名前 | 北朝(日本) |
年表 | 1336年 南北朝時代の始まり |
1351年 正平一統 | |
1392年 明徳の和約により南北合一が成される | |
コメント | 北朝は室町幕府の傀儡だとするのが一般的 |
北朝は南朝と共に南北朝時代の勢力となっています。
南北朝時代を通して大半は北朝が優勢でしたが、北朝は室町幕府の意向には逆らえない権威だけの存在でもありました。
光厳天皇より北朝が始まったともされていますが、足利直義及び尊氏が南朝に降伏したり、足利義詮のミスで北朝の皇族が置き去りにされ、南朝の捕虜になった事もあります。
しかし、1392年の南北合一により北朝が南朝を吸収する形となり、南北朝時代を制したと言えるでしょう。
今回は北朝の天皇や歴史に関して解説します。
尚、北朝に関する動画も作成してあり、記事の最下部から読む事が出来る様になっています。
北朝の前身
鎌倉時代の後期に持明院統と大覚寺統で交互に天皇を出す両統迭立が為されました。
大覚寺統の後醍醐天皇は両統迭立に不満であり、倒幕を目指す事になりますが、元弘の変で失敗し1331年に隠岐に流されています。
後醍醐天皇の配流により持明院統の光厳天皇が即位しますが、鎌倉幕府の意向により光厳天皇は即位したと言えるでしょう。
光厳天皇は後醍醐天皇から譲位されて、天皇になった訳ではないという事です。
後醍醐天皇が隠岐に流されても護良親王や楠木正成は倒幕活動を継続し、後醍醐天皇自身も隠岐を脱出し、足利尊氏や新田義貞により鎌倉幕府は滅びました。
鎌倉幕府が滅びると幕府の意向により天皇となった光厳天皇の存在が宙に浮く事になります。
後醍醐天皇は復位したのではなく「光厳天皇は存在しなかった」として建武の新政を始めています。
光厳天皇を輩出した持明院統が南北朝時代の北朝の前身となります。
北朝の始まり
建武の新政は多くの武士の不満を解消できず行き詰まりを見せる中で、1335年に北条時行が諏訪頼重に擁立され中先代の乱が勃発しました。
当時の鎌倉将軍府のトップは足利直義でしたが、足利直義は北条時行の猛攻に耐える事が出来ず、鎌倉を放棄する事になります。
足利直義が窮地に陥っている事を知った足利尊氏は、後醍醐天皇の制止を振り切り、鎌倉救援に向かい旅立ちました。
足利尊氏は北条時行の軍に大勝し鎌倉を奪還しますが、勝手に論功行賞を始めた事で後醍醐天皇から朝敵認定されてしまいます。
建武政権では新田義貞を鎌倉に向けて派兵しますが、最終的に足利尊氏に敗れています。
足利尊氏と直義の兄弟は近畿に転戦しますが、新田義貞、楠木正成、北畠顕家らに敗れて九州に逃れる事になります。
九州で勢力を挽回した尊氏らは、湊川の戦いで新田義貞と楠木正成を破り、後醍醐天皇がいる比叡山を包囲しました。
足利尊氏はこの時には既に、光厳上皇に接近しており院宣を獲得し大義名分は得ていたわけです。
足利尊氏は後醍醐天皇に和議を持ちかけた事で、後醍醐天皇は京都に戻り、同じく比叡山にいた新田義貞は北陸に転戦する事になります。
足利尊氏の方では光厳上皇の弟である光明天皇を即位させ、光厳上皇が治天の君となり院政が始まる事になります。
ただし、光明天皇の皇太子が後醍醐天皇の子である成良親王としており、足利尊氏の方では後醍醐天皇が院政を行える余地は残しました。
しかし、後醍醐天皇は1336年の12月に花山院を脱出し吉野に走り、南朝を打ち立てています。
これにより日本に京都の北朝と吉野の南朝という二つの王朝が出来た事になり、南北朝時代が始まる事になります。
北朝と室町幕府の関係
北朝を牛耳っているのは、足利尊氏や直義でしたが、名目上は北朝の軍隊を統括する立場だったわけです。
足利家は武士たちからの求心力があり、軍事力はありましたが、北朝の天皇の権威が無ければ、安定しない存在でもありました。
名目上ではありますが、幕府の方で戦争を行う場合は北朝の天皇から綸旨を発行して貰い出陣するのが普通でした。
足利家は北朝を擁立する事で「後醍醐天皇対幕府」ではなく、「北朝対南朝」とする立場を創出しています。
後醍醐天皇の建武の新政が成功していれば、北朝の前身である持明院統は沈んでいたはずですが、建武政権の失敗により持明院統は北朝として再浮上したとも言えるでしょう。
正平の一統
南朝では楠木正成、北畠顕家、新田義貞が世を去り、1339年には後醍醐天皇までが崩御しています。
後醍醐天皇が崩御すると後村上天皇が即位しました。
楠木正行が幕府軍を破るなどもありましたが、高師直が四条畷の戦いで楠木正行を討ち取るなどもあり、南朝の脅威が衰える事になります。
こうした中で北朝内では足利直義と高師直が対立し、観応の擾乱が勃発しました。
観応の擾乱で高師直が足利尊氏邸を包囲した事で、足利直義は政務を引退する事になります。
足利尊氏は高師直と共に中国地方にいる足利直冬の討伐に向かいますが、ここで足利直義が南朝に降伏したわけです。
これにより直義は勢いを取り戻し、足利尊氏と高師直の軍を破り、足利幕府の政務に復帰しました。
しかし、今度は尊氏と直義が争う事になり、尊氏は南朝に降伏しています。
北朝の実質的な最高権力者で征夷大将軍でもある足利尊氏の南朝への降伏は、北朝の降伏を意味する事になります。
これにより南朝だけが正統な王朝となりました。
三種の神器も北朝から南朝に移されますが、足利尊氏も文句を言う事は出来なかったはずです。
南朝の後村上天皇により北朝の崇光天皇は廃位されています。
元号の南朝の正平に一本化された事で、正平の一統と呼ばれ、北朝は消滅し南朝だけが残りました。
北朝皇族の拉致事件
足利尊氏は鎌倉にいた足利直義を破り武蔵野合戦で新田義興や北条時行を撃破し、関東を平定しました。
京都は足利義詮が守っていましたが、突如として南朝の軍が京都に侵攻したわけです。
南朝の後村上天皇や北畠親房は北朝の降伏は、足利直義を破る為の苦し紛れの一手であり、足利直義がいなくなれば、裏切られると考えていたのでしょう。
これにより正平の一統は破綻しました。
足利義詮は完全に不意を衝かれ北朝の皇族を連れて逃げる事が出来ませんでした。
南朝の京都の制圧は一時的なものでしたが、北朝の光厳上皇、光明上皇、崇光上皇及び皇太子の直仁親王までもが南朝に連れ去られてしまったわけです。
北朝の復活
南朝が正平の一統を破棄した事で、幕府は宙に浮いた存在となり、新たなる権威を探さねばならなくなります。
ここで幕府が目に付けたのが崇光上皇の弟であり、後光厳天皇が北朝の天皇として即位しました。
佐々木道誉の進言もあり三種の神器も天皇を指名する上皇もいない中で、後光厳上皇が即位したわけです。
後光厳上皇の即位が北朝の皇族内での新たなる火種となります。
三上皇の帰還
北朝の三上皇(光厳上皇、光明上皇、崇光上皇)と直仁親王は軟禁生活を送りますが、南朝側でも相手を軟禁するだけの財力が無ければなりません。
ここで北朝及び幕府が三上皇を積極的に取り戻そうとすれば、利用価値はありましたが、後光厳上皇の北朝では積極的に三上皇を取り戻そうとしなかった話があります。
南朝の三上皇の扱いは悪く世話をする者も殆どおらず、皇族生まれの男性では苦しい立場に置かれていたわけです。
南朝では人質の役目を果たさない三上皇は単なる経済的な負担でしかなく、晩年に差し掛かった足利尊氏の要請もあり1355年に光明天皇を北朝に返還しました。
さらに、1357年には光厳、崇光及び直仁が帰京する事になります。
これにより南朝に拉致された三上皇と直仁親王が北朝に戻る事が出来たわけです。
崇光と後光厳の系統
ここで思い出して欲しいのは北朝の後光厳天皇は、三上皇が南朝に拉致された事で幕府により無理やり即位させられた天皇だという事です。
崇光上皇としては自分の系統に正統性があると考えるのが自然であり、崇光上皇は天皇家の財産の処分権も持っており強い発言力を持っていました。
崇光上皇は皇室内の多くの財産を持っており、それらを武器に強い発言権を持ったとも言えるでしょう。
後光厳天皇にしてみれば、自分の子に皇位を継承させたいと考えるのが普通であり、北朝内の皇族で揉める事になります。
1370年に後光厳天皇の譲位問題が出ると、崇光上皇は自らの子である栄仁を次の天皇になる様に主張しました。
しかし、室町幕府では後光厳天皇の子である皇子を即位させる事にし、これが後円融天皇となります。
この時には既に足利義詮は亡くなっており、義満の時代となっていましたが、過去に幕府は後光厳天皇を即位させた経緯もあり、後光厳の系統を正統としたのでしょう。
ただし、依然として崇光上皇は皇室財産の多くを持っており、財力の崇光系統と皇位継承の後光厳系統というねじれ状態になっています。
1382年に後円融天皇が退位し、その皇子が後小松天皇として即位しました。
崇光上皇は健在でしたが、自分が蚊帳の外にいる事を痛感した事でしょう。
明徳の和約
南朝の後亀山天皇や楠木正儀、北朝の足利義満らで南北の朝廷を一つにする為の動きが為される事になります。
1392年に明徳の和約があり、北朝と南朝は一つになりました。
南朝の後亀山天皇も京都に移り、北朝の後小松天皇に三種の神器を渡しています。
明徳の和約により南北合一が為され南北の朝廷が一つに纏まり南北朝時代は終焉しました。
ただし、両統迭立の条件が反故にされており、旧南朝の勢力は後南朝として活動を行う事になります。
その後の北朝
南北合一に為され南北朝時代は終わりましたが北朝が続く事になります。
崇光上皇は1398年に崩御しますが、崇光上皇が持っていた財産を子の栄仁親王は受け継ぐ事が出来ず、足利義満は崇光天皇の財産を後小松天皇に移しました。
これにより崇光系統は財力を無くしました。
北朝は既に足利義満の意向には逆らえない状態となっていたと言えるでしょう。
栄仁親王は皇位に就く事も無く財産も無くし伏見で隠棲生活状態であり、崇光系統は伏見宮家と称される様になります。
栄仁の後継者になったのが治仁でしたが、早くに亡くなり弟の貞成王が伏見宮家の後継者となります。
貞成王が残した看聞日記は庶民の生活の事や様々なスキャンダルなども書かれており、貴重な資料となっています。
貞成王は85歳まで生きますが、子宝にも恵まれ複数の男子がいました。
多くの男子に恵まれた伏見宮家に対し、後光厳系の後小松天皇は1422年に称光天皇に譲位しますが、称光天皇は後継者もなく崩御しています。
後光厳系の皇統は称光天皇で途切れてしまい、貞成王の息子である彦仁王が後小松上皇の後継者として即位する事になります。
彦仁が後花園天皇であり、ここにおいて崇光上皇の系統である伏見宮系に皇統が戻ったわけです。
北朝の崇光上皇の悲願は数世代後に達成された事になるでしょう。
北朝の動画
北朝の歴史や天皇に関するゆっくり解説動画になっています。