名前 | 少弐貞経(しょうにさだつね) |
法名 | 妙恵高鑑 |
生没年 | 1272年ー1336年 |
一族 | 父:少弐盛経 兄弟:資信、経清、朝日資法 |
子:少弐頼尚、馬場経員 | |
年表 | 1333年 鎮西探題を滅ぼす |
1334年 豊前、筑前守護となる | |
1336年 有智山城で最後を迎える | |
コメント | 風見鶏を繰り返した。 |
少弐貞経は少弐氏の第五代当主であり、少弐盛経の子でもあります。
少弐貞経の「貞」の文字は北条貞時の偏諱により、少弐貞経を名乗ったと考えられています。
鎌倉時代末期に菊池武時は鎮西探題の北条英時を攻撃しますが、少弐貞経は大友貞宗と共に鎮西探題に味方し菊池武時を討ち取っています。
しかし、2か月後には変心し少弐貞経は大友貞宗や島津貞久らと共に鎮西探題を攻撃し北条英時は最後を迎えました。
後醍醐天皇により親政が始まると豊前や筑前の守護に任命されています。
後に建武の乱が勃発すると足利尊氏に味方しますが、嫡男の少弐頼尚が足利尊氏を迎えに行っている隙に菊池武敏ら肥後勢に有智山城を攻撃され最後を迎えました。
少弐氏は不忠に思われがちですが、当時の武士は風見鶏が普通だったと言えるでしょう。
鎮西探題に味方する
1333年に不穏な空気を察知したのか鎮西探題の長官である北条英時が博多に九州の御家人たちを集めました。
この中には少弐貞経だけではなく大友貞宗や菊池武時もいたわけです。
一つの説として、この時には菊池武時、少弐貞経、大友貞宗の間で密約が出来ており、鎮西探題を滅ぼす約束が出来上がっていたともされています。
菊池武時は鎮西探題を滅ぼすべく挙兵し、少弐貞経や大友貞宗に味方になる様に要請しました。
しかし、少弐貞経や大友貞宗は「機が熟さず」と考えたのか、菊池に味方せず鎮西探題の北条英時に味方しています。
少弐氏や大友氏の力を得た北条英時は菊池武時を返り討ちにしました。
これにより少弐氏は菊池氏に恨まれる事になります。
少弐貞経が菊池武時に味方しなかった事で、菊池氏との仲は険悪になったと言えるでしょう。
鎮西探題を襲撃
少弐貞経は鎮西探題に味方しましたが、2か月後には足利尊氏が六波羅探題を攻め滅ぼしたとする情報が入って来ました。
少弐貞経や大友貞宗、島津貞久らは結託し、今度は鎮西探題を攻撃したわけです。
これにより北条英時は最後を迎え鎮西探題は滅亡に至りました。
少弐貞経や幕府を裏切った理由ですが『六波羅探題が陥落し幕府方不利』の情報が入り、損得勘定で幕府を裏切ったと見られています。
これだけを言うと「少弐貞経は不忠者」に思うかも知れませんが、当時は「忠義よりも恩賞」が当たり前であり、少弐貞経だけを非難する事は出来ないはずです。
当時の武士は風見鶏が当たり前だったと言えるでしょう。
建武政権
後醍醐天皇により建武の新政が始まると、少弐貞経は上洛した事が分かっています。
少弐貞経は建武政権から豊前及び筑前の守護に任ぜられました。
九州では北条氏の残党が反乱を起こしますが、嫡男の少弐頼尚が反乱鎮圧に向かうなどしています。
少弐貞経は後醍醐天皇に上手く取り入り、後醍醐天皇も九州の抑えとして少弐氏に期待したのでしょう。
その後に少弐貞経は九州に戻る事になります。
少弐貞経の最後
後に足利尊氏が鎌倉で独立し、後醍醐天皇と対立しました。
この時に少弐貞経は足利尊氏に味方する事になります。
足利尊氏は近畿での戦いは北畠顕家らにより敗北すると、九州に落ち延びてきました。
少弐貞経は嫡男の少弐頼尚に多くの軍勢を授けて迎えに行かせています。
この隙をキャッチしたのが肥後の菊池武敏や阿蘇惟直らであり、少弐貞経が籠る有智山城を急襲しました。
菊池氏は鎌倉時代末期に菊池武時が少弐氏や大友氏に裏切られたと考えており、少弐氏を嫌っており有智山城を攻撃したのでしょう。
少弐貞経は菊池武敏らの攻撃に耐えきれずに自害しました。
これにより少弐貞経は最後を迎える事になったわけです。
少弐貞経の享年は65歳です。