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燕の荘公は山戎に攻められるも斉に救われ領地も貰った

2024年1月30日

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宮下悠史

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名前燕の荘公
生没年生年不明ー紀元前658年
勢力
年表紀元前664年 山戎の攻撃を受けるも斉に助けられる

燕の荘公は史記の燕世家などに名前が登場する人物です。

燕の桓公が亡くなると、燕の荘公が即位しました。

燕の荘公はの初代とされる召公奭を除けば、最初にまともな記録がある燕の君主となります。

史記によると燕の荘公の時代に周王朝で混乱があり、燕が宋や衛と共に周の恵王を討った記録があります。

宋や衛と共に燕が周の恵王を討った記録ですが、個人的には司馬遷のミスであり、燕の荘公とは別の南燕の事だったのではないかと考えています。

燕の荘公が山戎に攻められた時に、覇者の斉の桓公に救援を求めた話しがあります。

斉の桓公は燕を救い管仲の進言もあり、燕に斉の土地を割き与えました。

燕の荘公は斉の桓公と管仲により領土を得て、これにより燕は強力になったとする話もあります。

今回は燕の荘公の解説をします。

燕・衛・宋で周の恵王を攻めるのは誤りなのか

史記によると、燕の荘公の16年(紀元前675年)にが宋や衛と共に周の恵王を攻撃した話があります。

周の恵王は温に出奔し、燕、宋、衛の三国は王子頽を周王としました。

さらに、翌年の燕の荘公の17年(紀元前674年)に鄭が燕の仲父を捕え、周の恵王を周に迎え入れさせた話しがあります。

この話ですが、地図を見ると位置関係は下記の様になっています。

上記の地図を見ると、燕はかなり北にあり衛、宋とは距離が離れていますし、周との距離がある事が分かります。

北の燕に比べると、南燕は曹の隣にあり、宋と衛に挟まれた場所にある事が分かるはずです。

北方の燕が周まで行くには斉や異民族の国などを通過する必要があり、極めて難しいと感じました。

南燕であれば衛や宋とは隣国であり、行動もしやすかった事でしょう。

個人の見解となりますが、紀元前675年の周の恵王を衛や宋と共に討伐したのは、南燕とした方が腑に落ちる様に思います。

燕と山戎

史記によれば、燕の荘公の27年(紀元前664年)に、山戎がを攻撃したとあります。

燕は中華の最北端とも言える位置に存在し、異民族との戦闘はよくある事でもあったのでしょう。

尚、現在の北京市の付近で山戎のものと思われる遺物が発見されており、燕は山戎に対し、かなり苦戦していたと考えられています。

この時は斉の桓公が覇者として君臨しており、燕の荘公は斉に救援を求めました。

斉の桓公は宰相の管仲と共に援軍として現れ、山戎の軍を蹴散らしています。

燕の荘公は斉の桓公に感謝し、斉の国境を超えて、お見送りをしました。

この時に、管仲が「諸侯の見送りは領内までと決まっている」と述べ、燕の荘公が送って行った場所までを燕の領地としています。

燕は斉の桓公に助けられただけではなく、燕の荘公は領地まで貰ってしまったわけです。

斉の桓公は尊王攘夷を掲げており、燕では周に再び貢物を献納する様になったと言います。

斉の桓公に助けて貰ったのが、燕の荘公の最後の記録であり、史記には燕の荘公はその33年(紀元前658年)で亡くなったとあります。

尚、燕の荘公の前の君主である燕の桓侯は「侯爵」ですが、燕の荘公は「公爵」にランクアップされている事が分かるはずです。

燕は周に再び貢納物を入れる様になった事から、侯爵から公爵に格上げされたのかも知れません。

燕の荘公の時代から公爵になった理由は記録がなく不明です。

先代:燕の桓侯後代:燕の襄公

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