細川定禅は細川顕氏の弟で、足利尊氏に仕えました。
細川氏の中で最初に四国に入った人物とも言われています。
建武の乱では三井寺の戦いで敗れるも、新田義貞の二万の軍に三百の兵で奇襲を掛けて勝利しました。
湊川の戦いでも水軍を指揮し、楠木正成と新田義貞を分断させる功績を挙げています。
室町幕府が始まると六条八幡宮別当となるなど、破格の恩賞を与えられました。
しかし、この頃から記録が無くなり最後を迎えたと思われます。
尚、細川定禅は太平記や梅松論では華々しく戦った様子が描かれていますが、一時資料では分かっている事が少なく謎多き人物だと言えるでしょう。
手越河原の戦い
中先代の乱の後に、後醍醐天皇が足利尊氏を朝敵認定し、新田義貞に鎌倉征伐を行わせています。
足利尊氏は細川頼春と共に浄光明寺に引き籠り、足利直義が大将として新田義貞の軍を手越河原で迎え撃つ事になります。
難太平記によると、この時の足利直義の軍に細川定禅がいました。
手越河原の戦いで足利直義は新田義貞に敗れますが、この時に細川定禅は討死する様に進言したとあります。
細川定禅にとってみれば「武士の意地を見せる」という事だったのかも知れません。
しかし、今川範国が足利直義に退却する様に進言しており、足利直義派兵を引きました。
建武の乱
四国に入る
足利尊氏が復活し兵を率いて、新田義貞との間に箱根竹ノ下の戦いが勃発しますが、この戦いで足利尊氏は勝利しました。
足利尊氏は新田勢を追いかけ東海道を西に軍を進めますが、細川定禅に命じて四国の武士を懐柔させようとしています。
細川定禅が四国入りしますが、これが細川氏の中で最初に四国に入った出来事だとされています。
細川定禅がどの様にして四国で兵を挙げたのかの詳細は不明ですが、建武政権への恩賞を巡る不満が全国的に拡がっており、それを利用して細川定禅は挙兵したとするのが妥当でしょう。
ただし、この時の細川定禅の四国入りは、細川氏の勢力を四国に根付かせるとは、ほど遠い状態だったとも考えられています。
太平記の14巻によると細川定禅が讃岐で挙兵し、夜襲を行うなどし高松頼重を破りました。
細川定禅は讃岐で挙兵はしましたが、当時の京都には新田義顕を大将とし結城親光、名和長年、楠木正成らがおり、大して警戒されなかった様です。
こうした中で備前の児島高徳が、細川定禅の軍が拡大しているとの連絡を後醍醐天皇に入れています。
細川定禅は備前の佐々木信胤や田井信高、他にも備中の諸将を傘下に入れて東進しました。
細川定禅は赤松範資の軍と合流し、足利尊氏の軍とも連携して戦う事になります。
細川定禅は赤松範資の軍と共に脇屋義助の軍と戦うなどしました。
三井寺の戦い
後醍醐天皇は比叡山に避難し、足利尊氏は圧倒的な大軍で京都を占拠するなどしました。
こうした中で朝廷軍の援軍として、北畠顕家が奥州からやってきたわけです。
この時に細川定禅は三井寺におり、北畠顕家の情報をキャッチしており「敵の大軍が明日にも攻めて来るから、至急、援軍を寄越して欲しい」と足利尊氏に依頼しました。
太平記によると細川定禅は三度も援軍要請しましたが、足利尊氏は敵を侮っており「せいぜい宇都宮氏の紀清両党の者が来る程度だ」と述べ、援軍を送らなかったわけです。
新田義貞や北畠顕家の軍が攻めてきますが、細川定禅は横やりを入れるなど巧みに戦い、千葉新介を討ち取るなどの活躍を見せています。
結城宗広や伊達信夫らと戦うなどもしましたが、最終的に三井寺の戦いで敗れています。
細川定禅の奇襲
細川定禅は戦いに敗れましたが、太平記には兵たちの前で、次の様に言い放った話があります。
※太平記より
「軍の勝負は時の運によるものが大きく、恥ではないが、今回の敗戦は三井寺の戦いから始まったのだ。
我々は人々から嘲笑される事は確実である。
それ故に我らだけで独断で敵を攻撃し、天下の人々の口を塞いでやろうと思う。
新田勢は合戦による疲れで臨機応変に対応する事が出来ない。
さらに、京都の財宝に目がくらみ兵は分散されている。
下松で籠城する赤松筑前守を無下に討たれるのは口惜しい。
赤松勢と力を合わせて新田勢と再び戦おうではないか」
細川定禅の演説を聞いた者達は賛同し、三百の精鋭を選び出し新田勢に戦いを挑みました。
不意を衝かれた新田義貞や脇屋義助は慌てて坂本に戻り、足利軍は京都を占拠する事になります。
太平記では新田義貞が2万の兵で80万の足利軍を破り、細川定禅も三百の兵で二万の新田義貞の軍を退かせた事を「項王の勇を心とし、張良の謀を宗とする」と述べました。
新田義貞と細川定禅を太平記は「智謀勇力に優れた人傑」だと評価しています。
梅松論では、細川定禅の奮戦ぶりを「鬼神之様」とまで述べており、如何に活躍が凄まじかったのが分かるはずです。
それでも、足利尊氏は北畠顕家らの援軍の前に敗れ去り、九州に落ち延びる事になります。
伊予で活動
足利尊氏は細川和氏や顕氏らを四国に向かわせ、武士たちの懐柔を行わせていますが、この中には細川定禅もいました。
細川氏は一族を挙げて四国に入っており、恩賞を与える権利なども得ていた事により、四国に勢力を築くきっかけにもなったわけです。
建武三年(1336年)四月に細川定禅が伊予国三島社で祈祷命令をした記録が残っています。
この時の細川定禅は伊予でも活動していたのでしょう。
湊川の戦い
(画像:ウィキペディア)
足利尊氏は菊池武敏を多々良浜の戦いで破り、大勢力となり上洛軍を起こしました。
後醍醐天皇は新田義貞と楠木正成に防戦を命じており、これにより湊川の戦いが勃発する事になります。
細川定禅も湊川の戦いに参戦しています。
湊川の戦いでは陸軍を足利直義が率いて、水軍を足利尊氏が率いており、寡兵の朝廷軍と戦いました。
足利軍の二百程の兵が東の経島から上陸を敢行しますが、朝廷軍は脇屋義助が五百程の兵で包囲しています。
これを見た細川定禅は700の兵を繰り出し、東から上陸しようとしました。
細川定禅が軍を東に移動した事で、新田勢も退路を断たれまいと東に移動し、スペースが生まれ、ここに足利尊氏が上陸しました。
楠木正成や新田義貞は奮戦しますが、兵力の差が響き湊川の戦いは足利軍の勝利に終わっています。
当然ながら、細川定禅の功績は大きかったと言えるでしょう。
六条八幡宮別当
足利尊氏は持明院統の光明天皇を即位させ、兄の光厳上皇を治天の君とし、建武式目を制定し室町幕府を開きました。
さらに、後醍醐天皇と和議を結びますが、後醍醐天皇は吉野に向かい南北朝時代が始まる事になります。
細川定禅は建武四年(1337年)四月に足利直義と共に、東寺の仏舎利を奉請しました。
こうした事実から、室町幕府を開いてからの細川定禅は京都にいたのでしょう。
さらに、この頃の細川定禅は醍醐寺の関係者が兼帯するのが普通だった六条八幡宮別当になっていました。
当時では六条八幡宮別当に就任するのは異例の事であり、これまでの細川定禅の功績が高く評価された結果として、破格の恩賞を得たのでしょう。
他にも、在京していた細川定禅は和泉国近木荘雑掌の依頼を兄の細川顕氏に取り次いだ話が残っています。
細川定禅の最後
細川定禅は「不吉な事」により、六条八幡宮別当を解任されてしまいました。
後任の六条八幡宮別辺には醍醐寺の三宝院賢俊がが補任されています。
何があったのかは不明ですが、細川定禅はこの頃から行方が分からなくなり、亡くなったと考える事も出来ます。
細川定禅は軍記物語では目立った活躍がありますが、その最後や人物像は謎に包まれていると言えそうです。