イスラム 後ウマイヤ朝

ハカム1世は反乱に手を焼いた

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宮下悠史

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名前ハカム1世
生没年771年ー822年
在位796年ー822年
後ウマイヤ朝
一族父:ヒシャーム1世 子:アブド・アッラフマーン2世
コメント反乱に悩まされた後ウマイヤ朝の三代目アミール

ハカム1世は後ウマイヤ朝の3代目のアミールとなります。

父親のヒシャーム1世が亡くなると、アミールの位を継ぎました。

ハカム1世の時代になっても、イベリア半島は安定せず、過去に西ゴート王国の首都だったトレドで反乱が起きるなど、反乱鎮圧に苦労する事になります。

さらに、社会的な構造の問題もありハカム1世の親衛隊と民衆が対立し、軍事衝突に発展するなど、ハカム1世の時代になっても後ウマイヤ朝は安定する事が出来なかったわけです。

ただし、ハカム1世の時代である西暦800年に北アフリカではアグラブ朝が建国され、アッバース朝から独立しました。

既にジブラルタル海峡の反対側には、アッバース朝から独立したイドリース朝が誕生しており、アッバース朝の脅威はさらに弱まったとみる事が出来ます。

しかし、先にも述べた様にハカム1世は内部を纏めるのに苦労しました。

ハカム1世の即位

ハカム1世は後ウマイヤ朝の創設者であるアブド・アッラフマーン1世の孫にあたる人物であり、父親は2代目アミールのヒシャーム1世です。

ハカム1世もカリフを名乗らずにアミールを名乗っています。

アミールの位に立ちますが、一族内での争いもあり、苦難の船出となりました。

さらに、西ゴート王国の首都だったトレドで反乱が起きたり、サラゴサやメリダでも反乱が勃発し、時には本拠地のコルドバまで攻められる事もあった程です。

多くの国で三代目となれば、国は安定し全盛期を迎えたりしますが、ハカム1世の時代になっても後ウマイヤ朝では、混乱が続き全盛期とは程遠い状態だったと言えるでしょう。

親衛隊と民衆が衝突

この時代は外部の奴隷兵を親衛隊として用いる事が多くありましたが、後ウマイヤ朝でも同様に黒人やスラヴ系の人々を親衛隊に任命していました。

当然ながらハカム1世の親衛隊も黒人やスラヴ系の人々が多かったわけです。

黒人やスラヴ系の人々は、イベリア半島の住民とは外見や言語が異なっていたため、社会的に周縁化されやすく、緊張関係が生じることもあったと記録されています。

818年の春、コルドバ近郊でハカム1世が狩猟から戻る途中、一部の群衆が親衛隊に対して侮辱的な言葉を投げかけたと伝えられています。

親衛隊は侮辱行為に対して即時の対応を行い、およそ十名ほどを逮捕し、その場で厳罰に処したと伝えられています。

この処罰の知らせは急速に広まり、地元住民の間に強い反発を引き起こしました。

武器を手にした住民の一部が橋を渡って王宮へ向かい、抗議行動は武力衝突へと発展しました。

ハカム1世の軍はこれを鎮圧しましたが、戦闘は市街地にまで及び、複数の史料では「大規模な犠牲が生じた」と記録されています。

下町の一帯では三日間にわたり混乱が続き、生存者の一部は処刑され、その他の住民は追放されたと伝えられています。

この818年の事件は、コルドバの都市社会が抱えていた緊張の複雑さを示す事例とされています。

一部の伝承では、マーリク学派の法学者が住民の不満を背景に影響力を行使した可能性が示唆されていますが、史料は断片的であり、事件への直接的関与については明確ではありません。

ただし、ハカム1世がマーリク学派の宗教的権威を警戒していたことは、複数の史料から読み取ることができます。

ハカム1世は822年に亡くなり、アブド・アッラフマーン2世がアミールの位を継ぎました。

先代:ヒシャーム1世ハカム1世次代:アブド・アッラフマーン2世

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