呉下の阿蒙に非ずは正史三国志における呂蒙の逸話でもあります。
「呉下の阿蒙にあらず。 士別れて三日ならば、即ち更に刮目して相待つべし。」の文言でも有名な一文となっています。
呉下の阿蒙に非ずのあらすじを簡単に言えば、若い頃の呂蒙は乱暴者であり、無学な青年だったわけです。
呂蒙は「軍務が忙しくてその時間は無い」と述べますが、孫権は呂蒙と蒋欽を諭し学問に目覚めさせる事にします。
赤壁の戦いが終わり周瑜が亡くなると、後任の魯粛と呂蒙が面会しました。
魯粛は呂蒙が学がない者とみなしていましたが、呂蒙の見識の鷹さに驚き魯粛は「呉下の阿蒙に非ず」と述べたわけです。
阿蒙の「阿」は日本語にすると「〇〇ちゃん」にあたり、魯粛は呉の城下でいきがっていた「呂蒙ちゃん」ではないと成長を認めた事になります。
尚、呉の四大都督は周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜ですが、呂蒙だけは名士ではなく寒家の出身です。
家柄で言えば呂蒙は他の四大都督と比べると、かなり劣っているのに、活躍出来たのは膨大な読書量が支えていたと言っても過言ではないでしょう。
呉下の阿蒙の話は正史三国志の注釈・江表伝に詳しく、江表伝をベースに解説します。
孫権流学問のススメ
呂蒙と蒋欽は孫策時代からの家臣であり、役職も上がってきましたが、学問を学ぼうとはしませんでした。
呂蒙に至っては、文字を書く事が出来ず、呂蒙が口で述べた事を部下が書き取り意見するなども普通にやっていた話があります。
ここから「呉下の阿蒙に非ず」の逸話に入っていく事になります。
孫権はある時に呂蒙と蒋欽を呼び出し、次の様に述べました。
※江表伝より
孫権「あなた方二人は共に要職に就いているし万事を処理しなければいけない立場となった。
ならば、学問を学び自らの知見を広める必要があるのではなかろうか」
孫権は呂蒙と蒋欽に学問を勧めたわけです。
孫権の言葉に対し、呂蒙は学問を学ぶ必要性を感じなかったのか「軍中にあり多忙で書物を読むような時間はございません」と返しました。
それに対し、孫権は次の様に答えています。
孫権「私はあなた方に学者になれと言っているわけではない。
ただ単に広く学識を持ち知見を広めて欲しいと願うだけだ。
貴方は職務が忙しいと述べたが、私ほどではないと思う。
私は若い頃か詩経、書経、礼記、左伝、国語などを学び「易」だけは学ばなかった。
国政と執る立場となっても、史記、漢書、東観漢記の三史や兵法書を読み、自分では有益だったと感じている。
あなた方二人は聡明であり、理解力も高いし学べば必ず身になる事であろう。まずはやってみる事だ。
先ずは孫子、六韜、左伝、国語、三史を読んでみて欲しい。
孔子は『終日食事も摂らず、終夜なる事もなく思いを巡らせても、それは無益である。学問をするにしくはないのだ』と述べている。
光武帝も軍務の間であっても、書物から離れる事はなかったという。
孟徳(曹操)も老いて益々学問を好むようになったと聞いている。
あなた方も学問に励むべきである」
孫権としてみれば、呂蒙や蒋欽に一軍を率いる将軍として恥ずかしくない様な教養を身に着けて欲しいとも考えたのでしょう。
呂蒙と蒋欽は孫権の言葉に発奮し、読書に励むようになりました。
呂蒙の読書量は凄まじく普通の儒者では太刀打ちできない程になったと伝わっています。
読書により覚醒した武将が呂蒙や蒋欽であり、孫呉を代表する将軍に成長していく事になります。
呉下の阿蒙
周瑜が亡くなると魯粛が後任となり陸口に駐屯する事になりました。
ここで魯粛は何を思ったのか呂蒙の駐屯地に行ってみる事にしたわけです。
正史三国志によると魯粛は内心では呂蒙を軽蔑していましたが、知人に諫められた事もあり呂蒙に会ってみる事にしました。
魯粛と呂蒙は語り合いますが、魯粛はしばしば呂蒙の発言に言い負かされそうになります。
魯粛は呂蒙の成長ぶりに驚き下記の様に述べています。
※江表伝より
魯粛「私は貴方の事を武勇一点の人だと思っていたが、今では学問にも精通している。
これでは呉の城下にいた時の阿蒙とは別人の様になってしまった」
魯粛は呂蒙の成長を認め称賛したわけです。
ここで呂蒙は「士別れて三日ならば、即ち更に刮目して相待つべし」と答えます。
つまり、呂蒙は士は「3日もすれば成長する事があるから、相手をよくみて話をしないと恥をかく」と言った事になるでしょう。
ここで魯粛が「なるほど」と思ったのか「この発言を真に受けている様ではまだまだだな」と感じたのかは記録がなく分かっていません。
しかし、呂蒙の成長に魯粛が驚いた事だけは間違いないでしょう。
それでも、「呉下の阿蒙にあらず。 士別れて三日ならば、即ち更に刮目して相待つべし。」の一文は三国志の中でも名文だと感じています。
呂蒙は、さらに秦の穣公の名前を出しており、孫権に読書を勧められ司馬遷の史記もちゃんと読んだ事は間違いないでしょう。
ただし、呂蒙の口から出た秦の穣公の話は文脈から「意味不明」とする指摘もあります。
呂蒙の策
江表伝では正史三国志と同様に、呂蒙が魯粛に策を授けた話が伝わっています
※江表伝より
貴方は公瑾(周瑜)殿の後継者となったわけですが、現在は難しい状況にあり関羽と境を接してもいます。
関羽は学問を好み左伝に至っては暗誦出来る程だと聞いております。
関羽は士であり気概は持っていますが、自負心が強く感情を態度に出す人物でもあります。
この関羽と対峙なされるのですから、様々な策をあらかじめ考えておくべきです」
呂蒙はそう言い終わると、人を外に出し魯粛と二人だけとなるや三つの策を魯粛に伝えたとあります。
正史三国志だと呂蒙が魯粛に語った策は五つとなっていますが、どちらが正しいのかは不明です。
魯粛は呂蒙の策は聞きましたが、心にしまっておき他人に知らせなかった事で、呂蒙の策の内容は分からない状態です。
三国志の内容が分からなくなってしまった策で言えば、同様に荀攸の策も友人の鍾繇だけが知っており、内容が分からなくなっています。
史記でも文種が越王勾践に述べた策も分からなくなっています。
機密情報であるからには、魯粛も呂蒙の策を最後まで語らなかったのでしょう。
孫権の喜び
※江表伝より
孫権「大人になっても積極的に自己の向上を目指す事においては、呂蒙や蒋欽に適う者はいないであろう。
富貴の身分となり驕る事もなく学問を好み、経典や注釈書を読み財貨を軽んじて義を尊び人々の模範となっている。
二人そろって国を代表する人物となっているのは、素晴らしい事だ」
孫権は呂蒙や蒋欽を絶賛したわけです。
孫権と言えば、戦下手や酒での失敗が多い様に見受けられますが、部下に対しては時には馬鹿にしつつも誠意を以って接した部分も多々ある様に感じました。
呂蒙と蒋欽は主君が孫権で無ければ、ここまで成長する事は無かったのかも知れません。