名前 | 畠山直顕 |
読み方 | はたけやまただあき |
生没年 | 不明 |
一族 | 父:宗良(修理亮) 兄弟:宗生、宗国、頼継 |
子:重隆、左馬助宗良 | |
年表 | 1336年 日向国大将に任命される |
1345年 日向守護に任命される | |
1358年 菊池武光に敗れる | |
コメント | 日向で奮戦するも敗れる |
畠山直顕は足利一門であり日向制圧の手腕により日向守護となった人物です。
観応の擾乱により足利直冬が九州に下向すると、畠山直顕は足利直冬に与し勢力の拡大を図りました。
国人を優遇する畠山直顕の手法が成功し、下向してから僅か3年ほどで日向国の武士を纏め上げています。
足利直義が亡くなると直冬は九州で勢力を維持する事が出来ず、それに伴い畠山直顕も弱体化しています。
九州は南朝の勢力が強い地域でもあり、畠山直顕は南朝の菊池武光の攻撃により本拠地の穆佐城が陥落し、三俣城に移るもこちらも落城しました。
畠山直顕は九州で地盤強化する事が出来ずに消えたといえそうです。
尚、足利基氏の配下となり関東執事になった畠山国清がいますが、畠山国清は同じ畠山一門ではありますが、畠山直顕と畠山国清の家は数世代前に分かれた事でも知られています。
畠山直顕の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。
日向国大将に任命される
畠山直顕の前半生は分かっている事が少なく、畠山宗義の子で一族の畠山高国、国清、義深らと共に足利尊氏に従い各地で奮戦したと考えられています。
足利尊氏は後醍醐天皇の建武政権から離脱し各地で転戦しますが、北畠顕家らに敗れて九州に落ち延びています。
畠山直顕も足利尊氏に従い九州で多々良浜の戦いに参戦したのでしょう。
足利尊氏は少弐頼尚ら九州の守護達と上洛しますが、九州の抑えとして鎮西管領・一色道猷と共に日向国大将として畠山直顕を日向に派遣しました。
当時は日向守護として大友氏泰がおり、畠山直顕は日向国大将となったのでしょう。
足利尊氏が畠山直顕を日向国大将とした理由は、足利家の日向国内の所領である国富荘や島津荘の権益を守らせる為だと考えられています。
日向国内の国富荘や島津荘は広大な領域があり、足利家として確保しておきたかったのでしょう。
尚、島津荘の日向方穆佐院は将軍家御台所領となっており、足利尊氏の正室となっていた赤橋登子の領地にもなっていました。
足利尊氏は畠山直顕を日向国大将とすると日向の土持宜栄らに、畠山直顕の傘下に入る様にと指示を出しています。
日向国の制圧
畠山直顕の日向支配に抵抗した勢力が肝付兼重となります。
1335年に後醍醐天皇が足利尊氏や直義を討伐する命令が出ますが、これに呼応したが肝付兼重でした。
肝付兼重は日向の三俣院や大隅の肝付郡を拠点とし、多くの者を味方に付けて畠山直顕と対峙する事になります。
日向国大将の畠山直顕が日向に入ると穆佐城を本拠地として活動しました。
畠山直顕は薩摩の島津貞久と協力し南九州の安定に尽力する事になります。
穆佐城から畠山直顕は肝付兼重打倒を呼び掛けると、これに応じたのが土持氏や那賀氏ら足利家に与する国人となります。
畠山直顕は土持氏や佐伯氏らと共に新田義貞に与する益戸氏や三俣院王子城に攻撃を仕掛けて来た肝付兼重の軍を打ち破っています。
さらに、宮崎平野に割拠する南朝勢力である伊東祐広の居城である八代城を攻撃し、伊東祐広は降服しました。
野辺盛忠も降伏させる事に成功し、畠山直顕は勢力を拡大しています。
1339年には肝付兼重の子である金童丸がいる野尻城を降伏させました。
さらに、畠山直顕は肝付兼重の日向国の拠点である兼重城も攻略し、肝付兼重は拠点を大隅に移す事になります。
日向平定戦での畠山直顕は破竹の勢いだったと言えるでしょう。
畠山直顕が日向守護に就任
畠山直顕は日向国内の南朝勢力を駆逐し、国富荘と島津荘日向方の確保に成功しました。
この時点で畠山直顕は足利尊氏の期待に大きく応えたと言えるでしょう。
尚、1340年頃までは畠山直顕は畠山義顕と名乗っていましたが、この頃に畠山直顕に改名した事も分かっています。
1345年に室町幕府では畠山直顕の功績を評価し、日向守護に任命しました。
畠山直顕の居城である穆佐城が日向国守護所となります。
畠山直顕は日向に下向してから3年ほどで国を纏め上げており、手腕を高く評価される事もあります。
畠山直顕の手法
日向国と無関係だった畠山直顕が日向国大将に任命されてから、短期間で勢力を拡大出来たのは、国人を上手く掌握した事が原因だと言えるでしょう。
鎮西管領に任命された一色道猷は拠点もなく経済状況も不安定で軍事権の守護との棲み分けも明確ではなく苦労しますが、畠山直顕は地元の武士たちに積極的に所領を安堵したり、新恩給与の要求に応えるなど求心力を高めました。
畠山直顕は足利一門でもあり、恩賞の迅速さなども評価され日向で求心力を伸ばしたわけです。
ただし、畠山直顕の国人優遇策は荘園領主とは対立していた事も分かっています。
日向国浮田荘小松方や大墓別符は春日社領であり、興福寺院家東北院が雑掌を派遣し支配していました。
ここで派遣された雑掌は畠山直顕や配下の松浦一族が小松方や大墓別符の領地を押領していると室町幕府に訴え出たわけです。
春日社側は光厳上皇の院宣を獲得し足利尊氏の安堵状や高師直の執事施行状を発行した事が分かっています。
こうした事情から畠山直顕の国人優遇策は荘園側からみれば押領でしかなかったと言えるでしょう。
畠山直顕は武士の心は掴んだのかも知れませんが、荘園側からはいい迷惑だったわけです。
畠山直顕と足利直冬
観応の擾乱が勃発し足利直義が高師直の要求に従い出家する事態となります。
こうした状況の中で足利直義の養子である足利直冬が九州に下向してきました。
この時に足利直冬を支持したのが少弐頼尚や畠山直顕となります。
足利尊氏は「足利直冬追討令」を発行しますが、効果が無く足利直冬は勢力を拡大させています。
この時期に足利直冬が畠山直顕配下の土持氏に感状を与えており、畠山直顕が恩賞を了承してもらう相手が室町幕府から足利直冬へと変わったのでしょう。
日向守護の剥奪
日向には足利家領があり、足利本家の財源の一つになっていました。
日向守護の畠山直顕が足利直冬に与すれば、足利家領は足利直冬や畠山直顕の活動資金になってしまう事は目に見えた状態だったわけです。
足利尊氏や義詮はこうした状態を危惧し、畠山直顕の日向守護の位を剥奪しました。
新たなる日向守護として鎮西管領一色氏の一族である一色範親が任命されたと考えられています。
島津貞久は足利尊氏や義詮を支持しており、長年に渡り協力関係だった畠山直顕と敵対する事になります。
一色道猷も足利尊氏を支持しており、畠山直顕と対立しています。
畠山直顕は日向から大隅攻略を目指し南下すると、1351年8月に南朝の楡井頼仲を破り志布志城を制圧しました。
正平一統と九州情勢
足利直義は高師直を破りますが、足利尊氏と対立し関東に逃れました。
足利義詮が佐々木道誉らの手引きで南朝に降伏し、続いて足利尊氏も南朝に降伏しています。
室町幕府が南朝に降伏した事で北朝は消滅し、これを正平一統と呼びます。
足利尊氏や義詮が南朝に降伏した事で、島津貞久も南朝の武将となり、懐良親王の九州征西府に属しました。
しかし、関東では足利直義がまだ生きていた事もあり、畠山直顕は大隅での戦いを優位に進めています。
南九州では島津貞久が隠居していた事もあり、島津氏久が畠山直顕に対処する事になります。
畠山直顕は島津氏久を大隅から撤退させるなど優勢でした。
畠山直顕の転落
日向や大隅の多くの武士たちの支持を得ていた畠山直顕ですが、足利直義が1352年に亡くなると暗転する事になります。
足利直冬も勢いを失くし九州から中国地方に移りました。
畠山直顕の権威であった足利直冬の長門への撤退は、畠山直顕の求心力の低下の原因となります。
島津氏久は幕府に帰順していましたが、再び懐良親王の九州征西府に与し、大隅へ軍を進めた事で畠山直顕は窮地に陥りました。
畠山直顕は状況を打破する為に室町幕府に復帰し、足利尊氏は畠山直顕を日向守護として認めています。
太平記によると肥後の菊池武光による日向遠征が行われる事になります。
島津氏が南朝の武将となった事で、九州征西府の標的が日向の畠山氏となったわけです。
菊地武光に穆佐城を陥落させ、畠山直顕は三俣城に移りました。
三俣城は息子の重隆がいましたが、菊池武光の攻撃を受けると呆気なく落城しています。
これにより畠山直顕及び重隆は山中深くに逃げ延び、これ以降は歴史から姿を消す事になります。
それでも、1360年に室町幕府に復帰した島津氏久が畠山直顕に同心を求めた文章が残っており、九州にいて挽回の機会を伺っていたのでしょう。
しかし、畠山直顕が政界復帰する事はなく、どうなったのかは分からなくなっています。
畠山直顕の子孫
尊卑分脈では畠山直顕の子として、左馬助宗泰の名前が記録されています。
宗泰は越中で60余歳で亡くなったとされており、九州から越中に移ったと考えられています。
畠山直顕の子孫としては足利義満の近衆となった畠山七郎なる人物がいます。
畠山直顕は「七郎直顕」とも呼ばれており、足利義満に仕えた畠山七郎は畠山直顕の子孫ではないかとする見解もあります。
畠山直顕の子孫は日向を去った後に室町幕府の外様衆となり越中国に移ったとも考えられていますが、正確な部分はよく分からない状態です。
畠山直顕の動画
畠山直顕のゆっくり解説動画となっております。
この記事及び動画は南北朝武将列伝北朝編をベースに作成しました。