名前 | 燕 |
時代 | 春秋戦国時代 |
建国と滅亡 | 紀元前1100年頃ー紀元前222年 |
年表 | 紀元前664年 山戎に攻められ斉に援けられる |
紀元前323年 五国相王により燕王を称す | |
紀元前314年 一時的に国が斉に占領される | |
紀元前284年 済西の戦い | |
紀元前227年 荊軻を刺客として秦に派遣 | |
紀元前222年 秦により滅亡 | |
コメント | 燕の昭王の時代に楽毅が活躍し斉を壊滅状態に陥れた |
燕は春秋戦国時代を通してあった国であり、史記を見ると初代が召公奭となっています。
ただし、西周の青銅器の銘文には燕が封じられたのは、召公奭ではなく、召公奭の子である燕侯克となっています。
燕は中原から遠く離れており、記録が殆どありません。
史記では燕は周王朝と同族の姫姓と記録されていますが、実際には姫姓ではなかったともされています。
司馬遷は燕を「何度も滅亡に瀕した弱小国」と記録しており、春秋戦国時代を通して影が薄い存在でもあります。
しかし、燕は三皇五帝などの伝説の時代を除けば、中国史で最初に禅譲を行った国でもあります。
ただし、禅譲により国は混乱し、斉の介入もあり燕は一時的に滅亡しました。
燕の復興を託された燕の昭王は名君であり、楽毅を重用し、斉を滅亡寸前まで追い詰めています。
秦が強大になり各国を併呑した時には、燕の太子丹が荊軻を暗殺者として、秦に向かわせています。
しかし、荊軻は秦王政の暗殺には失敗し、怒った秦王政により燕に攻撃命令が出され、王翦により首都の薊が陥落しました。
燕王喜は遼東に移りますが、最後は王賁や李信により滅亡を迎える事になります。
記録を見る限りでは、燕は建国から800年を超える歴史があり、滅んだ事になります。
因みに、楚以外の戦国七雄の国々は下記の様になっています。
燕の始祖
燕の始祖ですが、司馬遷が書いた史記だと召公奭だという事になっています。
召公奭は周の武王が殷の紂王を滅ぼす事に活躍した大功臣でもあります。
史記の燕召公世家には「周の武王が殷の紂王を滅ぼすと、召公を北燕に封じた」とあります。
ただし、西周の青銅器の銘文には召公の子の一人である燕侯克が燕に封じられたとあります。
克罍や克盉に燕侯克の事は記録されていますが、金文は一時資料と言ってもよく史記よりも信憑性が高いと感じています。
周の大功臣で周の成王の時代には、三公の一つである太保になっている召公奭が辺境に行くとも思えず、召公奭は西周王朝の政府に残り、子の燕侯克が燕に封じられたと感じました。
周王朝では王族に連なる姫姓の者達が中原などの豊かな地を与えられており、中原の地を異民族から守る藩屏かの様に、姫姓以外の者を封建しています。
それらを考えると、燕の始祖とも呼べる燕侯克は、北の山戎などから姫姓の国を守るべく配置したとみる事も出来ます。
北燕と南燕
史記の燕召公世家を見ると、周の武王が召公奭を北燕に封じたとあります。
北燕があるという事は南燕があるのか?となるわけですが、中原の地に南燕は実在していたわけです。
南燕は黄帝の子孫の国とも言われていますが、国としては小国であり燕、衛、曹、鄭などに囲まれた国です。
(画像:YouTube)
史記の燕召公世家を見ると極めて謎が多く初代の召公奭から9代目の恵侯までいきなり飛んでしまいます。
日本にも欠史八代と呼ばれる時代がありますが、燕の初代から9代目の恵侯までは主君の名前すらも分からず、欠史八代以上に不明な時代となります。
さらに、史記の燕召世家を見ても、燕の独自の記録があるのが、燕の荘公の時代まで飛ばなくてはありません。
史記の燕の歴代君主を見ると、召公奭を初代として最後の燕王喜まで43代となっています。
周王室では周の武王が始祖であり、周の赧王が最期の王ですが、37代で滅亡しました。
燕は紀元前222年に滅亡し、周は紀元前256年に滅亡しており、周王朝の方が先に滅亡はしていますが、燕の方が6代多くなります。
秦を調べてみると、秦の先祖の中で周の武王と同じになるのは、女防となり、女防から始皇帝までを数えると40代となり、燕よりも少ないわけです。
これを見ると分かる様に、燕の君主は秦よりも3代長い事になります。
この事に関して白川静氏や宮城谷昌光氏らは、司馬遷は北燕と南燕を同一視してしまったと考えました。
実際に、燕の出来事を調べてみると、地理的に明らかに燕が関わるのはおかしいのでは?と感じるものが史記にはあります。
宮城谷昌光氏も言っていますが、春秋時代の前半の燕の記述は「南燕」を指すと思った方がよく、途中で南燕が滅亡し、北燕だけが残り、南燕滅亡後に燕と言えば北燕の事を指すと考えた方がよいでしょう。
史記では燕の荘公の17年(紀元前674年)に鄭が燕の仲父を捕えたとありますが、燕仲父は南燕の君主であり、この時を以って南燕が滅んだとも考えられています。
紀元前674年以降の燕と言えば、北燕を指します。
春秋時代の燕
燕の荘公の時代に、犬戎の攻撃に対し燕は劣勢でした。
紀元前664年には山戎の大攻勢の前に窮地に陥っています。
現在の北京近郊から山戎の墓地とみられる遺物が発見されており、燕が山戎に対し如何に劣勢だったのかが分かるはずです。
この時に燕の燕の荘公は覇者の斉に救援を依頼し、斉軍が犬戎を蹴散らし燕を救いました。
燕の荘公は斉の桓公に感謝し、管仲の進言もあり領地を得る事も出来ており、燕は強大化への道を歩む事になります。
尚、燕の荘公の時代から燕は「侯」から「公」に変わっています。
燕が侯爵から公爵に変わったのは、燕が周王室に貢納物を入れる様になったからでしょう。
燕が斉に援けられて100年ほどが経過した紀元前545年に燕で政争が起きて、燕の恵公は斉へ出奔しました。
この時は斉と晋が協力して、燕の恵公を燕に入れる事になりますが、この直後に燕の恵公は亡くなっています。
史記の燕召公世家を見ても、春秋時代の燕は荘公が斉の桓公に助けられて犬戎を撃退した話と、燕の恵公時代の混乱の記述しか、まともな記述がありません。
春秋時代の燕は天下の中心部から距離が離れており、記録が乏しく謎が多いです。
蘇秦の訪燕
史記の燕召公世家によると、燕の文公の28年(紀元前334年)に蘇秦が燕を訪れた話しがあります。
蘇秦は鬼谷子の元で学び、揣摩の術を考案し、周の顕王を説きました。
しかし、周の顕王は蘇秦を受け入れず、同様に秦の恵文王や趙の粛侯も奉陽君の言葉もあり、蘇秦の言に耳を貸そうとしなかったわけです。
蘇秦は燕にやってくると、燕の文公に「燕が安泰なのは趙が秦からの壁になっているからだ」と説き、燕と趙で合従の盟約を結ぶ様に進言しました。
燕の文公は蘇秦の言葉に納得し、蘇秦に莫大な資金を与え、趙に向かわせています。
この時には奉陽君が亡くなっていた事もあり、超の粛侯は蘇秦の言葉を聴き入れて燕と合従を結びました。
蘇秦に関しては様々な事を言われていますが、燕の文公が取り立てなければ、歴史に名を残す事は無かったはずです。
蘇秦は燕、趙、魏、韓、楚、斉の同盟を成立させ、秦と対峙する事になります。
尚、蘇秦の合従は解体され、燕の易王が即位すると、斉は燕の喪中につけ込んで、10の城を占拠しますが、蘇秦が斉に向かい取り返してきました。
後に蘇秦は斉に行きますが、斉で刺客に襲われて最後を迎えています。
上記が史書に残る話ではありますが、近年では青銅器などの出土により、蘇秦が燕に訪れたのは燕の昭王の時代だったとも考えられる様になってきています。
燕に関しては、記録が少なく、繰り返しますが謎が多いです。
燕が王を称す
燕召公世家によると、燕の易王の10年(紀元前323年)に燕が王を称した話が掲載されています。
燕が王になったのは、公孫衍が五国相王を立案し燕、趙、魏、韓、中山の五国を王と呼び合い関係を強化しようとしたわけです。
既に魏の恵王は王を名乗っていましたが、新たに燕の易王と韓の宣恵王が王として認められました。
中山は斉の横やりがありましたが、中山王となり、趙の武霊王は、この時はまだ王号を称しなかった話があります。
五国相王により、燕は王として認められたわけです。
燕の統治機構
燕は王号を称したわけですが、この頃から燕の統治機構が定まったと考えられています。
燕の青銅武器に燕王の名前が刻まれた事が多い事が分かりました。
これにより、燕では王が独自に武器開発機構を持っていた事が分かります。
戦国の韓などは王の武器製造機構とは別に都市の武器製造機構があった事が分かっており、中原の韓や魏に比べると、燕の方が中央集権が行き届いていたとも考えられるわけです。
燕が斉を壊滅寸前まで追い込んだのは、燕の昭王の執念と楽毅の采配によるとされる場合が多いのですが、実際には中央集権化が基盤になっていたと言えるでしょう。
燕の禅譲事件と統治機構に関しては、上記の動画を元に記事にしました。
燕の禅譲事件
西周への復古運動
春秋代の後期に河北一帯で、西周王朝への復古運動があった事が分かっています。
こうした、西周王朝への復古運動に関しては、周公旦を尊崇していた公子の影響力も強かったと言えるでしょう。
燕の地で製造された紋様や陶器などの異物が発見されており、西周時代を模倣したものだった事が分かっています。
燕では西周王朝を模倣した事を示す様な青銅器も発見されており、燕の指導者層が西周に傾倒していた事を指します。
これらの西周王朝の後継者を示すとも言われる燕の行いは、西周王朝の後継者とする意識が強くあったからだとされているわけです。
史上初の禅譲
燕王噲は質素な生活を送るなど、慎み深い生活を送っていた話もあり、西周王朝や三皇五帝の聖王の話を真に受けていた様にも感じています。
史記では蘇代、鹿毛寿らが堯と許由らを例に出すなどし、燕王噲に宰相の子之の権力を大きくする様に促しました。
三皇五帝などの古代の聖王を理想としてた燕王噲は、子之に王としての任務を任せれば、自分は名君になれると信じたとも言えるでしょう。
燕王噲は隠居し子之に仕える様になり、これにより燕は大混乱を引き起こしました。
燕の禅譲事件は話しが出来過ぎており嘘の様にも感じるかも知れませんが、燕の隣の国である中山国の王墓から見つかった「鉄足大鼎」に燕王噲が子之に王位を譲った事が書かれていました。
これにより燕の禅譲事件は真実だと考えられる様になったわけです。
尚、三皇五帝時代の黄帝、堯、舜などを除けば歴史上最初の禅譲が、燕王噲による子之への禅譲だったと言えるでしょう。
前漢末期の王莽や三国志の曹丕よりも先に、燕王噲は禅譲を行っていたわけです。
燕の禅譲事件は斉の介入により幕を閉じました。
子之の乱
燕王噲は禅譲を行い子之が諸葛亮の様な人物であればよかったのですが、子之は一族を優遇するなどバランスを欠いた政治を行ってしまったのでしょう。
燕の太子平は将軍の市被と組んで挙兵し、子之と戦いますが、途中で市被が寝返るなど混乱し、燕は内戦状態となりました。
子之に対する不満が多くあり、そうした者が太子平に心を寄せて乱になってしまったのでしょう。
子之の乱ですが、斉の宣王が介入し、燕を一気に占領してしまいました。
史記の燕召公世家では孟子が燕への攻撃を斉王に進言した事になっています。
これにより、一時的に燕は斉に支配される事になります。
燕の復興
燕の昭王の即位
燕は2年間に渡り斉に支配されますが、斉の統治がずさん過ぎたのか、斉軍は撤退しました。
これにより燕の昭王が即位しますが、燕はボロボロであり、斉の属国の様な立場だったとも考えられています。
燕の昭王に関しては太子平だとする説もあれば、趙の武霊王が送り込んだ公子職だった説もあり、はっきりとしません。
燕の昭王は斉に深い恨みを抱き、生涯に渡り斉打倒を志す事になります。
燕の昭王は郭隗の進言により、郭隗を優遇する事で、人材を集めようとしました。
これが「隗より始めよ」の語源となっており、楽毅、劇辛、鄒衍などの臣下を得る事になります。
尚、戦国縦横家書によると、蘇秦も燕の昭王の時代の人物という事になっています。
斉は湣王の時代になっても強大であり、燕は力をつけてきたとは言え、斉の国力には遠く及びませんでした。
ただし、燕では他国に先駆けて鉄製の武器を使用し、常備軍も設置しており、決して弱い軍隊ではなかったわけです。
さらに、北の遊牧民と国境を接していた事から、馬が入手しやすい環境にあり、趙と並んで燕は強力な騎馬隊を組織する事になります。
燕の勢力拡大
史記の蘇秦列伝に蘇秦が燕の文公と面会した時に、いきなり次の様に述べました。
史記蘇秦列伝より
蘇秦「燕は東に朝鮮、遼東、北に林胡、楼煩の諸国あり、西に雲中、九原あり、南に呼沱、易水が流れております。」
蘇秦の言葉の中で、注目したいのは燕が遼東半島だけではなく、朝鮮も領有している事になっている事です。
朝鮮半島の全てを燕が支配するのは、難しいと感じますが、朝鮮に影響力は及ぼしていたのでしょう。
戦国時代の後期には襄平から燕の貨幣が使われていた形跡があり、襄平が経済発展していた証ととる事も出来ます。
尚、山海経に「倭は燕に属す」とも記載があります。
戦国七雄の燕が馬韓、弁韓、辰韓の三韓を飛び越えて倭を支配するのは難しく思いますが、倭人と交易を行っていた可能性は残されている様に感じました。
戦国時代の中期になると、中原を支配していた魏や韓は取る領地が無くなっていきますが、燕は北方や朝鮮半島の方に勢力拡大したと言えます。
燕の昭王の後期には、燕は戦国七雄の一つとして相応しいだけの実力を兼ね備えていたとみる事も出来るはずです。
ただし、襄平は大都市となり発展していきますが、当時の中華世界では大都市になると自立性が強くなり、中原の大都市と似たような傾向が出てきます。
燕も同様に襄平は発展しましたが、襄平が発展すればするほど、燕王の統治は弱まる結果になったとも考えらえています。
都市が強くなれば、独自性が強まり秦の様な巧みなシステムがないと上手く機能しなかったりするわけです。
名将楽毅
紀元前284年に燕は巧みな外交を行い楽毅の信望もあり、燕、趙、秦、魏、韓からなる合従軍が結成されました。
趙の恵文王が趙軍も楽毅に預けた事から、燕主導の合従軍が結成された事にもなります。
燕の昭王は楽毅を上将軍に命じ、合従軍と共に斉を攻撃しました。
斉は済西の戦いで敗れ、斉の湣王は逃亡しますが、楚が派遣した淖歯により殺害され、淖歯も王孫賈らに討たれています。
斉人は斉の襄王を即位させて莒で守りを固める事になります。
合従軍は済西の戦いの後に国に帰還しましたが、燕軍は単独で斉の首都臨淄を陥落させ、斉は莒と即墨以外は全て燕の手に落ちました。
楽毅は燕の本国に臨淄の宝物を届け、燕の昭王は歓喜に浸る事になります。
この時の燕の昭王の喜びは大きく、楽毅を出迎え、さらには昌国君にするなど破格の待遇で報いています。
燕の昭王に楽毅を讒言する者も現れましたが、燕の昭王は讒言したものを処刑しました。
この頃に燕では秦開が東胡を破るなど領地を拡げたとも考えられおり、斉から多くの宝物を奪った事で軍資金として、北や東に領土を拡げた可能性もあります。
燕の昭王の時代には、楽毅が斉を壊滅状態にしただけではなく、秦開が東胡を破り領土を拡げ長城を建設するなど、燕の国力は増していったわけです。
斉を壊滅状態にした燕の昭王の末期の頃が、燕の全盛期だったと言えるでしょう。
燕の弱体化
紀元前279年に燕の昭王が亡くなり、燕の恵王が即位しました。
燕の恵王と楽毅は不仲であり、燕の恵王は楽毅を更迭し、騎劫を将軍にしようとしました。
楽毅は燕に戻れば誅される可能性が高く、趙の恵文王の元に逃亡しています。
趙では楽毅を好待遇で迎えました。
楽毅が去ると、即墨の田単が反撃に転じ、様々な奇計を駆使し燕に奪われた領土を全て奪還する事になります。
燕の恵王は楽毅に手紙を出しますが、楽毅は燕に戻る事はありませんでした。
燕の恵王が楽毅を更迭しなければ、斉は滅亡し燕、趙、秦の3強国時代が到来したのではないかと考える専門家もいます。
燕の方では斉から奪った城を全て取られてしまい国政は停滞する事になります。
燕の恵王が公孫操に暗殺されると、燕の武成王が即位しますが、燕が復興する事はありませんでした。
楽毅が去った事で、燕の弱体化が始まったとも言えそうです。
燕軍60万が敗れる
趙軍は趙括が戦死するなど、40万の兵を失う大敗北を喫しています。
燕王喜の時代に、宰相の栗腹が趙から戻ると、趙を討つ様に進言しました。
楽毅の子の楽間や将渠は反対しますが、燕王喜は自らの出陣を決めて戦場に向かう事になります。
この時の燕は60万もの兵で趙に攻撃を仕掛けたとも伝わっていますが、ここは数字を盛っている様に感じました。
しかし、将軍の栗腹がや卿秦が廉頗に大敗北を喫し、首都の薊が包囲されますが講和が成立しています。
趙の悼襄王時代には、李牧が燕を攻撃し武遂と方城を奪われ、燕の劇辛が龐煖に討たれるなど、燕は趙に苦しめられる事になります。
趙は燕との戦いは上手くいっていましたが、西では秦に押される状態となりました。
刺客の荊軻
燕は紀元前241年の春申君主導の合従軍(楚、趙、魏、韓、燕)に参加し、函谷関の戦いに参戦しています。
さらに、趙の龐煖を盟主とする趙、楚、魏、燕の精鋭部隊と秦の間で、蕞の戦いが勃発しました。
燕は函谷関にも蕞にも兵を送りましたが、結局、戦果を挙げる事が出来ずに撤退しています。
この頃になると、趙が滅びれば燕が秦の餌食になる状態であり、燕は危機感を募らせていたはずです。
燕の太子丹は秦から逃げ帰り、秦王政を暗殺し燕の延命を図ろうとしました。
紀元前228年には趙の首都邯鄲が落城し、趙の幽穆王が捕虜となります。
趙が滅びれば燕が秦のターゲットになる事は明らかであり、太子丹は荊軻を秦王政の元に送りだしています。
易水の畔で荊軻が太子丹や高漸離と別れるシーンは史記でも屈指の名場面となっています。
荊軻は秦舞陽を共にしますが、いざという時に秦舞陽が役に立たず、荊軻の暗殺は失敗に終わりました。
荊軻が刺客だった事に激怒した秦王政は、王翦に命じて燕の都・薊を包囲させました。
燕王喜は都の薊を守り切る事が出来ず、精鋭を引き連れて遼東に移ります。
この時に、代王嘉が「秦が燕を攻めるのは太子丹が原因」と伝えた事で、燕王喜は太子丹に刺客を送り込む事になります。
太子丹は秦の李信に斬られたとも、燕王喜の刺客に命を奪われたとされています。
太子丹の首が秦王政に届けられた事だけは間違いないようです。
燕の滅亡
楚の項燕は昌平君を擁立し反撃してきますが、結局は223年に秦に滅ぼされる事になります。
この時に燕王喜は遼東半島にいましたが、秦が燕の残党勢力を見逃すはずもなく、紀元前222年に王賁、李信に大軍を率いらせて遼東を攻撃させました。
史書では燕王喜が捕虜となり燕が滅亡したとあるだけで、多くが語られる事はありません。
燕も遼東しか領土がない訳であり、襄平が大都市だったとしても、秦軍に抗う事は出来なかったのでしょう。
王賁は燕を滅ぼすと李信と共に代を攻撃し代王嘉を捕虜としました。
さらに、王賁、李信、蒙恬らは斉を攻撃し、斉王建が降伏した事で、秦は天下統一したわけです。
尚、下記が燕の滅亡を題材にしたゆっくり解説動画となっています。
その後の燕
秦は天下統一しますが、郡県制が秦になじまなかったのか、始皇帝死後に陳勝呉広の乱が勃発しました。
陳勝と呉広の挙兵から反乱は、中国全土に広がり各地で王が立てられる事になります。
楚では項梁と項羽が楚王の子孫である楚の義帝を擁立し、魏では魏咎、韓では張良が暗躍し韓王成、趙では張耳と陳余が趙歇、斉では田儋、田栄、田横らが立ちました。
戦国七雄の王の子孫が擁立されたわけです。
これを考えると、燕でも燕王家の生き残りが擁立されてもよさそうですが、燕王となったのは趙の武臣が派遣した韓広や配下の臧荼でした。
燕王喜が捕虜になってから、燕王家は忘れ去られたが如く、燕王の子孫は擁立されなかったわけです。
項羽と劉邦が争った楚漢戦争の後に、燕王になったのは盧綰であり、やはり燕王家の者ではありません。
戦国七雄の中で燕だけが忘れ去られたような存在であり、燕王家の子孫は擁立された記録がない事になります。
燕王の子孫だけが、秦末期及び楚漢戦争で擁立されなかったのかの理由は不明です。
燕の太子丹が荊軻を始皇帝に送り込み暗殺しようとした事で、始皇帝が燕王家を恨み皆殺しにしてしまった可能性もあるのかも知れません。
それでも、燕王家が再興されなかった事だけは間違いなさそうです。
燕は弱小国だったのか
司馬遷は燕召公世家の最後で、次の様に評価しています。
※史記燕召公世家より
燕は北の蛮族と国境を接し、内側では斉や晋と国境を交えていた。
強国の間にあり危険な状態が続き、最弱の国となり何度も滅亡に瀕していた。
それでも、燕は社稷を犠牲に供えて800年か900年ほども祀られていた。
周室に連なる姫姓の中で、燕は最も遅れて滅んだのである。
上記の司馬遷の言葉を見ると、燕が最弱国の様な描かれ方をしており、戦国の最弱国と言えば韓が思い浮かびそうですが、司馬遷の認識では戦国七雄の最弱国は燕だと考えたのかも知れません。
燕は後方に未開の地があり、馬や鉄、銅などの鉱物が手に入りやすく、中央集権化を推進するなど強みはあったはずです。
しかし、襄平が発展すれば発展する程に、独自性を醸し出す様になり、中央集権化から遠ざかる結果となります。
それらを考慮すると、燕の中央集権化が機能していたのは、首都の薊周辺だけだったとも考えられるわけです。
司馬遷は燕が姫姓の中で最後に滅ぼされたと書いていますが、厳密にいえば秦の2世皇帝・胡亥の時代に衛が滅びた話があり、姫姓の中で最後に滅んだのは衛となるでしょう。
さらに、司馬遷は燕が最期に滅んだのは召公奭の遺徳としましたが、実際には燕が斉と並び秦から最も離れていた国だった事が大きいと言えそうです。