細川繁氏は細川顕氏の子で、南北朝時代に活躍した人物です。
父の細川顕氏の後継者となり、讃岐や土佐の守護になっています。
一色氏の九州経営が破綻すると、九州探題となり分国の讃岐に入りますが、ここで病となります。
太平記では崇徳院の怨霊により、怪死した記述が残されています。
ただし、怨霊により殺害されたと言うのは、信じがたく、病に掛かったと思ったら、あっという間に亡くなってしまったのが実情なのでしょう。
家督を継ぐ
細川繁氏は父親の細川顕氏が亡くなると、讃岐と土佐の守護職を引き継ぐ事になります。
細川繁氏には兄の細川政氏がいましたが、後村上天皇が籠る石清水八幡宮の戦いで戦死していました。
こうした事情もあり、細川繁氏が家督を継ぐ事になったわけです。
1355年には土佐に下向した事も分かっています。
この頃に伊予守にもなっています。
後に細川繁氏は京都に戻りました。
細川繁氏が九州探題に就任!?
1359年に九州では一大決戦があり懐良親王や菊池武光の九州征西府の軍が、少弐頼尚や大友氏時の軍を大破しました。
これが筑後川の戦いです。
太平記によると一色直氏と一色範氏が菊池武光により敗れて京都に戻ったとあります。
九州の幕府勢力は日向の畠山直顕のみであり、残りは南朝に降ってしまいました。
九州では圧倒的に南朝が有利な状況だったわけです。
この状況を打開する為に幕府で白羽の矢が立ったのが、細川繁氏でした。
細川繁氏は伊予守となり、九州に向かう事になります。
尚、細川繁氏は九州探題の一人に数えられる事もあります。
細川繁氏は九州征西府打倒の為に九州に渡る事とし、まずは讃岐に入りました。
細川繁氏の最後
細川繁氏は分国の讃岐で、九州遠征の為の軍を準備する事になります。
太平記によると、ここで細川繁氏は物狂いとなり「崇徳天皇の御料を奪い兵粮料所にした事で重病になった」と告げました。
さらに、苦しみ叫び痙攣したと伝わっています。
細川繁氏の周りは猛火の炎の様に厚く盛んであり、誰も近づく事が出来なかったと言います。
病を発してから七日後には、三方から甲冑を着た兵士が襲い掛かってきました。
家来たちは防戦しますが、歯が立たず細川繁氏の首と家来の行吉掃部助の首を取り矛に掛けたと言います。
細川繁氏と行吉掃部助の首を取った事を宣言すると、謎の軍団は天に帰って行きました。
謎の軍団が消えると、負傷したはずの家来たちは無傷であり、皆が無事だったわけです。
ただし、細川繁氏と行吉掃部助は間もなく亡くなりました。
これが太平記に描かれた細川繁氏の最後です。
当然ながら、太平記の内容を「事実」だと認定する事は出来ませんが、1359年頃に亡くなった事は事実の様です。