名前 | 細川皇海 |
生没年 | 1323年?ー1340年? |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父:細川頼貞 兄弟:顕氏、直俊、定禅 |
コメント | 土佐守護になるなど活躍した |
細川皇海は細川頼貞の子で、伊予、紀伊、土佐などで戦功を挙げました。
太平記や梅松論では細川顕氏や定禅ほどの派手な活躍は見られませんが、地道に功績を挙げた人物でもあります。
土佐では土佐南朝の最大の拠点である大高坂城を陥落させています。
しかし、1340年の暮れを最後に活動が分からなくなり、1340年の暮れ頃に亡くなったと考えられています。
細川皇海は土佐を平定する事は出来ませんでしたが、功績を挙げた事は間違いないでしょう。
四国に入国
建武政権を離脱し、京都での戦いに敗れた足利尊氏は赤松円心の進言で、九州を目指す事になります。
ただし、足利尊氏は単に逃げるだけではなく光厳上皇の院宣を獲得しようとしたり、細川氏の者達を四国へ派遣し見方を増やそうとしました。
この時に細川和氏や細川顕氏と共に、細川皇海も四国に入りました。
足利尊氏は態勢を立て直し上洛しますが、細川皇海ら細川氏の者達も、四国勢を引き連れるなどし合流しています。
太平記では湊川の戦いなどで細川定禅の活躍が大々的に記録されていますが、細川皇海にはそこまでの記録がありません。
ただし、何かしらの功績を挙げた事だけは、間違いないでしょう。
伊予に向かう
建武三年(1336年)10月の記録に、細川皇海が伊予で三島社祠宮祝三郎(安親)に対し、軍勢催促を行った事が分かっています。
翌年に足利直義が河野通盛に対し、御教書を発行しており、この中に細川皇海の名前があります。
こうした事から、1336年の10月頃に細川皇海は四国の伊予にいたのでしょう。
さらに、細川皇海は建武四年3月には南朝の軍と戦った事が分かっています。
この時期に伊予の守護であった河野通盛は畿内で戦っており、本国に帰る余裕がなく、その間に細川皇海が四国南朝の軍と戦っていたのでしょう。
河野通盛が伊予守護になっている事から、細川皇海は国大将として伊予で戦ったと見られています。
しかし、細川皇海は伊予から離れ、細川九郎三郎なる人物が伊予に入り戦ったとされています。
細川九郎三郎は系図纂要の記録から、細川義秋ではないかと考えられています。
紀伊で奮戦
建武四年(1337年)四月に細川顕氏の命令により、細川皇海は紀伊に下向しました。
細川皇海は紀伊には下向しましたが、この時の紀伊守護は畠山国清であり、援軍として行っただけであり、守護になってはいないのでしょう。
細川皇海は紀伊の仁儀荘の南朝勢力を攻撃しています。
翌年には保田荘での打渡を命じました。
この他にも僧官の一つである権律師となったとも考えられています。
土佐守護
兄の細川顕氏は活躍が認められ讃岐守護や土佐守護となっていますが、土佐守護の方は解任された様であり、後に細川皇海が土佐守護となりました。
細川皇海は暦応二年(1339年)11月までには、土佐国高岡郡の津野、三宮、佐竹、堅田らの国人衆を傘下に収めた事が分かっています。
細川皇海は、これらの国人衆と共に土佐南朝の最大拠点である大高坂城の攻撃を行いました。
土佐南朝では新田綿打入道らが救援に現れますが、細川皇海は後詰の軍も破っています。
細川皇海は大高坂城を攻略し、堅田国貞に大高坂郷を恩賞として宛がいました。
さらに、兵粮料所預置や所領宛行を実施した事も分かっています。
これらの行動を見るに、細川皇海は軍事指揮権だけを与えられたわけではなく、守護としての任務をこなしている事も分かるはずです。
記録からいっても、細川皇海は土佐守護になっています。
細川皇海の最後
細川皇海に関する記録は、暦応三年(1340年)十二月の所領宛行、兵粮料所預置を最後に動向が分からなくなり、この直後位に亡くなったのではないかとも考えられています。
尚、細川皇海の死後に南朝軍の反撃により、岡本城を攻撃しました。
勝敗は不明ですが、細川皇海の死後も土佐では南朝と北朝の戦いが続いた事は明らかでしょう。