細川直俊は細川頼貞の子で、兄弟には細川顕氏、定禅、皇海などがいます。
細川直俊が鎌倉時代に何をしていたのかは不明ですが、建武の新政が始まると足利尊氏に従い京都にいた事が分かっています。
後に足利尊氏に従い各地を転戦し、後醍醐天皇の軍に敗れるなどすると、細川和氏、頼春らと共に四国にも派遣されました。
足利尊氏が九州から復活すると近畿での戦いとなりますが、細川直俊は河内で戦っています。
河内の戦いは激戦であり、細川直俊は戦死するに至りました。
細川四兄弟は顕氏以外は短命であり、その中でも最初に世を去ったのが細川直俊となります。
尚、細川直俊の帯刀長、民部少輔の官位に就任した事も分かっています。
足利尊氏を支持する
建武元年(1334年)九月二十七日に足利尊氏の賀茂社参詣の隋兵として、細川直俊がいた記録があります。
賀茂社参詣の記録から細川直俊が京都にいた事は確実でしょう。
中先代の乱は足利尊氏により平定されますが、建武の乱で細川直俊は足利尊氏に味方しました。
足利尊氏は近畿で北畠顕家らに敗れると、九州に落ち延びますが、細川氏の者達を四国に派遣しています。
細川和氏や顕氏を中心に四国へ行ったわけですが、この中には細川直俊もいました。
足利尊氏は九州で態勢を立て直すと大軍で上洛しますが、細川直俊も近畿で戦う事になります。
細川直俊の最後
足利軍は湊川の戦いで楠木正成と新田義貞を破ると、近畿に進撃し激戦となります。
こうした中で細川顕氏と共に直俊は河内に進撃しました。
野中寺、藤井寺で朝廷の軍と戦い激戦となります。
こうした中で細川直俊は戦死し世を去りました。
河内には南朝の重要拠点もあり、常に危険な状態に身をさらしながらも戦いだったのでしょう。
細川顕氏の軍事行動にしても、中々に上手くいかない部分も多々あったわけです。
尚、細川顕氏の四兄弟は細川顕氏以外は短命であり、最初の犠牲者になったのが細川直俊となります。
細川直俊は影が薄い
細川四兄弟の中では兄の細川顕氏は陸奥守となり細川奥州家の祖となっており、定禅は太平記では湊川の戦いなどの大活躍が描かれています。
細川皇海に関しては「皇海」という名前にインパクトがあり、中二病をくすぐる部分もある様に感じました。
こうした中で細川直俊は細川四兄弟の中で、一番最初に世を去った事もあり、一番影が薄い存在だとも言えるでしょう。
ただし、南朝の重要拠点である河内での戦いで戦死している事から、勇猛な武将だった可能性も残っているはずです。
細川直俊に関しては活動期間も短く、謎の部分が多いと言えそうです。