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構成・文/宮下悠史

その他 三国志

婁圭(ろうけい)は英雄になりたかった策士

2022年5月12日

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名前婁圭(ろうけい) 字:子伯
生没年不明
時代後漢末期、三国志
勢力劉表曹操
年表218年 潼関の戦い
画像三国志(コーエーテクモゲームス

婁圭は曹操に仕えた策士です。

婁圭は馬超や韓遂との潼関の戦いで、曹操に氷城の計を進言した人物でもあります。

婁圭は曹操の臣下となり有能さは評価されていますが、本心を言えば群雄となり英雄になりたかったのでしょう。

しかし、婁圭の夢は実現する事はなく、最後は習授の告げ口とも言える形で命を落としました。

今回は英雄になりかたった策士とも言える婁圭の解説をします。

 

英雄になりたかった

婁圭の若い頃の話が、正史三国志の崔琰伝の注釈・呉書にあります。

若い頃の婁圭は覇気があり、ある時に嘆息して、次の様に述べました。

婁圭「男児たる者が生を受けたからには、必ず数万の兵と騎馬千匹を手にし、後世に名を残すべきなのである」

婁圭は将来に対し、強い希望を持っており英雄になりたかったのでしょう。

ただし、婁圭の周りの人々は、婁圭の発言を笑ったとあります。

これを考えると婁圭は名士でも豪族でもなく、平民に近い立場の人間だったのではないかとも考えられています。

しかし、どういう訳か婁圭が曹操と知り合いだった話もあり、どの様に婁圭と曹操が知り合ったのかは、はっきりとしません。

尚、婁圭の将来に対する逸話は、末期の陳勝の志と近いものがあると感じました。

 

投獄されるも脱出

婁圭は後に逃亡者を匿った事で、投獄され死刑を言い渡されてしまいます。

しかし、婁圭は英雄になる夢があったせいか「ここで死ぬわけにはいかない」と考えたのか投獄を企てました。

婁圭は牢獄の塀を乗り越えると、牢獄の外に出る事に成功します。

捕吏は厳しく婁圭を詮議したとありますが、婁圭は衣服を着替え捕吏を助ける振りをして、逃げ去る事が出来たわけです。

投獄の逸話からは婁圭が機転に富んだ人物だと言う事が分かります。

策士としての片鱗が、この辺りから出ていたとも言えるでしょう。

 

劉表の後ろ盾を得る

後漢王朝の中央政府では張角の黄巾の乱の後に、霊帝が崩御し大将軍・何進が宦官に暗殺され、袁紹が宦官を皆殺しにする事件が起きました。

この時の混乱により少帝と陳留王(後の献帝)が、行方不明となりますが、董卓が実権を握る事になったわけです。

しかし、董卓に対する反発は強く反董卓連合軍が袁紹や曹操を中心に結成されると、婁圭も動く事になります。

反董卓連合との戦いにおいて、下記の記述が存在します。

「天下に董卓討伐の義兵が起きた。

子伯(婁圭)も軍勢を集めて劉表と連携した」

上記の記述を見ると、婁圭と劉表が連携したとあり、婁圭は荊州牧の劉表の後ろ盾を得て、軍勢を得る事に成功したと言う事なのでしょう。

 

王忠に軍勢を奪われる

婁圭は荊州におり、北方から来るものを配下に加え、軍勢を増やそうと考えます。

こうした中で、武関に向かう最中の王忠が、婁圭を急襲しました。

王忠は婁圭の兵と武器を奪い曹操に降伏する事になります。

後に婁圭も曹操に仕えるわけですが、王忠に対し、どの様な感情を持って接したのかは不明です。

それでも、婁圭は王忠に対して、良い感情は抱いてはいなかった様に感じました。

ただし、婁圭は曹操の時代に亡くなりますが、王忠は曹丕の時代まで生きた事が分かっています。

 

劉琮の降伏

曹操は袁紹の遺児である袁譚、袁煕、袁尚を滅ぼし、北方を平定すると荊州を取る事にしました。

この時に劉表が亡くなり劉琮が後継者となりますが、劉琮王粲蒯越の説得により降伏の決断をします。

劉琮は使者に割符を持たせ、曹操への降伏を申し入れますが、曹操配下の将軍たちは劉琮が本当に降伏する気があるのか、疑いの心を持ったわけです。

こうした中で、曹操は婁圭は意見を求め、婁圭は次の様に答えました。

婁圭「天下は乱れ騒いでおり、それぞれが天子の命令だと偽り、高官に任じられ重しとしておられます。

今の劉琮は官位返上の割符を持って出頭しており、劉琮からは真心が感じられます」

婁圭は劉琮の降伏が真実だと曹操に語ったわけです。

曹操は婁圭の進言を受け入れ、劉琮の降伏を認め荊州の地を得ました。

ただし、曹操は赤壁の戦いで孫権軍の大都督・周瑜の前に敗れています。

周瑜が攻めた江陵を曹仁が守り切る事が出来ず、劉備荊州四英傑を降した事で、曹操の荊州支配は北方だけに留まりました。

 

氷城の計

西暦211年に曹操は潼関の戦いで、馬超や韓遂と戦う事になります。

この時の曹操は馬超に苦戦し、渭水を渡る事が出来ない状態でした。

正確に言えば渭水を渡る事が出来ても、防御施設である城を築く事が出来ず、苦悩していたわけです。

悩む曹操に向かって婁圭は寒さを利用し、氷の城を建てる様に進言しました。

これにより曹操は渭水を渡り、防御施設である氷の城を完成させる事が出来たわけです。

これが氷城の計であり、三国志演義だと婁子伯・夢梅居士として登場し、曹操に策を授けています。

尚、氷城の計ですが季節の問題もあり、裴松之は本当にあったのか?と疑いを残す様な事も述べており、氷城の計の真相は不明な部分もあります。

因みに、潼関の戦いでは丁斐も活躍しており、曹操陣営の層の厚さを感じます。

 

富貴の身となる

曹操は婁圭の功績を認め、裕福にした話があります。

曹操は婁圭に対し、次の言葉も述べました。

曹操「婁子伯は儂よりも富栄えておるし安楽である。

婁子伯は権勢が儂に及ばないだけじゃ」

さらに、曹操は婁圭に対し、次の様にも評価しています。

曹操「子伯の立てる計略は儂ですら及ばない」

曹操は孫武の書いたとされる孫子の兵法書に注釈を入れた程の人物ですが、曹操であっても婁圭の策には及ばないと評したわけです。

しかし、曹操は婁圭に対し警戒心を抱いていたのか、策士として幕僚の会議に参加させても、兵士を持たせる事はしなかったと考えられています。

婁圭の志は天下の英雄になる事であり、曹操もそれらを知っており、婁圭に対する警戒が強かったのかも知れません。

 

婁圭の最後

婁圭は習授と一緒にいた時に、曹操の親子を見かけました。

この時に、習授は曹操の親子を褒める発言をしましたが、習授は次の様に答えています。

婁圭「自分であのようになればいいのだ。それを眺めているだけとは」

婁圭は習授に対し、皮肉を言った事にもなるのでしょう。

婁圭にとってみれば、曹操の様になれなかったストレスがあり、口に出てしまった言葉でもあるのかも知れません。

婁圭の言葉を習授が曹操に告げた事で、曹操は婁圭の発言を問題視しました。

婁圭は曹操に処刑されてしまい、最後を迎えています。

婁圭の不用意な発言が最後を迎えたとも言えそうです。

ただし、崔琰伝に孔融、許攸、婁圭は曹操に対し、不遜な態度を取って処刑したとあり、曹操は兼ねてから婁圭の自分に対する態度が気に入らなかった可能性もあります。

 

婁圭の能力値

三国志14統率52武力13知力83政治67魅力11

 

 

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