名前 | 今川範国 |
生没年 | 1295年?ー1384年 |
一族 | 父:今川基氏 母:香雲院 兄弟:頼国、範満、頼周、大喜法忻 |
子:範氏、貞世、氏兼(蒲原直世)、仲秋 | |
主君 | 足利尊氏ー義詮ー義満 |
年表 | 1334年 遠江守護となる? |
1338年 駿河守護となる | |
コメント | 今川氏興隆の礎となった人物 |
今川範国は駿河守護や遠江の守護になった人物であり、南北朝時代に活躍しました。
中先代の乱では3人の兄が亡くなっており、今川範国が今川氏の後継者となります。
今川範国が登場する前に今川家は小領主でしかありませんでしたが、今川範国の代で守護に任命されるなど飛躍した事が確認出来ています。
駿河での今川範国は浅間神社と関係を深めるなどし、地盤強化に努めると同時に南朝の勢力を討つなども行っています。
幕府の引付頭人にもなっており、室町幕府の将軍からも信頼されました。
今川範国の時代に今川氏は発展し、今川氏興隆の礎を築いた人物だと言えそうです。
今川範国の動画を作成してあり、この記事の最下部から視聴する事が出来ます。
今川範国の登場
今川家は吉良長氏の子である今川国氏に始まるとされています。
吉良氏は足利一門の中では斯波氏と並ぶ名門であり、吉良氏から分家したのが今川氏となります。
今川国氏は現在の愛知県西尾市今川を本拠地としており、今川を名乗りました。
今川国氏の子が今川基氏であり、今川基氏の子の一人が今川範国となります。
尚、今川家の初代は今川国氏であり、二代目が今川基氏となり、三代目が今川範国となるのが普通です。
ただし、今川国氏と基氏は今川荘の三カ所の村を支配するだけの弱小勢力でしかなく、今川氏が守護となり大発展するのは今川範国の時代からとなります。
それを考えると今川氏の礎を築いたのは、今川範国であり、今川範国を初代とみる事も出来ます。
因みに、後醍醐天皇による建武の新政の段階で既に今川範国は遠江守護に補任されていたとする話もあります。
今川範国が遠江国内の軍事指揮権を発動した記録があり、今川範国は建武政権で既に遠江守護だったとも考えられるわけです。
今川範国が家督を継ぐ
今川氏の武名が天下に鳴り響くのは、中先代の乱の時です。
後醍醐天皇は建武の新政を開始しますが旧鎌倉幕府の勢力である北条時行が諏訪頼重に担がれ挙兵し、鎌倉に向かって進撃を始めました。
北条時行の軍が関東に雪崩れ込むと幕府軍は各地で敗れ岩松経家と渋川義季が討死する事態となります。
小手指ヶ原の戦いでは今川範国の兄の今川範満が重病にも関わらず出陣し世を去りました。
北条時行は鎌倉を占拠し鎌倉将軍府の足利直義は三河方面に退く事になります。
足利尊氏が後醍醐天皇の命令も聞かず直義救援に駆け付けると形勢は逆転しますが、相模川の戦いで今川基氏の嫡男である今川頼国が戦死しました。
さらに、今川三郎なる人物も戦死しており、これが今川範国の兄の頼周だとも考えられています。
今川範国は中先代の乱で3人の兄を失っており、もう一人の兄である大喜法忻が出家していた事で今川氏の後継者となります。
尚、北条時行の中先代の乱は足利尊氏が鎌倉を奪還する事で終結しました。
ただし、足利尊氏は勝手に論功行賞を始めてしまい後醍醐天皇と敵対する事になります。
青野原の戦い
今川範国の後詰
後醍醐天皇が鎌倉討伐に新田義貞を派遣しますが、箱根竹ノ下の戦いで足利軍が勝利しました。
新田義貞は近畿に退き足利尊氏の軍が近畿に乱入しますが、奥州から北畠顕家が到着すると足利軍は各地で敗れ九州に退いています。
足利尊氏は湊川の戦いで楠木正成らを破り光厳上皇の院宣を獲得し、室町幕府を開きました。
後醍醐天皇は一時は足利尊氏と和睦をするも吉野に行き南朝を開き、ここにおいて室町幕府が推戴する北朝と合わせて南北朝時代が始まります。
この頃には今川範国が遠江守護になっていたのは確実です。
北畠顕家率いる奥州軍は大軍であり、凄まじい程の略奪を行い草木が一本も残らないとも言われる程の進撃を続けました。
北畠顕家率いる奥州軍は東海道を進撃し、駿河守護の石塔義房、遠江守護の今川範国、三河守護の高師兼らは奥州軍を阻止する事が出来ず、美濃にまで進軍を許してしまいます。
幕府軍は京都を守るために青野原に集結し、奥州軍との戦いが勃発しました。
青野原の戦いでは土岐頼遠の奮戦もあり戦いに敗れたとはいえ奥州軍の損害は大きく、高師泰が黒血川を死守した事で北畠顕家は伊勢路に向かう事になります。
青野原の戦いで今川範国は後詰の軍として戦功を挙げる事になります。
今川赤鳥紋
難太平記では青野原の戦いを「赤坂攻め」と記録しており、この時に今川範国は笠験を赤鳥にする事を思いつきました。
赤鳥は「女の具」とも呼ばれており、垢取で櫛の事だと考えられています。
今川範国が戦いで赤の家紋を使い始めたのが、今川赤鳥紋の始まりだと考えられています。
家臣の放火
難太平記に奥州軍との戦いでの今川範国のエピソードがあります。
今川範国は杭瀬川の付近に人が住んでいない小屋がある事を発見しました。
人が住んでいない小屋に目を付けた今川範国は、この小屋で一晩を過ごし朝一で敵を攻撃を仕掛けようと考えたわけです。
家臣らは小屋を奥州軍に襲撃される事を恐れ猛反対しますが、今川範国は聞く耳を持ちませんでした。
今川範国の態度に怒った家臣の米倉八郎右衛門は「こんなバカ大将は焼き殺すしかない」と述べ、小屋に火を放つ事になります。
小屋が放火されてしまった事で、今川範国は諦めて退却したと言います。
この逸話から今川範国は兄たちに負けず劣らずの血気盛んな性格だという事が分かるはずです。
さらに、それを諫める優秀な家臣団を抱えていた事もまた事実なのでしょう。
今川家発展の原動力には、陰で支えた優秀な家臣団がいた事もまた事実です。
今川範国と駿河守護
青野原の戦いが終わると今川範国は功績を評価され、駿河守護に任命されました。
今川範国が駿河守護に任命されたのは青野原の戦いの直後である1338年の正月だと考えられています。
それまでの駿河守護は石塔義房でしたが、石塔義房は青野原の戦いで功績を挙げる事が出来ず解任されたともされています。
ただし、石塔義房は奥州総大将として奥州の地に移ると南朝の北畠顕信を相手に戦いを優勢に進めるなどし、奥州で強い影響力を持つに至りました。
今川氏と駿府
今川氏で考えると今川館(駿府城)をイメージする方も多い様に感じています。
駿府は古来は駿河府中と呼ばれており、国府もあり駿河の中心地でもありました。
今川範国は最初から駿府を本拠地にしていた説もありますが、今川氏は最初から駿府を本拠地にしたわけでもなく、大津城などを守護所としていた説もあり見解が分かれています。
それでも、今川氏は今川範国から数えて四代目の今川範政の時代までには駿府を本拠地にした事は間違いないでしょう。
今川範国と浅間神社
今川範国は浅間神社と密接に関わり、駿河守護となるや直ぐに浅間神社への参拝を行っています。
今川範国が浅間神社に直ぐに参拝した理由は、浅間神社が総社だったからだと考えられています。
尚、浅間神社は一つの神社ではなく神部神社、大歳御祖神社、浅間神社の三つの総称であり、今川範国はこの中の総社である神部神社に参拝しました。
神部神社が駿河総社でもあります。
浅間神社側は今川範国の守護就任は神意に基づくものであるとし、今川範国も託宣を受け入れていたわけです。
今川範国としては浅間神社の託宣を権威として利用し、浅間神社側も今川範国と誼を通じる事で利益を願ったのでしょう。
今川範国と浅間神社の思惑が一致した事で、誼を通じたと考える事も出来るはずです。
尚、猿楽師の観阿弥を招くなどもしています。
因みに、観阿弥は駿河静岡浅間神社で亡くなっています。
今川氏と遠江守護
先に述べた様に、今川範国は駿河守護よりも先に遠江守護になっています。
遠江守護は今川範国が駿河守護となった翌年である1339年には仁木義長に代わりました。
その後は千葉貞胤、高師泰と変遷があり、1352年に再び今川範国が遠江守護に返り咲いています。
観応の擾乱で今川氏は足利尊氏に味方し、足利直義の勢力に苦戦を強いられ駿河国の維持が困難になった時期もあります。
しかし、今川範氏の活躍もあり駿河奪還は進められ、足利尊氏が京都から援軍に駆け付け薩埵山の戦いでの勝利に貢献しています。
薩埵山の戦いでは今川範国の子の今川貞世も活躍した記録があります。
今川範国は1352年に遠江守護となりますが、駿河守護は息子の今川範氏に代わりました。
それでも、今川氏で駿河、遠江と二カ国の守護になったと言えるでしょう。
今川範国と引付頭人
今川範国が遠江守護となったわけですが、同時に所領関係の訴訟を扱う引付衆の長官である引付頭人になった事も分かっています。
引付頭人になった事で、今川範氏は在京する事が増えたと考えられています。
駿河から遠江の守護に代わったのも、駿河よりも遠江の方が京都に近いからだともされているわけです。
京都での今川範国は新熊野を拠点にしたとみられています。
尚、1361年に足利義詮と細川清氏が対立し、義詮は京都の新熊野にあった今川範国の邸宅に避難した話があり、今川範国は幕府からも高い信頼があったのでしょう。
それと同時に、遠江守護でありながら大半は京都にいたとも考えられています。
遠江の戦い
遠江の南朝勢力は1339年に井伊谷城が陥落したり、宗良親王が信濃や越後に移った事で収束を迎えたとも考えられていました。
しかし、実際には南朝の勢力は山中に籠るなどしており、遠江でも抵抗があったわけです。
今川範国は遠江を完全に平定する為に、横山村(浜松市天竜区)まで進撃した事が分かっています。
横山村は山奥にあり、大軍で一気に殲滅する事も出来なかったのでしょう。
荘園侵略
室町幕府では南朝に倣い半済を行いました。
半済は荘園に対し1年限定で、年貢の半分を守護が貰い受ける事が出来る制度であり、近江、美濃、伊勢、志摩、尾張、伊賀、河内、和泉と戦乱が激しい地域に限定されていました。
近畿の決められた地域でしか半済は許されていませんでしたが、遠江では今川範国が半済を実施した事が分かっています。
半済が許されていない遠江での今川範国の半済令は、荘園侵略としてみる事も出来るわけです。
今川範国の最後
今川範国には嫡男で駿河守護となっていた今川範氏がいましたが、1365年に亡くなってしまいました。
今川範国よりも先に嫡男の今川範氏が世を去ったわけです。
駿河守護には今川範氏の子の氏家がなるも1369年に世を去っています。
今川範国は後継者の範氏や氏家が世を去った事で、晩年になっても隠居する事が出来ませんでした。
しかし、今川範国も1384年に没したと考えられており、90歳で亡くなったともされています。
今川範国があと10年ほど生きていたら、南北朝時代の最初から最後までみた事になりますが、南北合一を見届ける事は出来なかったわけです。
尚、今川範国の生年に関しては異説もあり、はっきりとしない部分もあります。
それでも、今川範国が90歳まで生きたのであれば、同時代の島津貞久と同様に長寿だったと言えそうです。
今川氏の歴代当主
国氏ー基氏ー範国ー範氏ー泰範ー範政ー範忠ー義忠ー氏親ー氏輝ー義元ー氏真
今川範国の動画
今川範国のゆっくり解説動画となっています。
この記事及び動画は戎光祥出版の駿河今川氏十代をベースに作成してあります。