
| 名前 | 細川頼之(ほそかわよりゆき) |
| 生没年 | 1329年ー1392年 |
| 時代 | 南北朝時代 |
| 一族 | 父:細川頼春 母:黒沢禅尼 配偶者:春日局(持明院保世の娘) |
| 兄弟:詮春、頼有、頼元、満之 | |
| 養子:頼元、基之、猶子:河野通之? | |
| 年表 | 1379年 康暦の政変 |
| コメント | 足利義満から絶大なる信頼を受けた |
細川頼之は南北朝時代に活躍した人物です。
中国管領になるなどしており、足利義詮からは管領を任され足利義満を補佐する事になります。
太平記は細川頼之の管領就任を以て物語が終わる事になります。
足利義満の時代の初期に管領となった細川頼之ですが、派閥も持たず突然の幕政への参加になった事もあり運営に苦心しました。
1379年の康暦の政変では失脚し、守護分国の四国に逃れる事になります。
守護分国で奮戦し、後に赦免がなると幕政復帰もしています。
細川頼之は足利義満からの信頼を得るだけではなく、細川一門を団結させ見事に纏め上げています。
戦国時代では考えられないかも知れませんが、細川頼之の時代の細川氏は強固に団結していました。
室町時代の細川氏の隆盛を決定づけたのが細川頼之だとも言えるでしょう。
ただし、細川頼之は頑固な性格であった事も記録されています。
細川頼之の生い立ち
細川頼之は非常に利発な子で、幼き頃から名管領としての風格があった話もあります。
江戸時代の雑々拾遺によれば諸大名がいる席で「主人の使いに行く途中に親の仇に遭遇したとしたら、どの様な行動を取るべきだろうか」と話し合っていました。
誰も上手く応える事が出来ませんでしたが、この時に僅か10歳の細川頼之が「その様な事で悩む者は、最初から主君に仕えない方がよい」と答えた事で、周囲の大人たちが感嘆したとあります。
武芸の腕は細川清氏であっても敵わない程で、11歳で父の細川頼春に従い伊予に行き戦功を挙げたと言います。
これらを見ると神童とも言えるべき風格を持ったのが、細川頼之の少年時代という事になりますが、これらは後世の創作物の中で書かれており、同時代資料ではありません。
細川頼之の少年時代などは分からない事が多いです。
父の死
細川頼之は観応の擾乱の頃になると、確実な動向が分かるようになってきます。
父親の細川頼春は幕府から阿波守護に分国されていましたが、阿波で観応元年十二月に南朝軍が蜂起しました。
この南朝の軍に対処したのが、細川頼之となります。
観応の擾乱が終わり南朝が正平一統を破棄し京都に乱入すると、父親の細川頼春は戦死しました。
阿波守護の細川頼春が亡くなると、子の細川頼之が阿波守護に補任される事になります。
細川頼之は阿波の軍勢を率いて、後村上天皇が籠城する石清水八幡宮を攻撃しています。
後村上天皇は賀名生に撤退しました。
足利直冬との戦い
観応三年(1352年)六月に、細川頼之は阿波に戻りました。
阿波に戻った細川頼之は弟の細川頼有と共に、南朝の軍と戦った記録が残っています。
文和三年(1354年)十月に足利直冬が上洛戦争を起こし、足利義詮は播磨の弘山に陣を布きました。
こうした動きに対し、細川頼之も伊予に出陣しています。
1355年になると足利直冬、山名時氏、楠木正儀、斯波氏頼らが京都に侵攻しました。
足利尊氏は守り難い京都を手放す戦術に出ました。
太平記では細川頼之が四国や中国地方の軍勢を率いて、摂津の神南において南朝軍と破った話が掲載されています。
足利尊氏も文和東寺合戦で足利直冬を破りました。
この後に、細川頼之も上洛した事が分かっており、三宝院賢俊との交流が見えます。
三宝院賢俊は真言宗の僧ではありますが、歌人としても有名な人物であり、醍醐寺の座主も務めました。
細川頼之の中国管領の就任
細川頼之が逃亡!?
1356年になると、細川頼之は足利直冬の討伐を命じられました。
細川頼有も備後守護の補任をされています
足利直冬は本人に、どれだけのやる気があったのかは不明ですが、安芸に拠点を置いており、細川頼之は討伐を命じられたわけです。
室町幕府としては、細川頼之の槍働きを高く評価していたのでしょう。
しかし、細川頼之はさっさと阿波に帰ってしまいました。
当然ながら、問題行動を取ったわけです。
細川頼之が阿波に帰ってしまった理由ですが、敵から奪った所領を味方に与える闕所地宛行の権利が認められなかったからだとされています。
細川頼之は阿波に戻ったわけですが、細川清氏が現地に行き説得した話が残っています。
細川頼之は中国管領として備前、備中、備後、安芸において、軍事指揮権、所務沙汰、所領預置、自社領安堵などの権限を行使しました。
細川頼之は、足利直冬を攻撃していますが、任務を成し遂げる為に必要な権限をよく理解していたのでしょう。
逆に言えば、権限がない状態で現地に向かっても失敗するだけであり、阿波に帰ってしまったとみる事ができます。
これが細川頼之の賢い部分でもあります。
細川清氏との戦い
細川清氏は佐々木道誉との対立もあり、室町幕府を追われ南朝に鞍替えしました。
細川清氏の京都侵攻は頓挫しましたが、四国に渡り再起を計る事になります。
幕府では細川清氏の討伐に同族の細川頼之を指名しました。
太平記では細川頼之が細川清氏の老婆に説得させようとするなどの策も記載されていますが、実際には細川頼之と細川清氏の戦いが、どの様なものだったのかはよく分かりません。
兵力、物資共に優勢な細川頼之の圧勝だったとも考えられています。
戦いに関しての詳細は不明ですが、細川頼之が勝利した事だけは間違いなさそうです。
四国管領
貞治二年(1363年)になると、中国地方で再び足利直冬が動き出しました。
足利直冬に対し、細川頼之が対処する事になります。
ただし、この時期は中国地方の大大名である大内弘世や山名時氏が幕府に帰参しました。
大内氏や山名氏の幕府帰参の影響は大きく、中国地方は平定される事になります。
中国地方が平定された事で、細川頼之は中国管領の職務を解かれますが、代わりに讃岐と土佐の守護に補任されており、幕府から四国を任された事になります。
細川頼之は「四国管領」と呼ばれる程の権限を手にしました。
四国管領とも言うべき細川頼之は伊予の河野氏を降伏させており、守護分国の強化につなげています。
地元である四国との繋がりを強くする戦略が、後年に細川頼之を助ける事になります。
細川頼之の管領就任
細川氏の嫡流は細川清氏の系統であり、既に幕府に背き没落していました。
細川頼之は、これまでの功績も認められ細川氏の中でもトップの地位を築く事になります。
それと同時に、任務を確実に遂行する細川頼之を足利義詮が高く評価しました。
こうした中で幕府中央では斯波高経が佐々木道誉との関係の破綻もあり失脚し、子の斯波義将と共に越前に没落しています。
斯波高経がいなくなった幕府中央では、将軍の足利義詮は足利義満を自らの後継者とし、細川頼之を管領に任じた後に亡くなりました。
この時の足利義満は10歳の子供であり、細川頼之の手腕が試される事になります。
ただし、幕府中枢での経験が皆無と言っても良い細川頼之に対して、不満を持つ者も多かったと考えられています。
鎌倉公方の足利基氏も同時期に亡くなっており、室町幕府では新たなる局面に入りました。
尚、太平記は細川頼之が管領となり天下泰平となったで終わっています。
応安元年(1368年)四月に足利義満の元服の儀が執り行われました。
この時に細川頼之は武蔵守となっており、義満の加冠役を務めました。
弟の細川頼元を始め従兄弟の氏春、業氏らも、それぞれの役を務めています。
応安大法
1368年には「応安大法」が細川頼之により出されました。
当時は半済と言いながらも、半分以上の年貢を持っていってしまう例も数多くありました。
過度な押領を抑える為の法案として、応安大法が出されたとされています。
応安大法に関しては色々と言われていますが、細川頼之は現状よりも押領を減らし寺社の保護を図ったのでしょう。
ただし、応安大法が出されても、今まで通に押領を進めていた武士も多かったと言えるでしょう。
南禅寺事件
南禅寺と延暦寺・園城寺の対立が激化しました。
これにより春屋妙葩及び定山祖禅の配流を要求される事になります。
さらに、南禅寺楼門の破却の要求もありました。
細川頼之は禅宗を守る為に難色を示し、阻止しようとしますが、事は収まらなかったわけです。
衆徒は入洛し神輿を洛中に置き去りにしました。
朝廷では細川頼之を説得し、定山を流罪としますが、禅寺との関係が悪化しています。
楠木正儀の幕府帰参
応安二年(1369年)の正月に、細川頼之は楠木正儀の帰参を認めました。
楠木正儀は南朝の後村上天皇からは格別な信頼を得ていましたが、長慶天皇の時代になると居場所を失う事になります。
楠木正儀は筋金入りの和平派であり、強硬派の長慶天皇とは合わない部分が多々あったのでしょう。
こうした事情もあり、細川頼之は楠木正儀の帰参を認めたわけです。
細川頼之は楠木正儀を河内・和泉守護とし高待遇で迎えました。
楠木正儀を裏切り者と見た南朝の勢力は楠木正儀を攻撃しています。
細川頼之は楠木正儀を助ける為に、赤松光範や細川頼元を派遣しました。
しかし、戦いには敗れ摂津の天王寺や榎並にまで退いています。
この後に、楠木正儀は上洛し、足利義満や細川頼之と面会し河内に戻りました。
南禅寺楼門の撤去
1369年の四月に延暦寺の衆徒が神輿を奉じて再び入洛しました。
延暦寺の衆徒は南禅寺桜門の撤去を求めて事を起こしたわけです。
細川頼之は徹底抗戦の構えを見せ防衛を行っています。
延暦寺の衆徒が内裏に迫りますが、六角氏頼の奮戦により撃退に成功しています。
しかし、この戦いで奮戦した六角氏頼ですら、延暦寺の衆徒の要求を受け入れる様に進言した事もあり、細川頼之は結局は折れる事になりました。
これに怒った春屋妙葩らは隠退しており、細川頼之としては、後味の悪いものとなったことでしょう。
細川頼之は春屋妙葩に様々なアプローチで復帰を打診しますが、結果が実る事はありませんでした。
皇位継承問題
北朝では即位の経緯もあり、後光厳天皇の後継者で揉める事になります。
正平一統の破棄により、光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王が南朝に拉致され、この間に幕府では後光厳天皇を即位させました。
後光厳天皇を中継ぎの天皇とするのか、正統の天皇にするのかで皇位継承問題が勃発したわけです。
後光厳天皇は緒仁親王(後円融天皇)を推し、崇光上皇は栄仁親王を推しました。
細川頼之は「聖断たるべし」とし、どちらにも肩入れしない事を宣言しています。
しかし、細川頼之の娘の細川局は広橋仲光に嫁いでおり、広橋仲光は緒仁親王の母親・広橋仲子の養父・広橋兼綱の子でもあります。
こうした事情から細川頼之は緒仁親王に近しい立場の人間であり、後光厳天皇を支持する人物と見られました。
足利義詮の正室で准母となっていた渋川幸子も細川頼之が後光厳天皇に贔屓をしたと非難しています。
土岐頼康は今出川公直を通じて、崇光上皇や栄仁親王に近しい立場であり、細川頼之と対立しました。
細川頼之と土岐頼康の対立が深まり、細川頼之が土岐頼康討伐に動こうとするも、敵が多く実行に移せなかった話もあります。
土岐頼康は後に土岐頼貞の三十三回忌を理由に、尾張に下向しました。
細川頼之の敵が多く討伐できない話は、細川頼之を支持しない者が多くいたことを表しています。
尚、皇位継承問題の方は最終的に、後光厳流が勝利し、緒仁親王が後円融天皇となりました。
細川頼之の辞任騒動
最初の辞任
応安四年(1371年)に細川頼之は今川了俊を九州探題に任命し、九州の地に派遣しました。
九州では懷良親王や菊池武光による南朝の西征符が強く、幕府方は極めて劣勢でした。
細川頼之は今川了俊に対し惜しみないバックアップを行い、今川了俊は九州で活動し南朝の勢力を多いに弱める事になります。
室町幕府に帰順した楠木正儀は極めて劣勢であり、細川頼之は伊勢・河内の南朝攻撃を画策しています。
さらに、弟の細川満之には伊勢の南朝勢力を攻撃させました。
河内には弟で養子の細川頼元を派遣しますが、多くの大名たちが従わず淀川すら渡ろうとしなかった話もあります。
親頼之派の武将ですら従わない事態となっており、細川頼之は管領を辞すと称し京都を出ました。
足利義満が何とか細川頼之を翻意させ、諸大名も淀川を渡りますが、戦意は微妙であり楠木正儀を残して京都に戻っています。
細川頼之は楠木正儀を見捨てる事ができなかったのか、再び細川頼元を派遣するなどしました。
深まる対立
細川頼之は二条良基の計らいもあり、足利義満は公家社会でも出世していく事になります。
日野家と婚姻関係を結んだのも大きかったはずです。
永和三年(1377年)に越中国での紛争を決起として、細川頼之と斯波義将の間で対立が生じました。
さらに、六角氏頼の後継者争いなどもあり、六角家と京極家の間でも対立が生まれ、細川頼之と京極高秀の関係も悪化しています。
京極氏は細川頼之を支持していましたが、ここに来て敵対する事になりました。
細川業秀の失態
11378年になると、南朝から降伏していた紀伊の橋本正督が南朝に鞍替えし、紀伊守護の細川業秀を攻撃しました。
細川頼之は細川頼元ら大軍を派遣し、南朝は撤退しています。
しかし、幕府軍が撤退した事を見た橋本正督は再び挙兵しました。
この動きに対処できず細川業秀が敗走しています。
足利義満は山名義理や山名氏清らを派遣し、和泉と紀伊を平定させました。
足利義満の破格の出世
足利義満は破格の官位昇進を続けて行く事になります。
この裏には細川頼之の意向が大きく関わっていたと考えられています。
細川頼之は武士達には質素倹約を勧めたりしていましたが、足利義満の昇進に関しては容赦なく幕府の資金をつぎ込みました。
公家社会のドンとも呼べる二条良基の意向もあり、足利義満は異例の出世となり、公家社会にも君臨して行く事になります。
しかし、足利義満の大出世とは裏腹に、細川頼之は幕府内で立場を危うくしていく事になります。
細川頼之と斯波義将の対立も深めました。
細川頼之の辞任と足利義満の信頼
永和四年(1378年)に興福寺の要請を受けて斯波義将らが出陣していました。
しかし、この時に細川頼之を打倒計画も持ち上がっています。
こうした動きに対し足利義満は土岐頼康や京極高秀の討伐を諸国に命じ、出陣中の斯波義将を京都に戻る様に命令しました。
細川頼之は辞任を申し四国への下向を考えるも、足利義満は慰留しています。
細川頼之は幕府内で孤立化が進みますが、足利義満は細川頼之を信頼し支持していたわけです。
康暦の政変
康暦元年(1379年)になると、京極氏と土岐氏も許され上洛する事になります。
京極高秀や土岐直氏らは軍勢を率いており、足利義満の花の御所を包囲しました。
室町幕府の名物とも言える御所巻が発生し、包囲軍は細川頼之の辞任を要求しています。
これが康暦の政変です。
足利義満は要求を受け入れ細川頼之、頼元、氏春、義之ら細川氏の一族は四国に没落する事になります。
康暦の政変により細川頼之は失脚しました。
河野氏を撃退
細川頼之が失脚すると伊予の河野通直は幕府に帰順する事になります。
足利義満は河野通直を伊予守護に任じ、細川頼之の討伐命令を出しています。
足利義満は細川頼之の討伐は命じましたが、本心では「討伐などしたくない」と考えていたのではないでしょうか。
細川頼之の戦上手の定評の通りの働きを行い、河野通直に対し先制攻撃を仕掛け討ち取る大戦果を挙げています。
細川一族は四国での地盤強化を行っており、河野氏の撃退に繋がったと言えるでしょう。
幕府では細川清氏の子の細川正氏を四国に派遣しますが、細川頼之が送り込んだ細川義之が抑え込みました。
赦免
細川頼之は守護分国で蓄えた力で幕府に抵抗していました。
それと同時に細川頼元を通じて赦免運動も行っています。
これが功を奏し、伊予守護は明渡す事になりましたが、無事に幕府より赦免が成ったわけです。
細川頼元が上洛し、京都で活動が行う様になりました。
細川頼元は摂津守護にも補任されています。
和解
細川頼之は永徳三年(1383年)に細川頼之は上洛し、夢窓疎石や細川頼春の法要を行っています。
この時に春屋妙葩も導師として参加しており、この頃までには和解していたのでしょう。
足利義満も法要には参加しました。
細川頼之と春屋妙葩が和解したのには、足利義満や義堂周信の働きかけがあったからだとされています。
しかし、細川頼之は京都での活動は短期間であり至徳二年(1385年)には四国に戻りました。
細川頼之は四国の守護分国の強化を第一としたのでしょう。
細川頼之の涙
康応元年(1389年)に足利義満は厳島神社への参詣に向かう事になります。
足利義満は厳島神社へは単なる参詣ではなく、西国の大名に自らの威光を見せつける為だとされています。
この時に細川頼之は百艘を超える船を手配し、義満が讃岐の宇多津に到着すると細川頼之は大いに歓待しました。
船の手配を任される辺りは義満から頼之への大きな信頼でもあるのでしょう。
足利義満は厳島から戻る時にも細川頼之と面会し二人だけで親しく話したと言います。
義満は他の人物を退出させており、特別な感情を頼之に抱いていたとみる事が出来ます。
この時に細川頼之は涙を流したと今川了俊は伝えています。
それと同時に足利義満は二人だけの席で、細川頼之に管領就任を打診したとも考えられています。
後述しますが、細川頼之は管領就任は断りました。
足利義満は剛腕政治家として名が通った人物ではありますが、細川頼之に対しては深い信頼をしていたのでしょう。
山名氏との戦い
足利義満は強大な力を持った守護達の勢力を弱める為に動く事になります。
土岐頼康や山名氏が討伐対象となっており、反頼之派との戦いに動いたとみる事も出来ます。
山名氏は一族で十一ヵ国の守護を持つ大勢力であり「六分の一殿」とも呼ばれていました。
明徳元年(1390年)三月に足利義満は山名時熙及び山名氏之の討伐を行っています。
この時に山名氏之の弟の山名義熙の備後守護を細川頼之に代えました。
細川頼之は戦いでも采配を振るい山名氏の弱体化に大いに貢献しています。
管領の後見人
1391年になると、管領の斯波義将は管領を辞任し守護分国の越前に下向しました。
斯波義将が管領を辞任した詳細は不明ですが、足利義満が細川頼之を重用し、斯波派の人物の弱体化を狙った事が原因とみる事が出来ます。
細川頼之は上洛しますが、足利義満は細川頼之に管領への就任を再び要請したとされています。
しかし、細川頼之は管領への就任を断わり、養子の細川頼元が管領に就任しました。
細川頼之は細川頼元の後見人とする立場になっています。
細川頼之は足利義満の御前沙汰や室町幕府の評定に参加した記録もあり、幕政に完全復帰したと言えるでしょう。
細川頼元が評定の席を退出し、細川頼之が参加した話しもあり、実質的な管領は細川頼之だったとする見解もあります。
内野合戦
足利義満は先に討伐を行った山名時熙と山名氏之を赦免しようとしました。
義満は山名氏清や山名満幸の圧迫を始めた事で、山名氏清及び満幸は乱を起こし京都に攻めて来たわけです。
内野合戦が勃発しますが、細川頼之や細川頼元は幕府軍として参加しました。
内野合戦では幕府軍が勝利し、細川頼之は晩年になっても、合戦の腕前は衰えを知らなかったと言えるでしょう。
山名氏清は戦死し、山名満幸は逃走しました。
ただし、山名氏の残党との戦いは継続される事になります。
細川頼之の最後
細川頼之は戦いには勝利しましたが、この時には既に60歳を超えており、無理をし過ぎたのか翌年である1392年に没しました。
1392年は明徳の和約の年でもあり、北朝と南朝が一つになり南北朝時代が終わった年でもあります。
しかし、細川頼之は南北合一が成される前に亡くなっており、南北朝時代の最後を見届ける事はありませんでした。
細川頼之は64歳で病により亡くなったと伝わっています。
細川頼之は西山地蔵院に葬られました。
西山地蔵院は細川頼之が自ら建立した寺院でもあります。
文化人としての細川頼之
細川頼之を見ていると、かなりの戦上手だという事が分かるはずです。
足利義詮に認められ管領になったのも、槍働きの大きさも評価されての事でしょう。
しかし、細川頼之は叔父の細川和氏や父親の頼春と同様に文化人としての才能もみてとることが出来ます。
細川頼之は「新千載和歌集」「新後拾遺和歌集」「新続古今和歌集」にも入選しました。
また連歌や漢詩などにも精通しています。
漢詩などは義堂周信や絶海中津らの影響とされています。
他にも洛西の景徳寺・地蔵院や阿波の光勝院・宝冠寺を創建し、土佐国の吸江庵を再興するなども行っています。
文武両道の武将が細川頼之です。