エジプト先王朝時代 古代エジプト

エジプト先王朝時代は最初期のエジプト文明

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宮下悠史

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名前エジプト先王朝時代
コメント王朝が誕生する前のエジプト文明

エジプト先王朝時代はエジプト文明の黎明期であり、統一王朝が出来ていない時代です。

気候変動により砂漠のオアシスの民がナイル川付近に移動し、人口が増加しました。

エジプトには上エジプトに22のノモスが誕生し、下エジプトには20のノモスが誕生する事になります。

近年の研究ではエジプト先王朝時代の上エジプトと下エジプトでは、民族が違っていたのではないかと考えられています。

エジプト先王朝時代は一般的にはナルメル王が全てのノモスを統一し、エジプト第一王朝を建国した事で終りを告げました。

エジプトは初期王朝時代に入る事になります。

尚、エジプト先王朝時代の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。

先王朝時代とは何か

エジプト先王朝時代は、エジプト文明の最初期であり、ファラオによるエジプト統一が成される前のエジプト文明です。

エジプト王を指す「ファラオ」という言葉は、「大きな家」、つまり「王宮」を意味する言葉とされています。

また、ファラオという言葉は、エジプト第18王朝以降で使われた王の称号であり、初期のエジプト王は、ファラオとは名乗っていませんでした。

エジプトとメソポタミアを合わせた古代オリエントでは、メソポタミアにシュメール人がおり、アラビア半島にセム語系の民族、エジプトにはハム語系の民族がいました。

ノアの箱舟で有名なノアの長男・セムの子孫がセム語系の民族で、ノアの次男・ハムの子孫がハム語系の民族だったとされています。

さらに、ノアの三男はヤペテという人物で、彼の子孫がインド・ヨーロッパ語族になったと言われています。

セム語系やハム語系といった民族区分の概念は、聖書の記述に大きく依拠している側面があります。

今回はエジプト文明を考古学的な視点も踏まえてもう少し詳しく見ていきます。

気候変動と人々の移動

紀元前1万2千年のエジプトには、現在よりも温暖で湿潤な気候により緑があったとされています。

ナイル川の西に100キロ移動した場所にある、ナブタ・プラヤにも人が住んでいた痕跡があったそうです。

現在のエジプトはナイル川の付近に人口が集中していますが、紀元前1万2千年の段階では、ナイル川から離れた場所にもオアシスが点在しており、人口が分散していたことが分かっています。

しかし、紀元前7000年頃になると、気候変動によりオアシスが枯れていってしまいました。

そのため、砂漠のオアシスにいた人々は生活が出来なくなり、ナイル川の近辺に移住したと言われています。

元々ナイル川の近辺にいた人々と移住した人々が混ざり合い、集落が形成されていきました。

後でも触れますが、後の時代に上エジプトの勢力が下エジプトも統一し、初のエジプト王になったという説があります。

上エジプトと下エジプト

砂漠のオアシスの民の多くが上エジプトになだれ込み、先住民の上エジプト人との混血が進んでいきました。

人口が増えた事が原動力となり、エジプトを統一したのではないかと考えられています。

エジプトはナイルデルタ付近の下エジプトとナイル渓谷の上エジプトの二つに区分されます。

ナイル川は南から北に流れており、下流にあるナイルデルタが下エジプト、ナイル渓谷の部分が上エジプトとなります。

最近の研究により、上エジプトと下エジプトでは民族の系統が異なっていたことが明らかになりました。

下エジプトが地中海系、上エジプトがアフリカ系の民族であったと言われています。

新たな文化とノモスの誕生

紀元前4500年頃には、下エジプトに新石器文化であるメリムデ文化が誕生したと言われています。

同時期に、メリムデ文化の北にあるファイユーム地方でファイユーム文化が誕生しました。

上エジプトにも紀元前4000年頃にバダリ文化が誕生し、紀元前3500年頃にはナカダ文化も勃興します。

これらの文化には、農耕や牧畜が行われていた事が分かっており、メソポタミアから伝わったものであると言われています。

紀元前4000年頃には、ナイル川の周辺で農業共同体が多数出現しました。

これがノモスの原形だと言われています。

エジプトでは、ナイル川流域に点在する人々の居住地域を、行政的な区分としてまとめたものが「ノモス」と呼ばれています。

ノモスという語は、専門家によって「都市」「集団」「行政区分」などさまざまに訳されていますが、基本的にはナイル川周辺に形成された

町や地域共同体を指すものと考えてよいでしょう。

ナイルの恵み

エジプト文明の発展において、ナイル川は非常に重要であったと言えます。

エジプトでは雨がほとんど降らず、雨水を利用した天水農業を行う事が出来ませんでした。

エジプトはメソポタミアと違い天水農業は降水量が極端に少なく不可能でしたが、ナイル川が定期的に氾濫したため、大麦や小麦を育てる事が出来ました。

ナイル川は7月から10月に定期的に氾濫が起き、多くの人々を養うだけの食料も手に入ったとされています。

古代エジプト人は、自らの事を「ケムト」と呼んでいたそうです。

これは「黒い土の民」という意味で、古代エジプト人は、ナイル川から流されてくる黒土を誇りとしていたとされています。

一方で、砂漠の事は「赤い土」を意味するデシェレトと呼び、忌み嫌っていました。

「デシュレト」が英語で砂漠を意味する「デザート」になったとも言われています。

太陽暦・測地術の発明

ナイル川の氾濫は、インドから吹くモンスーンがエチオピア高地の山々にぶつかり、長雨が降る事で起こる事が分かっています。

古代エジプト人は、ナイル川が氾濫する仕組みは知らなかったものの、決まった時期にナイル川が氾濫する事は知っていました。

古代エジプト人が食料を得るためには、ナイル川が不可欠でした。

そのため、ナイル川の氾濫の時期を把握できるように、太陽暦が作られたと考えられています。

太陽暦は現在の日本においても使われています。

エジプト先王朝時代には既に、太陽暦が用いられていたとされています。

ただし閏年が設けられていなかったため、暦と季節のずれが徐々に生じるという問題もあり、後世にはユリウス暦や、現在使われているグレゴリオ暦へと改良されていくことになりました。

それでも、今日まで太陽暦が使われ続けていることを思えば、古代エジプト人が考案した太陽暦は、欠点を抱えつつもきわめて先進的で、偉大な発明だったと言えるでしょう。

ナイル川の氾濫は、大きな利益をもたらす一方で、洪水が引くと境界が流されてしまい、誰の土地が分からなくなってしまうということもあったようです。

そのため、氾濫が終わった後、土地の所有を明確にする必要が生じ、これが測地術につながったと言われています。

水位を測るナイロメーターという施設・装置もでき、これは後の世にファラオが管理するようになったと言われています。

ナイルの力は非常に大きく、古代エジプトにおいて150万人から200万人を、食べさせることができたと考えられています。

エジプトがローマ帝国の植民地であった際、ローマ帝国の食料の約4割はエジプトに依存していたそうです。

ヘロドトスの『エジプトはナイルの賜』という言葉は非常に的を射ていると言えます。

ミイラと埋葬文化

エジプトと言えばミイラをイメージする方も多いかもしれません。

ミイラはエジプト先王朝時代から存在していました。

メソポタミアでは「現在の生活こそが最も重要である」という現世的な信仰が主流だったのに対し、エジプトでは死後の世界や来世が存在すると考えられていました。

これは、ナイル川の氾濫によって荒れた土地が再び肥沃な大地としてよみがえる様子を見て、人間も死後に復活できるという価値観が育まれたためだとされています。

これが「肉体をミイラにしておけば、魂が戻ってきて復活する」という考え方につながりました。

エジプト先王朝時代からミイラは作られていたようなのですが、初めはミイラにされるのは王族や権力者だけであった可能性もあります。

また、エジプト人には死者を手厚く埋葬する習慣があり、ピラミッドの原形が先王朝時代からあったとされています。

エジプト先王朝時代の墳墓は多くが楕円形でした。

しかし、後期になると長方形の墳墓も多く造られるようになります。

初期の頃は墳墓が小さかったため、遺体が自然乾燥しやすく、人工的な処置を施さなくてもミイラ化が可能でした。

しかし、墓が大型化し密閉性が高まるにつれて遺体が腐敗してしまうことが判明し、その対策として人工的なミイラ作りの技術が発達していったとされています。

この人工ミイラの技術は、時代が下ると庶民の間にも広まって行きました。

エジプト先王朝時代の終焉

ナルメル王の登場

エジプト先王朝時代の末期になると、貧富の差が格段に現れ始める事になります。

こうした中でホルスの化身とされるナルメル王が、上エジプトと下エジプト、合計42のノモスを統一します。

これにより、エジプト第一王朝が誕生しました。

上エジプトのナルメル王がどの様にして、エジプトの全てのノモスを制圧したのかについては明確には分かっていません。

平和裏に統一したという説もあれば、群雄割拠の状況を武力で制した結果、ナルメル王がエジプトを統一したとする説も存在します。

ナルメル・パレットと呼ばれる遺物が発見されており、その表面には、左側に描かれたナルメル王が棍棒を振り上げ、

敵と思われる人物に打ちかかろうとしている場面が見られます。

この描写から、ナルメル王が軍事力を背景にエジプト統一を進めたと考える専門家もいます。

統一への道

ナルメル王がエジプトを統一するにあたっては、船を上手く利用したとする説も存在します。

ナイル川は流れが遅く常に北か北東から風が吹いていた為、帆があれば上流に上る事も出来たとされています。

そのため、ナイル川を上手く移動できたことが、エジプトの統一につながった可能性があります。

また、ナイル川は麦の生産に役立っただけでなく、輸送路としても使われていたと言われています。

エジプトを統一したとされるナルメル王については、史料による差異が大きく、スコーピオン・キングと呼ばれた人物と関連があるとする説があるなど、依然として不明な点が多く残されています。

初代王をめぐる謎

紀元前5世紀の歴史家であるヘロドトスによれば、初代のエジプト王(ファラオ)は、ミンという人物でした。

しかしながら、紀元前3世紀のエジプト人神官であるマネトの『エジプト史』によれば、古代エジプトの最初の王はメネスとなっています。

余談ですが、現在でも使われている、古代エジプトを31の王朝に分類するという方法は、マネトが使った手法でもあります。

マネトの原本である『エジプト史』は既に失われてしまっていますが、マネトの古代エジプトにおける功績は大きいと言えるでしょう。

紀元前1世紀の歴史家であるディオドロス・シクルスによる『エジプト史』でも、初代エジプト王は「メネス」となっています。

ディオドロス・シクルスは実際にエジプトに滞在した事が分かっています。

1世紀の段階では、エジプト人が初代エジプト王はメネスだと思っていました。

一方、エジプト第19王朝で書かれた王名表では、エジプトの初代の王はメニとなっています。

「メネス」と「メニ」は名前が似ている事から、同一人物だとも考えられています。

真実が何であったかは、未だに明らかになっていません。

オシリス神話との関連

エジプトに伝わるオシリス神話がエジプト統一と関わっているとする説もあります。

エジプト先王朝の時代から、何らかの神はいたはずであり、神と無関係という事はないはずです。

オシリスは地上で善政を行い、エジプト人に信頼され愛されていました。

弟のセトはそんなオシリスを嫉み、彼を罠に嵌めようとします。

セトの策略により、オシリスは木箱に入れられ、ナイル川に流されてしまいました。

オシリスが入った木箱はナイル川を下り、レバノン共和国のビブロスまで流されたとされています。

オシリスの妻である女神イシスは、夫の遺体を探し出してエジプトへ持ち帰りました。

しかし、それを知ったセトは激怒し、オシリスの遺体をバラバラに切り刻んで、エジプト各地へとまき散らしてしまったと伝えられています。

バラバラにされたオシリスの遺体の断片が、エジプト各地に散らばったという神話から、後世には「その断片こそが42のノモスを象徴している」と解釈する説もあります。

イシスはオシリスの遺体を探し集めましたが、男性器だけは魚に食べられてしまい、取り戻すことができませんでした。

それにもかかわらず、イシスはオシリスとの間に子を宿し、こうして誕生したのがホルスであると伝えられています。

後にホルスはセトと戦う事になり、最後は女神イシスの策謀もあり、オシリスは冥界の王、ホルスは現生の王、セトは砂漠の王となりました。

この神話がエジプト統一に関する真実を映し出しているとする主張も存在します。

エジプト第一王朝が誕生する直前のエジプトでは、ホルスを守護神とする部族と、セトを守護神とする部族との間で、天下分け目の戦いがあったそうです。

結果ホルスを守護神とする部族が勝利し、エジプト第一王朝を建国したとされています。

現在、初代エジプト王として最も有力視されているのは、最初に述べたナルメルです。

先に紹介した「ナルメルのパレット」が1898年のヒエラコンポリスで発見され、注目されています。

ただし、ナルメルに関してはメネスやメニと同一人物であるなど、多くの説が提唱されており、その詳細は依然として不確かなままとなっています。

メン(メニ)という言葉には古代エジプト語で「確立する」という意味があるため、彼は王朝の基礎を固めた二代目ではないかとも考えられています。

また、アハ王の名が記された象牙製ラベルも発見されており、これを根拠に「エジプトを最初に統一したのはアハ王ではないか」とする説も存在します。

さらに「アハ」と「メネス」「メニ」は同一人物であるという主張も存在します。

統一王朝成立の背景:地理と農業の優位性

エジプト先王朝時代が終わり、紀元前3100年頃には世界で最古の王朝であるエジプト第一王朝が誕生しました。

これによりエジプト初期王朝時代に突入し、エジプト先王朝時代は終焉したと言えるでしょう。

統一王朝が成立した時期は、メソポタミア文明よりもエジプト文明の方が早かったとされています。

その理由の一つとして、ナイル川の定期的な氾濫を利用することで、大量の余剰食料を安定して確保できた点が挙げられます。

また、メソポタミアが四方から攻め込まれやすく、防衛に不利な地形だったのに対し、エジプトは北を地中海、南をヌビアの険しい地形、東を紅海、西を広大な砂漠に囲まれ、外敵の侵入が難しいという地理的条件を備えていました。

こうした自然環境の違いも、エジプトで早期に統一王朝が成立した要因の一つと考えられています。

それに加え、エジプトはシナイ半島からメソポタミアの文化を流入させる事が可能であったなど、かなり恵まれていたことが分かります。

秦との比較と統一の謎

個人的には、上エジプトが下エジプトを統一した過程は、中国の春秋戦国時代においてが中原を統一した状況とよく似ているように感じられます。

一般に、川の上流よりも下流の方が農業生産力は高く、ノモスが密集するナイルデルタの下エジプトは、中国における中原の地に相当すると考えられます。

しかし、秦の場合と同様に、実際に統一を成し遂げたのは川の上流に位置する勢力でした。

エジプトがどのような過程を経て統一王朝を形成したのかについては、秦以上に史料が乏しく、不明な点が多いと言えます。

エジプト先王朝時代には恐竜がいた?

余談ではありますが、ナルメルのパレットには恐竜らしきものが描かれており、ここから古代エジプトには恐竜がいたという説が浮上しました。

つまり、エジプト先王朝時代には、恐竜がいた事になります。

他にも、この恐竜らしき絵はメソポタミアのシュメール地方でも描かれていたため、エジプトがシュメール人の植民地だったという主張も存在します。

これらの説は、全てを否定する事は出来ないものの都市伝説としての側面が強いというのが現状です。

しかし、エジプトの文字であるヒエログラフは、象形文字を元に作られたと考えられており、メソポタミアがエジプトに与えた影響は大きいとされています。

このあたりについては、現状では確かな史料が乏しく、今後の新たな発見を待ちたいところです。

エジプト先王朝時代の動画

エジプト先王朝時代のゆっくり解説動画です。

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