名前 | 少弐頼尚 |
読み方 | しょうによりひさ |
生没年 | 1294年ー1372年 |
時代 | 鎌倉時代ー南北朝時代 |
年表 | 1336年 多々良浜の戦い、建武式目の制定 |
1353年 針摺原の戦い | |
1359年 筑後川の戦い | |
コメント | 九州の大宰府を本拠地とした。 |
少弐頼尚は南北朝時代に活躍した人物であり、室町幕府誕生に大きく貢献した人物でもあります。
足利尊氏が後醍醐帝三傑に敗れ九州の落ち延びた時に、迎え入れたのが少弐頼尚です。
少弐頼尚は足利尊氏と共に近畿を転戦し、建武式目の制定にも大きく関わっており文武両道の武将だったと言えるでしょう。
足利直冬と共闘し九州で勢力を伸ばしますが、危機に陥ると南朝の菊池武光により救われました。
この時に少弐頼尚は「七代末まで裏切らない」と述べますが、数年後には北朝に鞍替えしています。
菊池武光に対する背信行為が目立つのは、悪名は美名に勝るという所なのでしょう。
尚、少弐頼尚は引退しますが、少弐家は少弐冬資と少弐頼澄に分裂する事になります。
少弐頼尚が分裂の原因を作ったともされていますが、真相は不明です。
少弐頼尚のYouTube動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。
少弐頼尚の誕生
少弐頼尚は1294年に生まれた事が分かっており、鎌倉時代に誕生しました。
青年期の少弐頼尚は元が再び攻めて来るのではないかとも考えられていた時代であり、社会不安が少なからずあった時代です。
少弐頼尚が30歳を過ぎた頃には、両統迭立に不満を持った後醍醐天皇が倒幕を画策していた時代でもありました。
鎌倉幕府の滅亡は1333年ですが、この頃には父親の少弐貞経が存命だったわけです。
幕府軍の足利尊氏が後醍醐天皇に味方し六波羅探題を陥落させると、少弐氏は大友氏や島津氏と共に幕府の鎮西探題を滅ぼしました。
建武の新政により少弐貞経は筑前・豊前の守護に任命されています。
鎌倉幕府の滅亡までの期間において少弐頼尚の事で分かっている事は殆どない状態です。
鎮西探題が滅んだ時に父親の少弐貞経が少弐頼尚に領国を任せ上洛しました。
北条氏の乱を鎮圧
後醍醐天皇による建武政権が始まりますが、北条氏の残党が各地で蜂起しました。
九州でも規矩高政と糸田義貞が反乱を起こしています。
少弐頼尚は乱を鎮圧すると報告の為に上洛を行っています。
少弐貞経、頼尚の親子は上洛した時に、源氏の棟梁でもある足利尊氏と人脈を形成したのでしょう。
1335年に長門国佐加利山城で北条氏の残党が乱を起こすと少弐頼尚は兵を率いて鎮圧しています。
少弐頼尚は建武政権の西国支配において重要なポジションを任されていたわけです。
足利尊氏を迎え入れる
北条時行の中先代の乱が決起となり足利尊氏は建武政権から離脱しました。
この時点で少弐貞経、頼尚の親子は尊氏に味方するのか後醍醐天皇に味方するのかの選択肢を迫られたわけです。
少弐貞経、頼尚は足利尊氏に味方する事を決めました。
関東から近畿に転戦した尊氏ですが、北畠顕家、楠木正成、新田義貞らに敗れて九州に落ち延びました。
足利尊氏が長門国の赤間関に到着した時に、少弐頼尚は一族を引き連れて足利尊氏を出迎えています。
この時に少弐頼尚は多くの軍勢を引き連れて足利尊氏を出迎えており、その隙を突かれ父親の少弐貞経が菊池武敏の攻撃を受けて有智山で命を落としています。
1336年の多々良浜の戦いでは足利尊氏や直義と共に奮戦し勝利を得ています。
ただし、父貞経の仇を討つ事は出来ませんでした。
近畿を転戦
足利尊氏は多々良浜の戦いでの勝利により短期間で復活し勢力を盛り返し近畿を目指しました。
少弐頼尚も一族や軍勢を引き連れて足利尊氏と共に近畿に向かう事になります。
足利尊氏は湊川の戦いで後醍醐天皇に味方する新田義貞や楠木正成と戦う事になります。
梅松論によると尊氏の軍勢は大手、山の手、浜の手と軍を三つに分けて戦っていますが、浜の手の大将に選ばれたのが少弐頼尚です。
大手の大将が尊氏の弟である足利直義で、山の手の大将が足利一門の筆頭とも言える斯波高経であり、当時の尊氏軍において少弐頼尚が如何に重要視されていたのかが分かる事でしょう。
足利尊氏は九州軍の主力であり少弐頼尚を重視しました。
湊川の戦いで勝利した足利尊氏は後醍醐天皇を比叡山に囲み後に幽閉する事に成功しています。
近畿の一連の戦いにおいて少弐頼尚は各地を奮戦し活躍し大きな功績を得る事になります。
建武式目の制定
1336年12月に建武式目が制定されており、これにより室町幕府が始まりました。
建武式目には様々な決まりが書かれていますが、最後に起草者の8人の名前が掲載されており、その中に「大宰少弐」の名前があり、これが少弐頼尚である事は疑いの余地はないでしょう。
少弐頼尚の先祖である武藤資頼が故実に通じており源頼朝に重用されましたが、同じように少弐頼尚も故実に通じており足利尊氏もまた重用したのではないかとされています。
少弐頼尚が己の知識を生かして建武式目の制定に大きく関与した事だけは間違いないはずです。
室町幕府の成立において少弐頼尚は軍事、内政の両輪において活躍した武将だったわけです。
三カ国の守護
後醍醐天皇が吉野で南朝を開いた事により、室町幕府が推戴する北朝と合わせて南北朝時代が始まりました。
1338年頃になると畿内が安定したと考えたのか、少弐頼尚は本国の九州に戻る事になります。
帰国した少弐頼尚は筑前、豊前、肥後の守護となっており、幕府の鎮西管領の一色範氏(一色道猷)と協力し南朝に味方する肥後の菊池氏を討伐しています。
少弐頼尚は九州に帰国した後も南朝の軍を討ち幕府の為に働いたわけです。
紀伊征伐
1348年になると幕府内で高師直の影響力が強くなりました。
こうした中で足利直義は足利直冬を総大将とする紀伊征伐を決定します。
足利直冬は尊氏の庶子であり直義の養子となっていました。
直義は少弐頼尚にも九州勢を率いて上洛する様に命じており、これが少弐頼尚と足利直冬の出会いとなります。
足利直冬との関係が少弐頼尚に大きな影響力をもたらす事になります。
紀伊征伐は大成功に終わり少弐頼尚は帰国しました。
尊氏の直冬追討令
紀伊征伐の翌年には足利直冬が長門探題に就任しました。
しかし、幕府内では足利直義と高師直の対立があり、足利直義が出家し政務を引退する事になります。
足利直義の出家に伴い足利尊氏は直冬の長門探題解任と近畿に戻る様に命令しました。
直冬は尊氏の命令を拒否しますが、備前国で襲われ九州の肥後国川尻にまで没落しています。
足利尊氏は少弐頼尚に足利直冬討伐の命令を出しました。
尊氏の命令を受けた少弐頼尚は一色範氏と共に肥後に向けて軍勢を動かしています。
少弐頼尚は最初は直冬の敵として動いていたわけです。
少弐頼尚が足利直冬を迎え入れる
少弐頼尚は足利直冬の討伐に動いたはずでしたが、本拠地である大宰府に迎え入れました。
さらに、太平記では娘を足利直冬に嫁がせるなど、両者の関係が親密になる様に取り計らっているわけです。
この時点で少弐頼尚も足利直冬と同様に室町幕府の傘下から離脱する事になります。
少弐頼尚が直冬に接近した真相は不明ですが、森茂暁氏は「直冬を使って政治政権を樹立しようとする野心があったのではないか」と考えました。
少弐頼尚の歩んできた道をみれば分かりますが、征夷大将軍になる足利尊氏と九州や近畿で共闘し建武式目を制定するなど華々しい前半生があったわけです。
しかし、九州に戻り中央から外れ紀伊征伐で近畿に行っても室町幕府の中枢から外れていると実感したのではないかともされています。
少弐頼尚は自分の置かれた政治状況に不満を持ち、足利直冬を擁立し政治的立場を高めようとしたとも考える事が出来ます。
九州に一大勢力を確立
少弐頼尚は北部九州では強い影響力を持っており、足利直冬という権威を確立した事で大きく勢力が拡大しました。
協力して幕府の為に働いていた一色範氏も九州から追い出してしまうなど、この頃の足利直冬や少弐頼尚の勢力は強大だったわけです。
観応の擾乱で足利直義は高師直に勝利すると、足利直冬を鎮西探題への就任を認めさせています。
これにより足利直冬や少弐頼尚は幕府に帰順しましたが、心の底から納得できるものでは無かったのでしょう。
少弐頼尚の危機
観応の擾乱で高師直を破った足利直義ですが、今度は尊氏と対立しました。
この頃に播磨の赤松則祐と近江の佐々木道誉が謀叛を起こしたとする情報があり、足利義詮が播磨に出陣し、尊氏が近江に出陣しています。
足利尊氏は鎮西探題の直冬に義詮を救援する様に命令しますが、直義が出奔した事で一転して「鎮西探題の解任」と直冬討伐令を出す事になります。
足利尊氏は直冬が播磨へ出陣するのは、直義と連携して自分を討つ為だと勘違いし、直冬追討命令を出したわけです。
足利尊氏の追討令により一色範氏は勢力を挽回し北から少弐頼尚の勢力に攻撃し仕掛け、南からは南朝の懐良親王の勢力が迫ってきました。
一色範氏と懐良親王が連携し南北から少弐頼尚を攻撃した事で足利直冬や少弐頼尚は窮地に陥ります。
先に根を上げたのは足利直冬であり九州から離脱し、中国地方に戻りました。
七代末まで菊池に弓引くべからず
足利直冬が長門に落ち延びても、少弐頼尚は筑前国浦城で籠城を続け一色範氏の攻勢を耐え続けています。
ここで足利直冬と少弐頼尚に運が味方し、中国地方の大内氏や山名氏が直冬を支持し、直冬も南朝に降伏したわけです。
既に南朝には大内弘世や山名時氏だけではなく、旧直義派の桃井直常や足利一門の筆頭とも呼べる斯波高経がいました。
少弐頼尚も南朝の武将として認められ菊池武光が援軍として現れる事になります。
名将菊池武光が少弐頼尚を救出し、筑前国針摺原の戦いでは菊池武光らと共に一色範氏の軍を破りました。
滅亡寸前だった少弐頼尚は菊池武光のお陰で危機を脱出し、一色範氏を九州から再び追い出す事に成功しています。
この時の少弐頼尚の喜びは大きかったのか「今から後の子孫七代に至るまで、菊池の人々に向かって弓を引き、矢を放つ事は無い」と述べた話があります。
少弐頼尚の裏切り
これまでの話を見て来た方はお分かりかと思いますが、少弐頼尚の行動は足利直冬に連動しているとも言えます。
足利直冬は山名時氏や大内弘世らに衰退し南朝の武将として京都を襲い奪還しています。
しかし、足利直冬に既に戦意は無かった様で、東寺合戦において足利尊氏に敗れて中国地方に落ち延びています。
足利直冬が敗れた時点で少弐頼尚の野望は潰えたと言ってもよく、南朝にいる理由も無くなりました。
少弐頼尚は恩がある菊池武光を裏切り再び幕府の傘下に入る事になります。
先に菊池武光に助けて貰った時の「七代末まで菊池に弓引くべからず」の言葉は数年で反故にされてしまった事にもなります。
ただし、七代末までの言葉は南朝側が少弐頼尚を恥ずかしめる為の創作だったのではないかとも考えられています。
尚、少弐頼尚は大保原の戦い(筑後川の戦い)で南朝の軍に敗れ長男の直資は戦死しました。
少弐頼尚の引退
少弐頼尚は大保原の戦いで南朝に敗れてから出家して「本通」を名乗り当主の座を少弐冬資に譲りました。
足利直冬が無気力状態になった様に、少弐頼尚も九州制覇の夢が潰え無気力になってしまったのかも知れません。
1367年に隠居した少弐頼尚は京都で暮らす事になります。
少弐頼尚は長男の直資が戦死していた事で、少弐冬資を後継者に指名しましたが、南朝の征西府では少弐冬資の弟の少弐頼澄を大宰少弐の後継者として認めました。
少弐頼尚が隠居した時点で、少弐家は二つに分裂した事になっています。
少弐家の分裂に関しては、戦国時代末期の真田家の様に「どちらが勝っても家を残す様に」と少弐頼尚が分裂させた話もありますが、単に引退したら分裂してしまったとする説もあります。
こうした中で少弐頼尚は1371年の12月24日に京都で亡くなりました。
享年は78歳だったと伝わっています。
尚、少弐冬資と少弐頼澄の後継者争いは今川了俊が少弐冬資を殺害した事で、南朝の征西府から支持されていた少弐頼澄が幕府に帰順出来る様になりました。
少弐氏は少弐頼澄の元で続く事になります。
少弐頼尚の動画
少弐頼尚を題材にしたゆっくり解説動画となっています。