後漢

法真は清廉潔白で生涯渡り仕官しなかった

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名前法真(ほうしん) 字:高卿
生没年99年ー188年
時代後漢
一族父親:法雄 子:法衍 孫:法正 曾孫:法邈

法真は三国志で、劉璋や劉備に仕えた法正の祖父にあたる人物です。

法真に関する事柄は正史三国志の注釈・三輔決録注に掲載されています。

法真は司隷扶風郡の出身であり、学問に通じ評判の人物でした。

ただし、法真は生涯に渡って仕官していません。

法真は188年に89歳で死去した話があり、生まれた年は逆算すると西暦99年となります。

それを考えると後漢王朝において和帝の時代から殤帝、安帝、順帝、沖帝、質帝、桓帝、霊帝と少帝懿を覗いても8代の皇帝の時代を生きた事になります。

胡広の出世を予言

三輔決録注によれば法真の字は高卿であり、若い頃から五経に精通していたとあります。

法真は学問において決まった先生は持っていなかった様ではありますが、秀才として名高き人物だったのでしょう。

法真が20歳にも満たぬ頃に、法真の父親である法雄が、南郡に在住していたとあります。

法雄が南郡太守だったのかは不明ですが、仕事で南郡に行っていたのでしょう。

法真は徒歩で父親の法雄に会いに行き帰ろうとすると、法雄は「正月まで待て」と引き留めたわけです。

法雄には狙いがあり法真に、元旦の朝会に出席する官吏を観察させました。

集まった者が数百人もおり、法真は窓越しに法雄に挨拶をする役人の姿を見ます。

朝会が終わると法真は「誰が優れた人物だと思うか」と法真に尋ねました。

すると、法真は「胡広には公卿になるだけの能力があります」と述べています。

この時の法真は20歳にも満たぬ年齢でしたが、予言は的中し後に胡広は九卿三公の位を歴任しました。

これを見た多くの人が法真の眼力を認めた話があります。

玄徳先生

法真は幅布と呼ばれる頭巾を被り、扶風郡の太守に面会した事があります。

扶風太守が「魯の哀公は暗愚であったが、孔子を臣下とし柳下恵は父母の元を離れなかった」とのべ功曹となり仕官する様に勧めました。

扶風郡の太守は法真の評判を聞き及んで、自分を魯の哀公、法真を孔子や柳下恵に見立てて仕官させようとしたのでしょう。

法真は仕官の依頼に対し、明府が礼を以って対応してくれる事と、自分も挨拶に行っていると述べ、もし役人にならなければいけないのであれば、北山の北か南山の南で暮らすと言い放ちます。

この言葉を聞き、扶風郡の太守も法真の登用を諦めています。

扶風郡の太守の他にも、法真に仕官を勧める者は多くいたようですが、全て断わる事になります。

法真の友人である郭正らは、法真を褒め玄徳先生と呼びました。

法真の孫の法正は劉備に仕える事になりますが、劉備の字は玄徳であり、法正は劉備の字を知った時に、何かしらの運命めいたものを感じたのかも知れません。

法真は精錬潔白な人物だったと言えるでしょう。

法真は仕官しませんでしたが、法真は名士であり何らかの援助があったのか、自由きままに学問を学び生涯を終えたのかも知れません。

ただし、法真の子である法衍は仕官し司徒掾、廷尉左監になった話があります。

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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