名前 | 荀攸(じゅんゆう) 字:公達 |
生没年 | 157年ー214年 |
時代 | 三国志、後漢末期 |
勢力 | 曹操 |
年表 | 199年 下邳の戦い |
200年 官渡の戦い | |
207年 中軍師に任命される | |
214年 尚書令に任命される | |
画像 | ©コーエーテクモゲームス |
荀攸は正史三国志や後漢書、資治通鑑に登場する人物です。
荀攸の出身地は豫州潁川郡潁陰県となります。
荀攸は荀彧の従子として有名ですが、年齢に関して言えば、以外にも荀攸の方が上だった様です。
荀彧と荀攸の関係ですが、荀彧の祖父と荀攸の曽祖父が兄弟という間柄となっています。
荀彧は優れた戦略能力を持ち曹操が遠征している間は、留守番をしている事が多かったわけですが、荀攸は賈詡と共に戦場に行き曹操に進言を行っています。
荀攸は優れた頭脳を持ち、それでいて心優しき部分もあり人間的にも立派な人だった様に感じました。
三国志演義での荀攸は赤壁の戦いでは蔡中、蔡和を呉軍に送り込んだりもしていますが、周瑜に見破られ利用されたり、馬騰を殺害する様に進言した事で馬超が反旗を翻すなどがあります。
さらに、曹操の魏公就任では荀彧と共に反対し、憤って病を発し最後を迎えるなどパッとしない役目となっています。
しかし、史実の荀攸を見る限りでは赤壁の戦いに参加した記録もありませんし、蔡仲、蔡和を内通者として呉軍に送り込んだ記録もありません。
曹操の魏公就任に関しても、史実では賛成しており、史実と比べると、かなり落とされた扱いとなっています。
史実の荀攸は特に失敗らしい失敗もしていない優れた戦術眼を持つ名軍師だと言えるでしょう。
因みに、荀攸には阿騖という妾がいた事が分かっています。
尚、陳寿は正史三国志で荀彧、荀攸、賈詡を一纏めにして伝を立てています。
心優しき性格
荀攸の祖父は荀曇であり広陵太守を務めた人物でしたが、荀攸の父親は荀攸が幼い時に亡くなったとあります。
魏書によると、荀攸が7歳か8歳ころに叔父の荀衢が酒に酔い荀攸の耳を傷つけてしまいました。
荀衢は酒に酔っていた事もあり、自分が荀攸の耳を傷つけた事を知らなかったわけです。
荀攸は子供なりに気を遣ったのか、部屋に出たり入ったりして遊ぶ時に、いつも耳を隠し荀衢に見せない様にしていました。
荀攸としては荀衢が自分の耳を傷つけた事を知り、ショックを受けるのが嫌だったのでしょう。
しかし、荀衢が荀攸の耳を傷つけた事を見ていた人がいたのか、荀衢に告げる者がおり、荀衢は驚いてしまったわけです。
曹操の子である曹沖にも子供ながらに優しさを発揮した話がありますが、荀攸も同様に心優しき性格を持っていた事が分かります。
曹沖は早くに亡くなりましたが、成長していたら荀攸の様な人物になっていたのかも知れません。
張権の正体を見破る
荀曇が亡くなった時に、下役の張権が墓守をしたいと願い出る事になります。
この時の荀攸は13歳だったとあり、まだ子供と言ってもよい年齢だったはずです。
しかし、荀攸は子供ながらに張権が怪しいと気が付きました。
何か荀攸の直感が働き、張権に異変を感じたのか、叔父の荀衢に向かって次の様に述べました。
※正史三国志 荀攸伝より
荀攸「あの男からは並々ならぬ者を感じます。
何か悪事を働いたのではないでしょうか」
荀攸の発言を信じた荀衢は張権を取り調べると、殺人を犯して逃亡中の者だった事が確認出来たわけです。
張権の事件があってから荀衢は荀攸を高く買う様になったと伝わっています。
軍師というのは直観に優れている部分が多々見受けられ、少年の荀攸にも片鱗が見え隠れしていたとも言えるでしょう。
少しの変化に見過ごさず気付けるのが、荀攸なのかも知れません。
黄門侍郎
何進は義妹の何皇后が霊帝の妃になった事で、大将軍にまで出世しました。
何進は20名ほどの名士を招聘し、その中には荀攸もいました。
袁紹なども何進の招きに応じて仕官しており、何進の名士優遇策により荀攸も招かれたのでしょう。
荀攸は黄門侍郎の官職を得ました。
しかし、霊帝死後に何進が宦官らに殺害され董卓が実権を握ると、朝廷内で不穏な空気が流れる様になります。
董卓は地方軍閥であり名士では無かった事で、名士層からの反発が強かったのでしょう。
董卓暗殺計画
董卓に対する反発は大きく袁紹、曹操、臧洪らが反董卓連合を結成しました。
反董卓連合と董卓の戦いは徐栄が孫堅、曹操を破る活躍を見せますが、董卓は長安に遷都し李儒に少帝や何太后を毒殺させ献帝を即位させています。
名士で儒教の教えが身についている荀攸にとってみれば、董卓は暴君以外の何者でも無かったはずです。
荀攸は議郎の鄭泰、何顒、侍中の种輯、越騎校尉の伍瓊らと謀議を見出し、次の様に語っています。
※正史三国志 荀攸伝より
董卓の無道は桀紂よりも酷く天下の人々は董卓を恨んでいる。
強力な軍隊を頼りとしてはいるが、実際には一人の男でしかない。
董卓と刺殺し人々に謝罪し、殽山と函谷関の要害の地を頼みとし、天子のご命令を受け天下に号令しよう。
それが成就されれば、斉の桓公、晋の文公と同じである。
荀攸ら謀議に加わった者達は董卓を古の暴君である夏の桀王や殷の紂王よりも暴虐だと述べ、自分達は尊王攘夷を明らかとし、春秋五覇の斉の桓公や晋の文公の様に振る舞おうと述べた事になります。
しかし、ここで計画が露見してしまい何顒と荀攸は逮捕・投獄されてしまいました。
何顒は不安になり自殺してしまいますが、荀攸は悟った感じを醸しだし普通に食事を摂るなどしていました。
荀攸は獄に繋がれましたが、王允や呂布により董卓が殺害され、荀攸は帰郷する事になります。
荀攸は董卓が殺害された事で運よく救われたわけです。
荀攸が帰郷してしまったのは王允が三日天下で終わり、董卓配下の李傕と郭汜が朝廷を牛耳ってしまった為でしょう。
尚、正史三国志では董卓が殺害された事で荀攸は助かっていますが、魏書の方では荀攸は人に頼んで董卓を説得し釈放された話があります。
しかし、正史三国志も魏書も獄に入れられた事は同じであり、何かしらの要因があり荀攸は、生き延びた事だけは間違いないでしょう。
荀攸が人を派遣して時間稼ぎをしている間に、董卓が討たれたのが実情なのかも知れません。
蜀の地に入れず
一旦は故郷の豫州潁川郡潁陰県に帰還した荀攸ですが、再び公府に召され優秀な成績で推挙され任城郡の相となります。
しかし、荀攸は任城郡に赴任しなかったわけです。
荀攸は蜀漢が要害の地となっており、住民も豊かであった事から自ら進んで蜀郡太守になろうとしました。
後の劉備の配下となる孟達や法正なども飢饉が起きた時に、益州に避難しており蜀の地が比較的安定していたのは多くの人が知っていて荀攸も蜀に行こうとしたのでしょう。
しかし、劉焉が蜀で独立勢力になろうと画策し、張魯に漢中を取らせた事もあり、荀攸は蜀に入る事が出来ず、荊州に留まる事になります。
荀攸が蜀に入っていたとしたら、劉璋がどの様に扱ったのかは不明ですが、歴史が変わっていた可能性もある様に感じています。
劉璋は法正などは品行に優れなかった事で敬遠した様ではありますが、礼儀を心得た荀攸であれば、違った扱いをしたのかも知れません。
軍師荀攸
長安は李傕と郭汜の争いにより荒廃し、献帝は元の都である洛陽に向かいました。
ここで曹操が献帝を自分の勢力圏である許昌に入れる事に成功しました。
荀攸は荊州にいたわけですが、曹操は荀彧の推薦もあり荀攸に、次の様な手紙を送っています。
※正史三国志 荀攸伝より
現在天下は多いに乱れており、智謀の士が活躍できる時期にある。
それなのに蜀漢の地の変貌を見て、随分と長い時間が経ったのではないだろうか。
曹操は荀攸を召し出し、汝南太守に任じ、さらに中央に呼び寄せ尚書としました。
曹操は荀攸が董卓の暗殺を企てた事や帰郷した事、荀彧から聞いていた事などもあり、荀攸を配下として迎えたかったのでしょう。
曹操は荀攸と話し合ってみると名声通りの人物だと感じ、大いに満足し荀彧と鍾繇に会うと、次の様に述べました。
曹操「私は彼(荀攸)と計を立てる事が出来れば、天下に何の憂いもない」
荀攸は曹操から高く評価され軍師としました。
ここにおいて軍師荀攸が誕生したわけです。
荀彧が戦略面で曹操を補佐し戦いが起きた時は、後方の留守番役が多かったわけですが、荀攸は曹操と共に戦場に出て策を以って勝利に導きました。
荀攸が戦略型の軍師に対し、荀攸は戦術型の軍師だと言えるでしょう。
ただし、荀攸が戦術だけの軍師なのか?と言えば別であり、後に尚書令になった事からも分かる様に政治力に関しても秀でた能力を持っていたわけです。
身体能力は、さほど高くはないと思いますが、抜群の頭脳を誇っていたのが荀攸だと感じています。
曹操を諫める
曹操が張繍を討とうとすると荀攸は次の様に述べました。
荀攸「張繍と劉表はお互いを補完し合って強くなっております。
張繍は遊撃隊を率いており、劉表が食料を援助しているのです。
しかし、劉表は長期間に渡り食料を援助する事はできません。
劉表の食糧供給が出来なくなれば、張繍は離反する事になります。
軍を出す機会を見合わせ機会が来るのを待ち、誘いを掛けて味方にするのが良いでしょう。
仮に厳しく攻めたてれば、成り行きの上で助け合う事になります」
しかし、曹操は荀攸の進言を却下し穣に駐屯する張繍を攻撃しました。
荀攸の読みは当たり、張繍を救う為に劉表は救援を行い曹操は負け戦となったわけです。
曹操は「貴方のいう事を聞かなかったばっかりに、こんな目にあってしまった」と述べました。
しかし、曹操は負けても只では起きず、奇襲部隊を編成し張繍の部隊を破っています。
張繍の陣営には賈詡がいた事もあり、曹操が苦戦した原因だとも言えます。
呂布討伐
荀攸の進言
荀彧なども呂布を討伐した方がよいと考えていたわけです。
しかし、多くの者が劉表や張繍が背後にいるのに、引き返して呂布を襲撃するのは危険だと考えていました。
多くの大臣が呂布討伐に反対する中で、荀攸は次の様に進言しています。
※魏書より
荀攸「劉表と張繍は戦いに敗れたばかりであり、思い切って動く事が出来ません。
呂布は勇猛であり後ろには袁術がいます。
呂布が淮水・泗水の間で活動を活発にすれば、豪傑たちは呼応する事になります。
現在の呂布は反乱を起こしたばかりであり、人々の気持が一つに纏まっておらず、これにつけ込めば破る事が出来ます」
曹操は荀攸の意見を聞くと納得し、徐州の呂布を討伐する事が決定しました。
呂布は袁術との協調路線を選択し劉備を攻撃すると、曹操は夏侯惇を援軍として派遣しています。
しかし、劉備も夏侯惇も呂布配下の高順の前に敗れ去りました。
曹操が呂布討伐に向かいますが、魏書の記述によれば臧覇が呂布に内応したとあります。
曹操の呂布討伐には荀攸も郭嘉と共に同行する事になります。
下邳の戦い
曹操は徐州に侵攻し呂布を三度破り、呂布は下邳に籠城しました。
下邳の戦いでは呂布が堅固に城を守った事で、軍が消耗し苦しい状態になった事から、曹操は撤退も考える様になります。
しかし、曹操の軍師である荀攸と郭嘉が揃って撤退に反対し、次の様に述べています。
※正史三国志 荀攸伝より
荀攸・郭嘉「呂布は勇猛な武将ではありますが智慧がありません。
この度、三度戦い三度敗れた事で呂布の鋭気は衰えております。
指揮官は軍の中心であり、中心に衰えが見えれば、軍隊は戦意が上がらなくなるものです。
呂布配下の陳宮は智謀の士ではありますが、時間が掛かる人でもあります。
呂布の気力が戻らず、陳宮の計略が定まらないうちに、軍を前に出し厳しく攻め立てれば、呂布を破る事ができます」
荀攸と郭嘉の頭の中では、呂布や陳宮の分析も出来ており、勝利への道筋が見えていたのでしょう。
ここにおいて沂水、泗水の水を使い下邳城に注ぎ水攻めを実行しました。
下邳城への水攻めは効果抜群であり魏続、宋憲、侯成らが陳宮を捕縛し出頭し、呂布も降伏しました。
呂布は陳宮、高順らと共に斬られています。
曹操は荀攸や郭嘉の進言に従い撤退しなくて正解だったとも言えるでしょう。
官渡の戦い
顔良を斬る
官渡の戦いの前に孔融は袁紹の軍には優れた人物が多くいると脅威を述べますが、荀彧は袁紹配下の者達の欠点を述べています。
荀彧は顔良、文醜は一戦で討ち取る事が可能であり、審配が許攸の家族に手を出したら事件が起きると予言しました。
荀彧は官渡の戦いの時には留守番役でしたが、荀彧の予言を成就させたのが荀攸となります。
官渡の戦いの前に前哨戦として白馬の戦いが行われますが、袁紹の方が兵力、物資共に曹操の軍を圧倒していたわけです。
曹操は白馬の劉延が危機に陥ると考え、直ぐに救援に行こうとしますが荀攸は次の様に述べています。
※正史三国志 武帝紀より
荀攸「現在の我が軍は兵数で劣っており、救援は困難です。
ただし、敵の兵を分散すれば勝つ事も出来ます。
公(曹操)は延津に到着した後に、一部の兵を分けて敵の背後を攻撃する構えを見せてください。
袁紹は対応する為に西に移動したら、軽装の精鋭に兵を出し白馬を攻撃すれば、顔良を生け捕る事が出来ます」
荀攸は囮部隊を出し、袁紹が劣りに引っ掛かった所で、機動力に優れた部隊で白馬を急襲しろと述べたわけです。
曹操も荀彧の策を成就させる為に、通常の倍の速度で移動し顔良を攻撃しました。
尚、この時に曹操の配下に関羽がおり、張遼と共に顔良を襲撃し大きな手柄を立てています。
白馬での戦いでは関羽が顔良を討ち取った事ばかりが、注目されがちですが、実際には策を立案した荀攸の手柄は極めて大きかったと言えます。
荀彧が預言した顔良を討つ事を荀攸は成就させたと言えるでしょう。
文醜を斬る
荀攸伝によると、白馬の戦いで顔良を討ち取った曹操は帰還し、輜重隊を出し黄河に沿い西に移動する事になります。
袁紹も黄河を渡河し曹操の後を追いました。
荀攸伝を見ると袁紹の軍と曹操の軍が突発的に出くわしたとあり、遭遇戦が起きてしまった事が書かれています。
正史三国志の他の部分と照らし合わせると袁紹軍の劉備、文醜の軍と曹操の軍が出くわしたという事なのでしょう。
この時に、状態が分からない様な遭遇戦を回避する為に、曹操の周りの者は「引き返して陣営を守るべきだ」と述べますが、荀攸は次の様に述べています。
※正史三国志 荀攸伝より
荀攸「これは敵を捕らえる餌です。なぜ引き返すのですか」
曹操は荀攸に目配せをすると「笑った」とあり、曹操の考えを荀攸が発言した事にもなるでしょう。
曹操は輜重隊を囮として出すと、劉備派輜重隊を怪しみ手を出しませんでしたが、文醜の軍は我を忘れて輜重隊に飛びつきました。
文醜の軍の輜重隊を囲み陣形は乱れました。
ここぞとばかりに曹操は文醜の軍を襲撃し、文醜を討ち取っています。
荀攸伝の記録によると文醜は騎兵隊長だったとあります。
荀攸は荀彧の二つ目の予言である「文醜を討ち取る」も成し遂げた事になります。
さらに言えば、遭遇戦の様な混乱が広がりやすい状況であっても、荀攸は軍師らしく冷静さを失わなかったとも言えるでしょう。
韓猛を破る
曹操軍は袁紹軍に連勝し幸先良いスタートは斬りましたが、総兵力、物資では相変わらず劣勢であり、軍は官渡まで後退しました。
曹操軍の兵糧が危機的な状況となっており、荀攸は曹操に次の様に進言します。
荀攸「袁紹の輸送車が到着する様です。
輸送車の運ぶ責任者の韓猛(韓荀、韓若)は気が強い性格をしており、相手を軽く見る性質です。
攻撃すれば打ち破る事が出来ます」
曹操も韓猛を攻撃する事に賛成し、誰に韓猛を攻撃させればよいか?と問うと、荀攸は徐晃を推挙しました。
曹操は徐晃と史渙を派遣し、韓猛を多いに打ち破り輜重を焼き払いました。
荀攸が何故、韓猛の事を知っていたのかは不明ですが、名士ネットワークなどを使い情報を集めていたのかも知れません。
ここでも荀攸の冷静さが光りました。
許攸の降伏
曹操軍もいよいよ兵糧が苦しくなり撤退も考えますが、後方にいる荀彧は撤退に反対しました。
しかし、荀彧は具体的な策を掲示する事も出来ておらず「好機を逃さぬ様に」とする進言があっただけです。
こうした中で袁紹の後方を守る審配が許攸の家族を捕えてしまった事で、許攸が腹を立てて曹操に降伏しました。
多くの者が許攸の降伏を疑う中で荀攸と賈詡だけは、曹操に許攸の降伏を信じる様に進言しています。
曹操は許攸の話を聞き、許攸は袁紹軍の兵糧が烏巣にあると情報を漏らしました。
曹操は自ら兵を率いて楽進と共に烏巣を守る淳于瓊を急襲しました。
本陣を曹操は曹洪と荀攸に任せています。
曹操は烏巣の戦いで決着をつけると考えており、本陣に何かあっても冷静な荀攸が曹洪を上手く補佐するだろうと考えたのでしょう。
実際に、袁紹は郭図の進言もあり張郃、高覧が攻撃を仕掛けてきますが、曹洪と荀攸は攻撃を寄せ付けませんでした。
烏巣の戦いでは楽進の勇猛さも光り淳于瓊を討ち取る大金星も挙げています。
曹操は兵糧を焼き払った事で、袁紹は軍を維持出来なくなり北方に退却しました。
張郃・高覧の降伏
袁紹軍は敗走しますが、曹洪と荀攸が守る本陣を攻撃して来た張郃と高覧は降伏を願い出る事になります。
この時に張郃と高覧は攻撃用の櫓を焼き払って降伏したとあり「敵意はない」とする姿勢を見せたとも言えます。
袁紹は逃走しており、曹操が本陣に帰還していましたが、張郃と高覧の降伏を疑いました。
荀攸は曹操に次の様に進言しています。
※正史三国志 荀攸伝より
荀攸「張郃は自分の計略が採用されなかった事を怒り、ここにやって来たのです。
その張郃を何故疑うのでしょうか」
曹操は荀攸の言葉を信じ、張郃や高覧を迎え入れる事になります。
張郃は曹操の配下となり大活躍する武将です。
官渡の戦いで烏巣が襲撃された時に、張郃は烏巣の救援を主張しましたが、郭図の案もあり烏巣への救援と曹操の本営への攻撃を同時に行わせました。
張郃は烏巣救援を主張していながら、何故か郭図の案である曹操の本営への攻撃を命じられています。
荀攸の言葉を見ると張郃が自分の案を却下され、曹操の大本営を攻撃する経緯を知っていた事になるはずです。
それを考えると、荀攸の話は不自然にも感じられます。
ただし、張郃が降伏する意思を荀攸に知らせ、荀攸が納得して降伏したと言うなら、話の辻褄は合う事になります。
北方を優先させる
袁紹が202年に亡くなると、曹操は北方に黎陽に兵を向け、この軍に荀攸も同行する事になります。
しかし、郭嘉の進言もあり、曹操と言う共通の敵がいれば袁譚、袁尚は共闘するがいなくなれば争いを始めると考え、曹操は南の劉表に兵を向けました。
北方の袁譚と袁尚の戦いが始まり、袁譚が形勢不利となるや郭図の策もあり、辛毗を派遣し降伏を願い出る事になります。
曹操は袁譚と袁尚が思っていたよりも早く争い始め、決着がつきそうな状態だったはずです。
辛毗を派遣しての袁譚降伏の話を聞くと、臣下の多くは劉表は強力であり、先に平定するのがよく、袁譚と袁尚を後回しにすべきと述べました。
しかし、荀攸は次の様に述べています。
※正史三国志 荀攸伝より
天下は乱れているのに、劉表は長江と漢水の一帯を保つだけで、動こうとはしませんでした。
この行為を見るに劉表が野心を持っている様には思えません。
その一方で袁氏の兄弟は四州にまたがる勢力であり、武装した兵は10万を超えていますし、袁紹は寛大さと温情により人々の心を掴んでおりました。
万が一にも二人の兄弟が和解し、父の残した事業を継続するのであれば、天下の兵乱は終わりません。
現在の袁氏の兄弟は互いを憎み合っていますし、どちらかが滅びようとする態勢に入っております。
袁氏の片方が勝利した場合は、その力は一つに纏まる事になります。
袁氏の力が一つに集結すれば、倒すのは難しくなります。
それなら、この混乱に乗じて、この地を取れば天下は平定されるでしょう。
好機を逃すべきではありません」
荀攸は劉表が動かないと感じており、袁氏の勢力は片方が勝ち全てを手に入れれば、攻略するのが難しくなると判断したわけです。
個人的には劉表は皇帝になろうとするかの様な行為を見せた事もあり、野心が全くなかったわけでもないでしょう。
劉表は長沙で桓階と張羨が乱を起こしており、2正面作戦を嫌い北上しなかったか、張羨の乱が平定されたばかりの頃では、出兵を嫌った部分もある様に感じています。
劉表の配下で権力を握る名士の蔡瑁が曹操と親しい仲だったというのもあるのかも知れません。
曹操は荀攸の意見に賛同し、袁譚の和睦を受け入れ北方を目指し袁尚を撃破しました。
荀攸は曹操の北伐にも従軍し、曹操の軍は南皮で袁譚も斬り捨てる事に成功します。
曹操や張遼、郭嘉などの北方遠征もあり、公孫康が袁煕と袁尚の首を献じた事で、袁氏は滅びました。
荀攸の思った通りに事は運んだわけです。
中軍師となる
曹操は上表を行い次の様に述べました。
※正史三国志 荀攸伝より
軍師の荀攸は私をよく補佐してくれ、数多くの戦に従軍してくれました。
前後に渡る戦いの勝利の要因は、全て荀攸の策謀のお陰でもあります。
曹操が献帝に上表した事で、荀攸は陵樹亭侯に封じられました。
さらに、建安12年(207年)に論功行賞を行うと、曹操は次の様に述べています。
曹操「忠義で公正、緻密な作戦を立てる事が出来、国の内外を鎮撫した者として文若(荀彧)が当たり、公達がその次です」
荀攸は荀彧の次に評価され四百戸を加増され、合計で七百戸を領有する様になった記録があります。
荀攸は中軍師にも任命されました。
荀攸が褒賞を受けるにあたって、魏書に逸話があります。
魏書によれば曹操が柳城から帰還する時に、荀攸の宿舎に行き策謀と勲功を称えました。
さらに、曹操は次の様に述べています。
※魏書より
天下の事は大半が落ち着いたと言えるだろう。
儂は賢明な士大夫と共にその労を労いたいと考えておる。
過去に前漢の高祖は張子房(張良)に自分で領有の三万戸を選ばせた。
私も其方に自分で領地を選んで貰いたいと思う。
曹操は劉邦と張良の故事に習い荀攸に自分で領地を選ばせようとしました。
しかし、魏書の話では、ここで話が終わっており荀攸が本当に領地を選んだのかは不明です。
尚、劉邦は張良に三万戸を与えると言いましたが、張良は劉邦と出会った場所を領地として望んだだけで、三万戸は辞退しています。
それを考えると、曹操は選ばせようとはしましたが、荀攸に小さな領地を希望する事を望んだのではないか?とも感じました。
尚、正史三国志では魏国が建国されると荀攸は尚書令になったとあり、文官の中でも筆頭と呼べる身分になった事が分かります。
荀攸は策謀だけではなく、政治力も評価されていたのでしょう。
秘密にされた策
正史三国志によると荀攸は思慮深く緻密で判断力と身の危険を察知するものを持っていたとあります。
韓信などは戦いには強くても、脇が甘く危険を察知できなかった部分もあり、危険予知能力は荀攸の方が優れていると言えるでしょう。
荀攸は多くの戦いで曹操の軍に従軍しましたが、陣幕の中で謀を張り巡らせても、従軍していた者や肉親であっても、その内容を知る者はいなかったと言います。
甥の辛韜が冀州征伐に関して質問した時も、会った事を簡略に伝えただけであり、辛韜に策の内容を教える事はありませんでした。
策の内容を教えないのは前漢の丞相になった陳平や越王勾践の覇業を支えた文種にも通じる部分があります。
ただし、後述しますが友人の鍾繇だけは荀攸の策を知っていたとする記録があります。
魏公就任
最初の方でも言いましたが、荀攸は赤壁の戦いに参戦した記録も無く、孫権陣営に派遣した蔡和や蔡中を周瑜に利用された記録もありません。
ただし、荀攸は数多くの戦いに参戦しており、名前が残っていないだけで実際には、赤壁の戦いに従軍した可能性は残されていると感じました。
三国志演義では曹操の魏公就任に荀彧と共に反対し、憤死した事になっています。
しかし、正史三国志を見ると荀攸が曹操の魏公就任に反対しておらず、むしろ賛成した記録が残っています。
正史三国志の武帝紀の注釈・魏書によれば、曹操の魏公就任に賛成した人物の中で最初に名前が挙がっているのが「中軍師・陵樹亭侯の荀攸」です。
実際の荀攸は荀彧とは異なり、曹操の魏公就任に賛成の立場を取った事が分かります。
尚、下記が曹操の魏公就任に賛成した人物の一覧です。
荀攸の最後
荀攸の最後ですが、正史三国志の荀攸伝には下記の記述があるだけです。
※正史三国志 荀攸伝より
荀攸は孫権征伐に従軍し向かう途中に世を去った。
太祖(曹操)は彼の話をする度に涙を流した。
簡略な記述ですが、曹操が如何に荀攸の死を惜しんだのかが分かる記述です。
曹操が涙を流した姿を見ると、荀彧は曹操と仲違いしましたが、荀攸とは最後まで親密な仲を続けたのでしょう。
孫権征伐に出かけた時に荀攸だけではなく邴原も疫病で亡くなり、荀攸の代わりに華歆が軍師となりました。
曹操陣営の中では疫病が流行していたのでしょう。
曹操は荀攸が亡くなっても呉への戦いを継続しましたが、濡須口の戦いでは孫権配下の甘寧の奇襲もあり撤退しました。
正史三国志によれば正始年間(240年~249年)に、魏では荀攸に敬侯の諡を追贈したとあります。
因みに、荀彧も敬侯の諡を贈られました。
尚、魏書によれば、荀攸が亡くなったのは建安19年(214年)であり、荀攸は58歳だったとあります。
この記述から荀攸の年齢が荀彧よりも6歳年上だという事が分かるわけです。
因みに、荀攸は生前に鍾繇とどちらが最初に亡くなるのか?の占いを朱建平に見て貰った事があり、朱建平は荀攸だと答えた逸話があります。
この時に鍾繇は荀攸が先に亡くなったら妾の阿騖の嫁ぎ先の面倒を見る約束をし、実際に荀攸が先に亡くなり鍾繇は阿騖の嫁ぎ先を探し回った逸話が残っています。
曹操の布令
魏書に曹操が出した布令が載っており紹介いたします。
※魏書より
儂は荀公達と天下を20余年に渡り巡り歩き、非の打ちどころがない人物だった。
荀公達は真の賢人であり、温、良、恭、謙、譲と5つの徳を持った人でもあった。
孔子は「晏平仲(晏嬰)は人との付き合いが立派であり、彼は付き合いが長くなっても敬意を失する事がなかった」と称賛した。
荀公達こそが、そうした人物でもある。
曹操は荀攸の人間性を高く評価する布令を出したわけです。
荀攸と言えば、張良や陳平の様な軍師を思い浮かべますが、政治におていは斉の景公を補佐した晏嬰の様な人物だったと言いたかったのでしょう。
曹操の布令を見ても、曹操が如何に荀攸を惜しんだのかが分かります。
曹操は荀攸に関しては内剛外柔の人だと感じていたはずです。
荀攸の子孫
荀攸の長男は荀緝といい、荀攸の面影があったと言います。
名軍師・荀攸の面影があれば周りからの期待度は高かったと思いますが、若くして亡くなりました。
多分ですが、荀攸よりも先に亡くなってしまったのでしょう。
荀攸の次男の荀適が家を継ぎますが、子供が無く断絶したとあります。
荀攸の孫の荀彪が陵樹亭侯となり、三百戸の領有を授けられたと記録されています。
それを考えると、長男の荀緝は早くに亡くなったかも知れませんが、既に荀彪という子がいたのでしょう。
荀彪は荀攸が亡くなった時に幼く後継者になれず、代わりに荀適が後継者になった様に感じました。
荀彪は後に丘陽亭侯に国替えしたと記録されています。
荀攸の評価
曹操の評価
正史三国志に曹操が荀攸をどの様な人物なのか語った逸話があります。
曹操は荀攸を次の様に評価しました。
※正史三国志 荀攸伝より
曹操「公達(荀攸)は表面は愚鈍に見えても内面に英知を持ち、表面は臆病であっても内面は勇気に満ち溢れている。
表面はひ弱に見えても内面は剛の精神を持ち合わせていた。
善い事をしてもひけらかす事もなく、面倒な事を人に押し付ける事も無い。
その英知に近づけても愚鈍さには近づけない。
顔子や甯武子であっても、彼(荀攸)以上だとは言えないだろう」
曹操は荀攸を常々褒め称えていたとあります。
ただし、荀攸の表面に対しては臆病、ひ弱などの言葉を使っており、荀攸は荀彧と違って見た目は、それほど芳しくなかったのかも知れません。
外見と内面でギャップのあった人だとも感じました。
さらに、曹操は後継者の曹丕に「荀公達は、手本にすべき人物であり、礼を尽くして尊敬しなければならない」とも述べています。
荀攸が病気になった時に、曹丕は見舞いに訪れ、ただ一人寝台の下で拝礼を行い荀攸を敬った話もあります。
曹氏の人々にとって、荀攸は特別な間柄だったのでしょう。
鍾繇の評価
正史三国志には荀攸と鍾繇が仲が良かった話が掲載されており、鍾繇は荀攸について次の様に述べていました。
※正史三国志 荀攸伝より
私は何か行動をしようとする時に、何回も繰り返し思考を張り巡らし、変更の余地がないとまで突き詰めてから荀攸に意見を求めていた。
しかし、荀攸の考えは人の上を常にいっていた。
荀攸の策は合わせて12あったが、仲が良かった鍾繇だけは、その策を知っていたとあります。
鍾繇は荀攸の策が人に知られず、世に埋もれさすのは勿体ないと考えたのか、荀攸死後に編纂作業に取り掛かった話がありますが、完成しないうちに鍾繇が亡くなってしまいました。
正史三国志に注釈を入れた裴松之は、荀攸が亡くなってから鍾繇が亡くなるまでに16年もあったと指摘しています。
鍾繇は16年もあったのに荀攸の計略を纏める事が出来なかったのは、どういう事だろう?と疑問を呈している状態です。
鍾繇は80歳まで生きて荀攸が従軍し、立てた計略を世間に伝えなかったのは残念な事だとも述べています。
裴松之の言葉を考えると、鍾繇も関中を纏めるなどの任務が多忙を極め、荀攸の策を纏めようと思ったのが晩年だったのかも知れません。
尚、鍾繇は荀攸が亡くなった時に、荀攸の妾であった阿騖の嫁ぎ先を探した話があり、余程、仲が良かったという事が分かります。
傅子の評価
正史三国志の注釈。傅子に荀攸に関する話があります。
傅子によると、ある人が「最近の立派な君子は誰になるのであろうか」と聞いたとあります。
それに対して、下記の答えが返って来たと言います。
※傅子より
荀令君(荀彧)の仁徳と荀軍師(荀攸)の英知こそが、最近の立派な君子だと言える。
荀令君は仁愛を根本にし徳を立て、聡明さを持ち合わせ賢人を推挙した。
荀令君の行動に間違ったところはなく、計画は世の中に対応していた。
孟子は『五百年が経過すれば必ず王者が現れ、その間には必ずや一代を覆う人物が現れるであろう』と述べていたが、これが荀令君の事だろうか。
太祖(曹操)は『荀令君は善を推し進め、荀軍師は悪を除去し、除去が終わるまでやめなかった』と述べていた。
傅子の記述を見ると、荀攸よりも荀彧の方が持ち上げられている様に思いますが、荀攸が悪を除去すると述べて終わっているのは、面白いと感じました。
現代人からだと筆頭軍師と言えば荀彧の名を思い浮かべるかも知れませんが、曹操軍の代表的な軍師と言えば、当時は荀攸だったのかも知れません。
尚、軍師と言うのは頭が切れる事はもちろんですが、行儀のよい人もいれば、素行が悪い人もいます。
正史三国志で考えると素行の良い軍師が荀彧、荀攸、諸葛亮、龐統らで中間が賈詡で、素行の悪い軍師が郭嘉、程昱、法正らだと感じています。
陳寿の評価
正史三国志の著者である陳寿は評の部分で、荀攸と賈詡を一纏めとし、失策がなかったと評価しました。
さらに、変化にも通じていたとあり、高評価を与えています。
陳寿は荀彧に関しては、理想を実現できなかったとし、少し手厳しい評価をしていますが、荀攸に対しては最後まで失策がなかったと述べているわけです。
尚、裴松之は荀彧と荀攸は徳高き人物であり、賈詡と一緒にするべきではないと述べています。
荀攸は性格的にも能力的にも申し分の無い様な人物だったのでしょう。