
| 名前 | アブド・アッラフマーン1世 |
| 生没年 | 731年ー788年 |
| 在位 | 756年ー788年 |
| 国 | ウマイヤ朝→後ウマイヤ朝 |
| 一族 | 子:ヒシャーム1世など |
| コメント | イベリア半島で後ウマイヤ朝を建国した。 |
アブド・アッラフマーン1世は後ウマイヤ朝を建国した人物です。
ウマイヤ朝の10代カリフであるヒシャームの孫であり、ウマイヤ家の人物でもあります。
アッバース革命によりウマイヤ朝が滅亡し、アッバース朝が勃興しました。
アッバース朝のサッファーフによりウマイヤ家の多くの者が命を落としますが、アブド・アッラフマーン1世はイベリア半島まで逃亡し後ウマイヤ朝を建国しました。
ただし、アブド・アッラフマーン1世は後ウマイヤ朝は建国しましたが、カリフは名乗らず総督の称号であるアミールを名乗っています。
イベリア半島に渡ってからのアブド・アッラフマーン1世は、国が安定する為に腐心しました。
アブド・アッラフマーン1世の登場
アブド・アッラフマーン1世はウマイヤ家の者として、何不自由なく暮らしていたと考えられています。
ヒシャームの孫にあたるアブド・アッラフマーン1世と、西ゴートの娘であるサラとは、ダマスカスの宮廷で知り合ったと伝えられています。
このアブド・アッラフマーン1世こそ、後にウマイヤ家の血統を継ぎ、イベリア半島で後ウマイヤ朝を樹立する人物です。
743年にヒシャームが死去すると、数年後にはウマイヤ朝がアッバース家によって打倒されました。
イスラム史上初の世襲王朝であったウマイヤ朝は750年に滅亡し、アッバース朝が成立します。
アッバース朝のカリフたちは、ウマイヤ家の再興を防ぐため、その一族を徹底的に排除しようとしたとされ、多くのウマイヤ家の人々が命を落としました。
アブド・アッラフマーン1世は商人に身をやつし、ラクダに乗って北アフリカへ逃れたと伝えられています。
彼はアッバース朝の追手を避けつつパレスチナ、エジプト、マグリブ(北西アフリカ)へと移動し、最終的にセウタの港町に到達しました。
アブド・アッラフマーン1世の母がベルベル人の出自であったという説もあり、その縁を頼って北アフリカに逃れたとも言われています。
アブド・アッラフマーン1世は、イベリア半島に渡って支持者を集め、旗揚げする計画を立てていました。
明確な史料は残っていませんが、ウマイヤ家に恩義を感じていたサラが協力を約束したという伝承もあります。
アブド・アッラフマーン1世の後ウマイヤ朝創設
755年4月、アブド・アッラフマーン1世はついにイベリア半島へ上陸しました。
事前の根回しが功を奏したのか、彼を支持する者が多く現れ、軍勢の提供や道案内など、さまざまな形で協力が得られたとされています。
彼の勢力は日ごとに拡大していきました。
勢力を伸ばすアブド・アッラフマーン1世に対し、コルドバの総督は懐柔策を取り、「首都で歓待したい」「娘婿になってほしい」と申し出たと伝えられています。
しかし、アブド・アッラフマーン1世はこれに応じなかったとされています。
その後も進軍を続けたアブド・アッラフマーン1世はセビージャに入城し、さらにコルドバを占領してアル=アンダルスの支配者であると宣言しました。
これが後ウマイヤ朝(コルドバ・ウマイヤ朝)の成立とされます。
アブド・アッラフマーン1世は約5年でイベリア半島に独自の王朝を築きましたが、この時点では「カリフ」を名乗らず、より下位の称号である「アミール(総督・君主)」を用いていました。
アブド・アッラフマーン1世はサラに感謝しており、彼女に対してできる限りの厚遇を示したと伝えられています。
サラが未亡人となった際には再婚相手を探し、肥沃な土地や珍しい品々を贈ったとも言われています。
アブド・アッラフマーン1世にとっても、サラにとっても、ダマスカスでの出会いは重要な縁となったのでしょう。
アブド・アッラフマーン1世とベルベル人
先にも述べた様に、ベルベル人はアブド・アッラフマーン1世の後ウマイヤ朝建国を助けました。
ベルベル人の間で広く支持されたのが、ハーリジ派という宗派でした。
ハーリジ派は、イスラーム史における最初期の分派の一つとされ、当時としてはきわめて平等主義的な思想を掲げていたと考えられています。
彼らは、人種・部族・家系といった出自に関係なく、すべての信徒が平等の権利を持つべきだと主張しました。
そのため、ムハンマドの親族であることや、メッカ・メディナの名門出身であることに特権を認めなかったと伝えられています。
こうした思想から、ハーリジ派はダマスカスから派遣された軍人や官吏が現地住民を差別したり、過度に支配したりする状況を強く批判しました。
しかし、彼らの急進的な平等思想は当時の主流派から受け入れられず、アラビア・シリア・ペルシアでは厳しい弾圧を受け、シーア派のような大規模な宗派勢力には成長しませんでした。
一方で、北アフリカのベルベル系諸部族の間では、ハーリジ派の思想は広く浸透し、いくつもの強力な宗派集団や新王朝の成立につながりました。
アッバース朝が成立し、ウマイヤ家の追討が行われた際にも、ベルベル人たちはアブド・アッラフマーン1世を保護し、彼がイベリア半島へ逃れるのを助けたと伝えられています。
イベリア半島に到着した後も、コルドバ総督府は内部対立によって弱体化しており、アブド・アッラフマーン1世の進軍を阻止できなかったとされます。
こうした状況が重なり、彼は後ウマイヤ朝(コルドバ・ウマイヤ朝)を樹立することに成功しました。
イェーメン系とシリア系の対立、そして反乱の発生
アブド・アッラフマーン1世は後ウマイヤ朝を建国しましたが、当然ながら国を統治する立場となります。
当時のイベリア半島には、アラブ系やベルベル系だけでなく、イェーメン系・シリア系など、さまざまな出自の部族集団が存在していました。
とくにイェーメン系とシリア系の対立は深刻で、長年の遺恨から争いが絶えず、統治を困難にする要因となっていました。
アブド・アッラフマーン1世がイベリア半島に上陸した直後、彼を支援したのはイェーメン系の勢力であったと伝えられています。
しかし、アブド・アッラフマーン1世が権力を確立した後は、シリア系の集団に対しても寛容な姿勢を示し、彼らを政権内に取り込む政策をとりました。
これにより、当初アブド・アッラフマーン1世を支持していたイェーメン系の人々の間に不満が生じ、政治的緊張が高まったとされています。
その結果、彼の統治期には複数の反乱が発生しました。
さらに、ウマイヤ朝を倒して成立したアッバース朝のカリフ、アル=マンスールは、アブド・アッラフマーン1世に対抗する勢力を間接的に支援したとされ、ベルベル系とアラブ系、イェーメン系とシリア系といった既存の対立構造が表面化する要因となりました。
後ウマイヤ朝の政治の問題はアブド・アッラフマーン1世の時代だけでは終わらなかったと言えるでしょう。
アブド・アッラフマーン1世の最後
西暦778年にはフランク王国のカール大帝が後ウマイヤ朝に侵攻しました。
アブド・アッラフマーン1世も対応をし、ゴタゴタもありましたがカール大帝は徹底しています。
西暦788年にはアブド・アッラフマーン1世が没しました。
アブド・アッラフマーン1世は後ウマイヤ朝を建国する事は出来ましたが、国内には多くの問題を抱えたままで亡くなってしまったと言えるでしょう。
後ウマイヤ朝内部でも混乱は数代に渡り続く事になります。
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