
| 名前 | 呉(春秋) |
| 建国 | 不明 |
| 滅亡 | 紀元前473年 |
| コメント | 越との戦いで有名 |
呉(春秋)は長江文明の流れを汲む国ではないかと考えられています。
史記には呉太伯世家があり、始祖は周の季歴の子で、周の文王の兄とされる太伯だと記録されています。
しかし、最近では呉が太伯の子孫だとする話は、晋と呉が通交した時から使いだしたとも考えられる様になっています。
呉は寿夢の時代に勢力を拡大させ、呉王闔閭の時代には大国である楚を滅亡寸前にまで追い詰めました。
この頃から呉越の戦いが始り、呉王夫差と越王句践の臥薪嘗胆の物語も有名です。
呉王夫差は黄池の会で諸侯を集めますが、越の攻撃を受け、最終的に呉は紀元前473年に滅亡しました。
呉王闔閭や呉王夫差は春秋五覇の一人として選ばれる事もあります。
尚、今回の話は春秋時代の呉の話であり、三国志の孫権の呉とは別なので注意してください。
呉の建国の謎
史記の呉太伯世家の記述
史記の呉太世家によると、呉の始祖となった太伯は父親の季歴が姫昌(周の文王)に国を譲ろうとしている事を悟りました。
そこで太伯は弟の仲雍と共に国を出て、南の荊蛮の地に行き呉の国を建国したとあります。
司馬遷は太伯と仲雍が姫昌に国を譲ったのを美徳としたのか、史記の諸侯を記録した世家の中で呉太伯世家を一番最初に起きました。
太伯は自ら国号を句呉とし、国には戻らなかった話があります。
太伯は亡くなりますが、子がなく弟の仲雍が後継者となり、呉の国が続いて行く事になっています。
仲雍が亡くなると、子の叔達が立ち、叔達が亡くなると、周章が立ちました。
周章の時代は周の武王が殷を滅ぼした時代であり、武王は天子となると太伯や仲雍の子孫を探し、周章がいる事を知ります。
周章は既に呉を治めていたので、弟の虞中を虞に封じました。
これが虞の始まりだとされています。
以上が史記の呉太伯世家の呉の建国の話となっています。
春秋左氏伝の記録
春秋左氏伝の斉の僖公の五年(紀元前655年)に、晋の献公による仮道伐虢の話があります。
晋が虢を討つために虞に道を貸して欲しいと言い、虞の宮之奇が諫める話です。
宮之奇が虞公を諫める言葉の中で「太伯と虞仲は大王(季歴)の子ではありましたが~」という記述があり、これだと太伯の弟は仲雍ではなく、史記だと周章の弟の虞仲という事になってしまうはずです。
呉の系譜には混乱が見られると言えるでしょう。
吉本道雅氏は太伯は元々は呉の始祖ではなく、虞の始祖だと考えました。
太伯の弟も仲雍ではなく、虞仲だとしており、呉とは関係がない事になります。
呉の建国神話がどの様に生まれたのか
太伯が虞の始祖であれば、どうして太伯が呉の始祖になってしまったのか?という問題があります。
吉本道雅氏は虞が晋に滅ぼされた時に、虞の建国の話が晋に伝わったと言います。
後に夏姫と共に晋に亡命した巫臣は、楚を酷く恨んでおり、呉への使者となり晋と呉の国交が開かれました。
この時に、虞の建国神話が呉に伝わったとしています。
元々「呉」と「虞」は発音が近く「呉」の文字を「虞」に代えて使われる例も多かった事から、呉が虞の建国の話を取り入れたのではないかとも考えられている状態です。
呉に亡命した巫臣の目的では、晋と呉が協力して楚への恨みを晴らす事であり、巫臣が当時の呉王である寿夢に中原の国々とやり合う中で、コンサルティングを行ったのではないかとみる事も出来るのではないでしょうか。
巫臣は戦車戦を呉に伝えるなど、かなり熱心に指導した様子が見られます。
こうした中で巫臣が新興国の呉で、中原諸侯との外交を有利にする方法として、神話の導入をアドバイスしたのかも知れません。
呉の開祖が楚人とする説
吉本道雅氏は呉は最初に、楚と同じ祖先を持つと主張していたと考えました。
春秋時代の比較的早い時期に楚の武王は随を介して、東周王朝と揉め王号を称す事になります。
楚は文王、成王と続きますが、その度に勢力は拡大しており、東方の呉にも脅威を与える様になったと考えられています。
西周期の話となりますが、楚の熊厳には熊霜、仲雪、叔堪、季徇の四兄弟がいましたが、後継者は長子の熊霜となりました。
熊霜が亡くなった時に、弟の仲雪、叔堪、季徇で争い、仲雪は亡くなり、叔堪は濮に亡命し、四男の季徇が後継者となっています。
呉では楚から逃亡した叔堪に目をつけ、叔堪が叔達であり、呉は元々は楚の一族だと称していたと考えました。
実際に「堪」と「達」は発音が似ており、呉は楚が強大になった時には、叔達が開祖だと名乗ったと考えられるわけです。
ここから、巫臣が呉にやって来た時に、太伯と仲雍の伝説を組み入れた話を挿入したのではないかともされています。
特に紀元前645年に楚の成王は徐の国を征伐し、長江下流域に進出していますが、この時の呉の君主は柯盧であり、楚の脅威を懐柔する為に、呉の建国が楚と関係があった事にしたのではないかと考えられています。
現代人の感覚だと「こんな適当な系譜を信じる奴がいるのか」と思うかも知れませんが、当時は王と言えど情報が少なく偽りの系譜であっても、外交の場では役に立ったとする見解が強いです。
呉と晋の通交
呉は長江文明の流れを汲んでいると考えられています。
黄河文明に比べると長江文明は気候が温暖であり、ある程度の雑な方法でも食料が賄えた事で、文明の発展が遅かったと考えられています。
長江文明では貧富の差も少なかったと考えられていますが、北方の技術の流入もあり、国の形が出来上がり、寿夢の時代になると王を名乗ったとされています。
寿夢の時代に国名を「句呉」から「呉」に変更したとする説もあります。
寿夢の時代に楚の脅威は迫っていましたが、巫臣が呉を訪れ中原の文化や兵法など様々な事を伝えました。
尚、巫臣を派遣した晋では呉が強くなるとは思っておらず「楚との戦いを多少楽にしてくれればよい」程度のものだったとも考えられています。
しかし、巫臣の指導を受けた呉は強大となり、楚の子反を翻弄するなど、楚に服属していた蛮族を従え勢力を拡大させました。
紀元前576年の鍾離の会では、晋だけではなく魯、斉、宋、衛、鄭との国交も開く事になります。
呉の季札と王位継承
呉王寿夢には諸樊、余祭、余昧、季札と四人の兄弟がいました。
この時に、寿夢は季札が賢いと考え、後継者にしようと考える様になります。
呉の後継者を決める話は、周の季歴が姫昌(周の文王)を後継者にしようとした話に似ています。
周の文王の時は兄の太伯と仲雍が出奔し呉に行った事になっていますが、呉では長子の諸樊が後継者となり、弟の余祭、余昧が王位を継ぎ、最終的に季札が呉王になる様にしたとされています。
中原の国では呉が周王朝と似た様な王位継承をしている事で、太伯や虞仲の姿を重なり、呉が本当に太伯の子孫になったのではないかとも考えられる様になったわけです。
さらに、楚の脅威を感じていた中原の人々は、呉が周と同族であり、自らの味方をしてくれると期待した部分もあるのでしょう。
しかし、季札は最後まで呉王として立つ事がなく、余昧が亡くなると子の呉王僚が立ちました。
呉王僚は一般的には余昧の子という事になっていますが、春秋左氏伝では呉王僚は余昧の弟という事になっています。
呉王闔閭の時代
紀元前522年に楚の平王が費無忌の讒言もあり、伍尚と伍奢を殺害した事で、伍子胥が呉に出奔してきました。
公子光は専諸を使い呉王僚を暗殺し、自ら国君となり、闔閭を名乗る事になります。
呉王闔閭は孫武と伍子胥を重用し、富国強兵に務めました。
紀元前506年に蔡の要請もあり唐も呉に味方した事で、呉は楚を攻撃し柏挙の戦いで大勝し、楚の首都である郢を陥落させています。
楚の昭王は逃亡し、伍子胥は楚の平王の墓を暴き屍に鞭を打った話があり、「死体に鞭打つ」の逸話も残しています。
楚の申包胥は誠意で秦の哀公を説き伏せ秦の援軍を引き出した事で、楚は盛り返しました。
呉王闔閭は楚を完全に滅ぼす事を望んだのかも知れませんが、弟の夫概が無断帰国し独立したり、越も攻めて来た事で呉王闔閭は楚から兵を引き上げある事になります。
ここから呉と越の本格的な戦いが始まる事になりました。
呉王闔閭は大国である楚を完膚なきまでに破った実績もあり、春秋五覇の一人に数えられる事もあります。
しかし、呉王闔閭は檇李の戦いで越王句践に敗れ、紀元前496年に世を去りました。
呉王闔閭が亡くなると夫差が呉王として即位しました。
呉王夫差の戦い
呉王夫差は即位すると、越王句践への恨みを忘れない為に、薪の上で寝たとあり、これが臥薪嘗胆の始まりでもあります。
即位した呉は越王句践を破り越を属国にしました。
これが越王句践が呉に復讐を誓った「会稽の恥」でもあります。
越王句践は范蠡や文種と共に、呉への復讐の機会を狙いました。
呉を破った夫差の方は、伍子胥の諫めも聞かず中原への進出を目指し、紀元前484年には魯と共に斉を攻撃し艾陵の戦いで勝利しています。
呉は辺境の国から、呉や魯などの東方諸国に介入する様になったと言えるでしょう。
ただし、自信をつけた呉王夫差は越を危険視する伍子胥を遠ざけ、越から賄賂を貰う伯嚭を重用する様になったとされています。
伍子胥は後に自害しました。
黄池の会
紀元前482年に呉王夫差は、諸侯を集めて黄池の会を催しました。
史記によると黄池の会では呉王夫差と晋の定公が盟主の座を争ったと言います。
呉王夫差は黄池の会で太伯と仲雍を出し、自らは東周王朝の兄という家系であり、覇者に相応しいと主張しました。
晋の定公は晋は長年に渡り覇者をしており、晋こそが会盟の長に相応しいとしたわけです。
ここまで読んできてくれた方なら分かるかと思いますが、呉の始祖が太伯とする説は捏造の可能性が高いと言えます。
しかし、晋の定公が「嘘だ」と指摘した記録もなく、呉の始祖伝説は機能していたと考えられています。
尚、黄池の会では晋の趙鞅が定公に従っており、呉王夫差と盟誓を行った話があります。
こういった事情から、黄池の会では晋と呉と言うよりも、呉と趙の方が友好関係が深まったとする見解もある様です。
呉王夫差が春秋五覇に選ばれたりするのは、黄池の会を開いたからだともされています。
呉の滅亡
史記を見ると黄池の会で、晋と呉のどちらが盟主になったのかは、場所によって反対の事が書かれており、正確な部分は不明です。
ただし、黄池の会で絶頂にいた呉王夫差が、突如として越の攻撃を受け、首都が陥落する事態となります。
呉王夫差は越王句践と和睦しますが、これ以降の呉は弱体化が進み、越が強大になって行きます。
紀元前475年に越は呉の首都である姑蘇を囲みました。
この時に、趙襄子が楚隆を派遣し、呉王夫差を慰めた話があります。
しかし、紀元前473年に呉王夫差は姑蘇山で自害し、呉は滅亡しました。
晋と呉が通交してから、100年ちょっとで呉は滅んだと言えるでしょう。
歴代君主
史記の系譜による呉の歴代君主です。
王を名乗るまで
太伯ー仲雍季簡ー叔達ー周章ー熊遂ー柯相ー彊鳩夷ー余橋疑吾ー柯盧ー周繇ー屈羽ー夷吾ー禽処ー転ー頗高ー畢軫ー去斉
歴代呉王
寿夢ー諸樊ー余祭ー余昧ー呉王僚ー闔閭ー夫差