孫武は孫子の兵法書で有名な人物だと言えます。
孫子の兵法書は、日本でもよく読まれている書物です。
本屋に行けば孫子の兵法書の本が何冊も置かれていたりします。
孫子の兵法書はビジネスにも使えると、評判が良かったりもするわけです。
一般的には孫子の兵法書を著したのは孫武という事になっています。
孫子呉起列伝では孫武、孫臏、呉起の実績がセットで語られている状態です。
しかし、孫武という人物は「孫子の兵法書」で有名にも関わらず、謎が多い人物と言えます。
実際に孫武は架空の人物とする説もあり合わせて解説します。
孫武は存在しなかった説
史記にしか記録がない
孫武は存在しなかった説まである人物です。
孫武は史記にしか記録がありません。
史記以前の書物には一切出てこないわけです。
春秋左氏伝などは、この時代の事は年表として詳しく書かれていますが、孫武に関する記述は一つもありません。
そのため、「孫武は存在しなかった」とする説が出て来るわけです。
孫武を呉王闔閭に推薦したのは、伍子胥だと言われています。
こうなると、伍子胥と孫武は同一人物だとする説まで存在するわけです。
史記を読むと、孫武が呉王闔閭が寵愛する女性二人を斬った話と、その後に下記の言葉があります。
「斉や晋を恐れさせて、楚の郢(首都)まで侵入したのは、孫子(孫武)のよるところが大きかった。」
しかし、孫武に対する具体的な活躍は書かれていません。
他にも、史記の呉世家の部分で、闔閭が楚を破り首都まで攻めようとした時に「呉の人民は疲れていますので、まだ進撃を行ってはいけません。」と諌止した位です。
これ位しか逸話がないので、孫武は謎が多すぎる人物なわけです。
ただし、孫子の兵法書は残っていますので、書いた人物は絶対にいるはずです。
そのため、存在しなかったという事は絶対にありえないでしょう。
尚、孫子の兵法書は兵法を教える家があり、何代も掛けて完成したのが孫子の兵法書だとする説もあります。
孫武は孫子を元に作られた架空の人物だった!?
孫武が書いたとも言われる孫子の兵法書ですが、孫子の内容から孫武は実在しなかったとする説もあります。
孫武は斉の出身とありますが、春秋時代末期の呉の闔閭に仕えた人物でもあります。
孫子の内容を見ると戦争に勝利する方法だけではなく、外交やスパイなど幾つもの場面を考慮した総合的な兵法書になっている事が分かるはずです。
さらに歩兵が10万などを想定した事も書かれていますが、春秋時代では鉄器の世界ではなく徴兵制も普及しておらず、10万単位の大軍は覇者であっても用意する事は出来ませんでした。
春秋時代の戦争は万単位であり、戦国時代の後ろの方になると大国は40万、50万の軍勢を動かす事が出来たとも考えられています。
孫武のいう10万ほどの戦争は戦国時代の中期を想定して書かれてとみる事が出来るはずです。
他にも、呉の国は南方で湿地帯が多く船の移動が多かったわけですが、孫子には船を使った状況での事が記載されていません。
これらを考慮すると、孫武は実在せず、文献を元にして創作されたのが「孫武」だと考える事も出来るはずです。
孫武が架空の人物だとすると、孫子を書いたのでは誰なのか?という事になります。
一つの説として孫臏が「孫臏兵法」の他に、呉孫子兵法の作者でのあるとする説もありますが、実際の所は誰が書いたのかは分からないとしか言いようがないでしょう。
しかし、戦国時代の中期に名もなき天才がおり、孫子の書き上げて世に出した可能性も十分にあります。
孫武と伍子胥
ここから先は、孫武が実在したと考えて話を進めていきます。
呉越春秋によれば、孫武を闔閭に推薦したのは、先にも言った様に伍子胥だと言う事になっています。
伍子胥は楚の平王に父親である、伍奢と兄の伍尚を殺されたために、楚を恨んでいました。
伍子胥は鄭に行ったりしましたが、最終的に呉に行き闔閭の家臣になっています。
その伍子胥が孫武を推薦した事になっています。
ただし、孫武は斉の出身と史記には書かれていますから、どのようにして伍子胥と孫武が知り合ったのかは不明です。
孫武が何かの使いで、呉に来た時に偶然知り合ったのかも知れません。
それか、孫子の兵法書を伍子胥が知り「この人は凄い」と思い、自ら交わりを結びに行った可能性もあるでしょう。
当時の呉は呉王僚と公子光(闔閭)の間で王位継承問題があった事から、伍子胥はその期間は晴耕雨読の生活をしていたようです。
その時に、孫武と知り合った可能性が大きいかと個人的には思います。
呉の後継者問題は、闔閭が専諸を使い呉王僚を暗殺することでケリがついています。
その後に、伍子胥が闔閭の家臣となり親任を得た所で、孫武を推挙したのではないかと感じています。
尚、専諸の話は史記の刺客列伝に記述があります。
孫武が美人隊長を斬首する
孫武が書いた13篇からなる「孫子の兵法書」を闔閭が読むといたく気に入ります。
そして、闔閭は宮中の女性たちで手本を見せて欲しいと言い出したのです。
この話は有名な話ですが、闔閭は後に後悔する事になります。
孫武は宮中の女性で練兵をする事になりました。
闔閭のお気に入りの二人を隊長に命じています。
孫武「お前たちは自分の手足、胸、背中を知っているか?」
女たち「知っています」
孫武「前と言ったら自分の胸を見ろ。右と言ったら右手、左と言ったら左手、後ろと言ったら後ろを向け」
女たち「分かりました」
さらに、孫武は5度繰り返して命令を理解させたとあります。
これらを言い終えると、斧や鉞などの刑具を揃えて鍛錬を始めます。
そして、孫武は「右」の命令を出します。
しかし、女たちは誰も実践せずに、笑い出したそうです。
すると、孫武は「取り決めが明白を欠き、軍律が不十分なのは自分の責任だ」と言い、再び5回にわたり女たちに説明します。
ここでは闔閭も孫武もこの程度の者か~とのんびり見ていた事でしょう。
そして、再び命令をしますが、女たちは笑うだけで命令に従おうとしません。
これを見た孫武は「既に命令は行き届いているのに、従わないのは隊長のせいである」として、闔閭が寵愛する二人を斬ろうとします。
これを見た闔閭は慌てて、美女二人を救うための使者を孫武に出します。
孫武の実力は分かったから、その二人を斬らないでくれと命令したわけです。
しかし、孫武はこの命令を跳ねのけます。
孫武「私は王の命令により将軍となったからには、君命も受けない事もあるのです」
そういうと二姫を処刑してしまったわけです。
そして、次の位にある女性を部隊長に任命します。
すると、次からは笑う者は一人も出ず、孫武の命令を確実に実行したそうです。
女性たちの訓練が終了すると、孫武は闔閭に「女たちは一人前の兵士となりました。王の命令であれば火の中、水の中にも恐れずに飛び込むでございましょう」と言ったとされています。
しかし、闔閭は不満そうに、「将軍(孫武)は宿舎に行って休むがよい。儂はそこまで行ってみたいとは思わぬ」と言ったそうです。
それを聞いた孫武は「王は理論を好むだけで、実践することは出来ない」と言ったとされています。
孫武は強烈な皮肉を闔閭に言ったわけです。
しかし、闔閭は孫武の実力を認めて将軍に任命しています。
闔閭が孫武を用いた理由
闔閭が寵姫を処刑したのに、孫武を用いた理由ですが、やはり孫武の有能さが分かったからではないでしょうか?
さらに、闔閭は自分に足りないものを、孫武が持っていると感じたのかも知れません。
ただし、この話は本当かどうか分からない部分もあるような気がするんです。
というのは、闔閭は孫武を斬りませんでしたが、斬られてもおかしくない状態だと思います。
美姫が斬られた事で、カッとなって孫武を処刑する命令を出してもおかしくないからです。
それを考えれば、孫武の方も闔閭がどのような王様なのか事前に調べていたのかも知れません。
孫子の言葉で「彼を知り己を知れば百戦殆からず。」といのがあります。
敵を知り自分を知れば百戦百勝出来ると言うのです。
つまり、伍子胥などから闔閭の性格を熟知していた為の、パフォーマンスだったのかも知れません。
あと、美女の訓練を伍子胥が見ていたとしたら、案外、冷や汗を流していた可能性もあるでしょう。
それでも、孫子の兵法書で「彼を知り己を知れば百戦殆からず。」と書きながらも、自分が闔閭に処刑されていたのでは、話になりませんが・・・。
孫武の最後と子孫はどうなったのか?
孫武の最後ですが、史記にも記録がなくて、どのようになったのかは分かりません。
戦場で敗れて戦死した話も聞きませんし、呉王夫差に疑いを掛けられて自刎を命じられた記録もありません。
もちろん、病死、老衰などの情報も皆無です。
孫武の子孫として、斉に孫臏(そんぴん)が戦国時代に登場します。
孫臏が斉にいると言う事は、孫武は将軍をどこかで辞めて故郷の斉に帰ったのではないか?と考える人が多いです。
現在、資料が全くないので、私も孫武の最後は斉に帰り余生を送ったと考えています。
実際の、ところは分からないんですが・・・。
ちなみに、ちょっと前まで孫子の兵法書は孫臏が書いた物とも考えられてきました。
しかし、漢の時代のお墓から孫臏兵法と孫子が同時に出て来た事で、孫子の兵法書は孫武が書かれた事が決定的となっています。
さらに、三国志の時代になると、呉の礎を築いた孫堅は孫子の末裔(子孫)を名乗っていますし、曹操は孫子に注釈を入れています。
尚、曹操が注釈を入れまとめた魏武注孫子が日本で見られる孫子です。
孫武の子孫を名乗る人物では、中華民国の臨時大統領になった孫文などもいます。
ただし、近代の人物なので、実際のところは分からないでしょう。
ちなみに、中国には孔子の子孫を名乗る人も大量にいます。
厳しさで従わせる
孫武が美女を斬った話に戻りますが、司馬遷が書いた史記には似たような話が載っています。
戦国時代に、閼与の戦いで秦軍を破った趙奢は自分に意見をいう者は斬ると言って、本当に意見した者を斬っています。
さらに、斉の司馬穰苴も晏嬰(晏子)に将軍に推薦されると、景公の寵臣である荘賈を斬っているのです。
この時に、司馬穰苴は景公の助命を退けて「将軍は軍に入れば、主君の命令を受ける事が出来ない」といい荘賈を処刑しています。
司馬穰苴も孫武と同じような事を言っているわけです。
楚漢戦争で活躍した彭越にも似たような話が残っています。
このように自分に威が無い時は、処刑することで軍を引き締めるというのは有効な方法なのでしょう。