室町時代

畠山高国は奥州に移るも敗れる

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宮下悠史

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名前畠山高国
生没年生年不明ー1351年
時代南北朝時代
一族父:畠山時国 子:国氏、直泰 孫:国詮
年表1336年 伊勢守護に補任される
コメント岩切城の戦いで敗れた

畠山高国は足利尊氏の配下として、各地で功績を挙げています。

短期間ではありますが、伊勢守護になった記録も残っています。

後に伊勢守護は高師秋に代えられました。

子の畠山国氏が奥州管領に任命されると、後見人として奥州に下向しています。

観応の擾乱で吉良貞家と対立し、息子の国氏と共に岩切城の戦いで命を落としました。

各地を転戦

1335年に北条時行による中先代の乱が勃発しました。

足利直義が敗れ鎌倉が奪われると、足利尊氏は兵を率いて東国を目指す事になります。

太平記によると尊氏に従う軍の中に「畠山上野介高国」がいる事が記載されています。

さらに、同年の12月に足利尊氏は上洛軍を起こしますが、梅松論には「畠山上総介」の名前が見えます。

梅松論の畠山上総介は「畠山上野介」の誤りであり、畠山高国ではないかと考えられています。

天野遠政の軍忠状には細川高国の証判があり、この時には畠山高国が足利尊氏方の有力武将になっていた事も分かるはずです。

畠山高国は足利尊氏配下の武将として、各地を転戦したのでしょう。

尚、天龍寺造営記録に「畠山上野入道」の名前があり、畠山高国が上総介を官途にした事は確実だとされています。

伊勢守護に補任

足利尊氏多々良浜の戦いと湊川の戦いで勝利し、上洛しました。

足利尊氏は京都を占拠すると、畠山高国は山城御家人小枝道忍らを率いて、京都近郊の南朝の軍と戦っています。

こうした功績が認められたのか、建武三年(1336年)に細川高国は伊勢守護に補任されました。

同じころに同族の畠山国清が紀伊や和泉の守護となっています。

畠山氏は名門であり、家柄の良さもあり伊勢守護に補任されたと考えられています。

伊勢守護を解任

畠山高国の伊勢守護は2年ほどで終わり、高師秋に交代する事になります。

当時の状況を考えると、南朝の北畠顕家の二度目の上洛戦で、幕府軍は青野ヶ原の戦いで敗れました。

しかし、高師泰らが黒血川で徹底抗戦の構えを見せており、北畠顕家は伊勢を通過して吉野に入りました。

ここで、伊勢を通過されており、伊勢守護の畠山高国の評価が下がった可能性があります。

他にも、北畠顕家や新田義貞死後に、南朝の大船団が伊勢の大湊から出ています。

南朝の大船団は嵐により、義良親王や結城宗広が伊勢に戻されますが、宗良親王が遠江に漂着し、北畠親房伊達行朝が常陸に到着し、小田治久に迎えられたりもしています。

これらの南朝の動きを伊勢で阻止出来なかった畠山高国は責任を取らされ、伊勢守護を辞めさせられ、高師秋に代えられたともされています。

伊勢守護を解任された後の畠山高国に対する記録は殆どなく、分からない事が多いです。

奥州に下向

1345年に奥州総大将の石塔義房が解任されました。

こうした中で、奥州管領二人制が採用され、畠山国氏と吉良貞家が奥州管領となり東国に下向する事になります。

奥州管領になった畠山国氏は畠山高国の子であり、畠山高国も後見人として奥州に向かう事になります。

畠山高国は国氏と共に多賀国府に到着しました。

畠山高国と足利直義

畠山高国の奥州行きが決まると、高国は足利直義に挨拶に行った逸話が残っています。

この時に、足利直義は畠山高国に労いの和歌を送りました。

観応の擾乱で畠山高国は高師直の派閥として戦いますが、これらは成り行きであり、畠山高国と足利直義の関係は比較的良好だったのではないかとみる事も出来るはずです。

ただし、別の見方も存在し、畠山高国が足利直義の元を訪れ、和歌を賜わったのは儀礼的なものに過ぎなかったとする説もあります。

観応の擾乱

足利直義高師直の対立が激しくなり、観応の擾乱が勃発する事になります。

ここで奥州管領の畠山国氏及び高国が高師直を支持したのに対し、吉良貞家は足利直義を支持しました。

畠山国氏と父親の高国が高師直を支持した正確な理由は分かっていません。

しかし、畠山高国と伊勢守護を交代させられた高師秋は、高氏一族にあるにも関わらず、足利直義を支持した数少ない武将です。

高師秋は直義派であり、畠山高国は伊勢守護に舞い戻る為に、必然と高師直に接近したのではないかとも考えられています。

他にも、伊勢守護を短期間で辞めさせられたのは、行政能力に問題があったからではないかともされています。

統治能力が低い畠山高国に武士が集まらず、形勢が不利になったとする説もあるわけです。

観応の擾乱の余波は奥州にまで及び、奥州管領の畠山国氏と吉良貞家の対立にまで及んだと言えるでしょう。

畠山高国の最後

奥州管領同士の戦いと吉良貞家の戦いですが、勝者となったのは吉良貞家でした。

全国的にも足利直義を支持する武士は多く、奥州でも直義派が圧倒したわけです。

こうした中で畠山高国は畠山国氏と共に、岩切城に籠城しました。

しかし、吉良貞家の攻勢の前に、畠山高国は国氏と共に自害し最後を迎えています。

奥州畠山氏は国氏の子に国詮がおり、国詮は二本松氏の祖となっています。

奥州畠山氏は二本松国詮の元で再興されていますが、目立った活躍もなく奥州の一国人となってしまいました。

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