には曹純が率いた精鋭部隊である虎豹騎があり、劉備には白耳兵があったともされています。

白耳兵は劉備軍の最精鋭部隊であり、白耳兵の責任者である陳到は、かなりの武勇を持っていたのではないかとも考えられているわけです。

最精鋭部隊を任される辺りが、劉備の陳到に対する信頼感が大きさが分かるような気がします。

呉に備える

季漢輔臣賛の記録によれば、陳到は建興の初年に、永安都督、征西将軍、亭侯に封じられたとあります。

建興の年号は劉禅の初年であり、陳到は劉禅の代でも重用された事が分かります。

尚、劉備は夷陵の戦いで呉の陸遜に大敗し、白帝城(永安)で崩御しています。

陳到は永安都督に任命されている事から、呉との最前線に配置された事になるでしょう。

蜀は劉禅の時代は、鄧芝が呉の孫権と同盟を締結させた事で、一貫して蜀と呉は同盟を結んでいます。

呉と蜀は同盟を結んではいますが、万が一への備えは必要であり、陳到が永安に配置されたはずです。

後世の私達から見れば、呉は蜀と同盟を結び続けると考え、陳到が戦いもない楽な職務だと思えるかも知れません。

しかし、呉の孫権は過去に呂蒙の策を採用し、蜀との同盟を破棄し、関羽を討ち滅ぼしてます。

それを考えると、呉は油断できる相手ではなく、陳到の責任も大きかった事でしょう。

ただし、陳到は永安都督、征西将軍ではありましたが、陳到の上司として李厳がいた話があります。

諸葛亮の北伐

正史三国志の李厳伝によると、諸葛亮は北伐を行う為に、漢中に軍を移動させる事になります。

この時に、諸葛亮は李厳を永安から江州に配置換えしました。

諸葛亮は李厳を信頼しており、自分の代わりに李厳に後方を任せようとしたのでしょう。

李厳は江州に移動しますが、この時に陳到を永安に駐屯させ、李厳の配下においた記述があります。

因みに、正史三国志の陳寿が書いた部分では、李厳が江州に移動し、永安に陳到を駐屯させ、李厳の支配下に置いた事しか記述がありません。

それを考えると、裴松之が注釈として季漢輔臣賛を残さなければ、陳到は名前だけの人物となっていた事でしょう。

諸葛亮は陳到を信頼していた

太平御覧によれば、李厳は諸葛亮に対し「永安の守備が弱すぎる」と文句を言った話があります。

しかし、諸葛亮は陳到が率いている白耳兵は劉備が率いていた最精鋭部隊であり、兵士達は西方の精鋭ばかりが揃っていると述べています。

李厳は陳到が率いる白耳兵を低く評価していたかも知れませんが、諸葛亮は陳到や白耳兵を高く評価していたのでしょう。

諸葛亮が陳到に対し、如何に信用していたのかが分かります。

陳到は劉備が陶謙の元にいた時から、仕えていた人物であり、諸葛亮も陳到が長坂の戦いや劉備の南郡攻防戦などでの活躍も知っていたのでしょう。

それに対し、李厳は劉備が劉璋から益州を奪う段階で、臣下となった者であり、陳到がどれ程の武勇を持っていたのか、実際に見ていなかったのかも知れません。

趙雲に匹敵する武勇

陳到は、季漢輔臣賛によれば、次の記述が存在します。

「名声・官位ともに趙雲の次にあり、どちらも忠節勇武な人物として讃えられた。」

この記述を見ると、陳到が趙雲に匹敵するだけの武勇を持った人物と言う事になるでしょう。

劉備の親衛隊の中では、1,2を争う人材だった事も分かります。

正史三国志は簡略な記述が大半を占めており、その中でも蜀の記述はかなり少ないと言えます。

そうした事情もあり、陳到の名は世の中に伝わっていませんが、実際には、かなりの優れた能力を持った人物だったとも考えられるはずです。

陳到の記録が少ないのは、残念としか言いようがないでしょう。

尚、一つの説として、趙雲の活躍の一部は陳到の活躍だったのではないか?とも考えられています。

因みに、陳到は西暦229年頃に病死したとも言われています。

西暦229年は趙雲が亡くなった年でもあり、同列の武勇を誇っていると考えられている、陳到と趙雲が同時になくなっているのは感慨深い所でもあります。

陳到の詳しい動画

ゆっくり解説者さんである、装甲猫さんの陳到に関する動画は、かなり詳しく描かれています。

前後の背景なども見ながら、陳到に関して詳しく知りたい人にもお勧めです。

コーエーテクモゲームズの三国志

三国志14統率76武力72知力65政治50魅力67

正史三国志では趙雲に次ぐ武勇の持ち主とする記載があるが、ゲーム内では陳到の能力値は趙雲に比べると大幅に劣る。

ただし、三国志演義では趙雲が圧倒的な武勇を誇り、蜀の五虎将軍にも選出されている事で、仕方がない部分もある様に思う。

それでも、陳到の武勇に関しては、最大限の評価を制作者側でしたように思います。

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