鎌倉時代

鎮西探題は幕府が九州を統治する機関

2025年1月12日

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宮下悠史

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名前鎮西探題
時代鎌倉時代
年表1293年 鎮西探題が九州に設置される
1333年 鎮西探題の滅亡
コメント鎌倉幕府の九州を統治する為の機関

鎮西探題は鎌倉幕府が九州の御家人を統括する為に発足した機関です。

2度の元寇が終わりましたが、元のフビライハンの方でも3度目の元寇を計画していた事もあり、鎌倉幕府は防備を固める必要があったわけです。

鎌倉幕府は九州の1286年に九州の有力諸将を中心に鎮西談義所を発足しました。

しかし、元や高麗から圧力があった事で、北条一門の北条兼時と名越時家が鎮西探題に就任し九州全域を統括する事になります。

幕府は大国元に備える為に鎮西探題を設置しましたが、幕府の九州支配を強める結果になったと言えるでしょう。

鎮西探題は発足された時は、2人制を採用しましたが、以降は北条一門が中央から任命され長官になっています。

鎌倉幕府が滅亡する時に、鎮西探題は少弐氏、大友氏、島津氏らの攻撃を受けて滅亡しました。

鎮西探題の始まり

鎮西探題の前身の組織が1286年に発足された鎮西談義所です。

鎮西談義所では九州の諸勢力である少弐氏、大友氏、宇都宮氏、渋谷氏が長官となっていました。

しかし、元や高麗から信書が届いた事もあり、幕府では不安が拡がり中央から北条兼時と名越時家を派遣しています。

鎌倉幕府としては九州の諸将の合議制よりも、中央から派遣した北条兼時と名越時家の方が幕府中枢と連絡を取り物事を円滑に動かせると判断したのでしょう。

1293年に北条兼時と名越時家の下向が鎮西探題の始まりだと言えるでしょう。

鎮西探題の役割

鎮西探題に就任した北条兼時と名越時家は九州全域に及ぶ軍事指揮権を与えられました。

元や高麗の軍が攻めて来た場合は、北条兼時と名越時家が九州の守護や御家人に軍勢催促を行い軍を指揮し戦う事になります。

さらに、鎮西探題では引付を設置し所務沙汰の聴訴及び審理権を行使する役割を与えられました。

ただし、鎌倉幕府の中央は所務沙汰の裁断権(決定権)を与えなかった話があります。

北条貞時は元に備えると言っても、鎮西探題に多くの権限を与えすぎてしまうのは危険だと考えたのでしょう。

尚、正安元年(1299年)に鎮西探題でも評定衆と引付衆が設置されました。

1300年には裁判の基本方針や訴訟手続きの規定が行われ、鎮西探題の足元が整備されて行く事になります。

鎮西探題は軍事や訴訟以外の権限として、寺社に対する統治権や九州の武士に対する所領安堵や恩賞地分配分などの権限も与えられています。

ただし、鎮西探題や引付、評定衆などの任命権は鎌倉幕府の中央が保持し続けており、鎮西探題は六波羅探題と同様に鎌倉幕府中央の下部組織だったと言えるでしょう。

鎮西探題の滅亡(鎌倉時代)

1296年に鎮西探題に裁断権が与えられた事もありましたが、10年ほどで剥奪されています。

尚、初代鎮西探題の北条兼時と名越時家は永仁3年(1295年)に解任されていますが、鎮西探題の長官には代々北条氏の一門が就任する事になります。

北条兼時や名越時家の後の鎮西探題は金沢実政がなっており、鎮西探題二人制は廃止されています。

鎮西探題は金沢政顕、金沢種時、北条随時、赤橋英時と続きました。

赤橋英時の時代に元弘の乱が九州にまで波及し、乱を起こした菊池武時は討ち取りますが、少弐貞経、大友貞宗、島津貞久らに攻められ鎮西探題は滅亡しています。

鎌倉幕府の歴代鎮西管領

名前就任退任
北条兼時・名越時家12931295
金沢実政12961301
金沢政顕13011315
金沢種時13151316
北条随時13171321
赤橋英時13211333

足利直冬と鎮西探題(室町時代)

鎮西探題ですが、室町時代に足利直冬が就任した話があります。

室町幕府の内部争いである観応の擾乱が勃発すると、長門探題の足利直冬は父親の足利尊氏から出家を命じられました。

しかし、足利直冬は拒否し九州に向かい恩賞宛行や所領安堵を行い九州の武士たちの心を掴む事になります。

室町幕府では鎮西管領の一色道猷がいましたが、九州での戦いに敗れて長門に落ち延びています。

こうした中で直冬の義父の足利直義が打出浜の戦いで勝利すると足利直冬は鎮西探題に就任しました。

しかし、足利義詮と足利直義の対立もあり、足利直義が関東に移ると足利尊氏及び義詮は足利直冬の鎮西探題を解任しています。

足利直義が足利尊氏との戦いで敗れて亡くなると、足利直冬も九州での影響力を減退させ中国地方に移る事になります。

足利直冬が鎮西探題であった時期は極めて短いと言えるでしょう。

鎮西探題の動画

鎮西探題の滅亡を題材にしたゆっくり解説動画です。

この動画及び記事は戎光祥出版の歴史研究716号及び図説鎌倉幕府をベースに作成しました。

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