氷城の計は正史三国志の注釈・曹瞞伝に記述があり、婁圭が考案した事になっています。
この時に、曹操は渭水を渡ろうとしますが、渭水を渡河すると馬超の軍に攻撃されてしまうのが悩みの種だったわけです。
こうした中で、曹操配下の策士である婁圭が進言したのが、氷城の計となります。
結果で言えば、婁圭の氷城の計は成功し、賈詡の離間の計も上手く行った事で、曹操は涼州連合を多いに破ったわけです。
尚、三国志演義でも氷城の計は存在しますが、進言したのは婁圭ではなく、婁圭をモデルにしたと思われる夢梅居士となっています。
ただし、史実の婁圭と夢梅居士を比べると、性格は真逆とも言えます。
今回は潼関の戦いで使ったとされる氷城の計の解説をします。
氷城の計とは
氷城の計は先にも述べた様に、正史三国志の注釈・曹瞞伝に記述があります。
正史三国志には、曹操が渭水を渡る時には、次の記述が存在するだけです。
「九月、軍を進めて渭水を渡河した」
正史三国志の上記の記述だけだと、氷城の計は記載がなく、曹操の軍がいとも簡単に渭水を渡った様に思うかも知れません。
後述しますが、曹瞞伝の記述を見ると、馬超は簡単に渭水を渡らせてはくれなかった事が分かります。
渭水は涼州連合の防御ラインであり、普通に考えれば渭水を簡単に渡らせてくれるはずがありません。
氷城の計を進言
曹瞞伝によれば、曹操の軍が渭水を渡河しようとすれば、馬超の騎兵隊が突撃を仕掛け、陣営を築く事が出来なかったとあります。
曹操としては渭水を渡河しても、防御陣地を築く事が出来なければ、被害が大きく馬超に勝てない状況だったのでしょう。
また、曹瞞伝によれば渭水の近辺は砂が多く、砦を築くのも不可能だったとあります。
こうした中で、曹操の参謀の一人である婁圭が、次の様に意見しました。
婁圭「今は気候が大変寒い時期です。砂を盛り上げて城壁を作り、水を掛けるだけでよいのです。
さすれば、一晩で城が完成します」
つまり、婁圭は水が凍って固まる事を予測し、砂を氷で固め城を作る様に述べたわけです。
これが氷城の計であり、一晩で渭水の反対側に城が完成する仕組みでした。
氷城の計は婁圭の一夜城と言ってもよい内容だったはずです。
日本でも札幌の雪まつりで氷の城を作ったりしますが、実際の戦闘でも氷の城が作られた事になります。
ただし、札幌の雪まつりの様な壮麗な城ではなかったはずです。
氷城の計を実行
曹操は婁圭の説に従い、氷城の計を実行する事になります。
曹操は絹の袋を大量に作り、夜のうちに渭水を渡り、城を作ったわけです。
曹瞞伝によれば、婁圭の策は見事に成功し、一晩で城が完成し防御陣地が構築されました。
防御陣地が完成した事で、曹操軍は次々に渭水を渡り、全軍が渭水の渡河に成功しています。
馬超らは曹操に土地の要求をしたりしますが、この後に賈詡の離間の計もあり、戦局を優位に進めました。
最終的に曹操は馬超らを破り、成宜、李堪らを討ち取り潼関の戦いに勝利する事になります。
潼関の戦いは婁圭の氷城の計が、突破口になったとも言えそうです。
しかし、氷城の計が無かった説もあります。
氷城の計は無かった
裴松之が氷城の計に関して、疑問を呈しています。
裴松之は氷城の計に関して、次の様に述べる人がいた事を指摘しました。
「ある人が、この時は9月だったはずだから、水が凍るはずがないと疑念を持っている」
正史三国志に曹操が渭水を渡ったのは、九月であると記載されている事から、水が凍る様な時期ではないと述べた事になります。
さらに、裴松之は氷城の計の信憑性を探るために、魏書を調べると、次の記述が見つかった話を掲載しています。
「公(曹操)の軍は八月に潼関に到着し、閏月に北へと河を渡っている。
とすれば、その年の閏八月である」
裴松之は氷城の計の信憑性を探ってみると、気温的に寒気が訪れる季節ではなく、裴松之も氷城の計が出来るかどうか疑問を持った事になります。
ただし、現在の研究では当時は寒冷期であり、例年に比べると寒気がやって来るのが早かったのではないかともされているわけです。
当時が寒冷期であった事は裴松之の頭にもなかったはずであり、真冬ではない事を理由に氷城の計がなかったとする理由にはならないとする話もあります。
氷城の計が史実かどうかは不明な部分も多いと言えるでしょう。