名前 | 稲荷山古墳出土鉄剣 |
読み方 | いなりやまこふんしゅつどてっけん |
別名 | 稲荷山古墳鉄剣 |
時代 | 古墳時代 |
製造年 | 辛亥の年(471年?) |
製作者 | ヲワケの臣 |
コメント | 銘文が刻まれていた事で話題になった |
稲荷山古墳出土鉄剣は、1968年にさきたま古墳にある稲荷山古墳から出土された鉄剣です。
稲荷山古墳出土鉄剣のX線調査を行うと銘文が書かれている事が分かりました。
剣の表裏合わせて百十五文字の銘文が書かれている事が分かったのですが、「大王」の名が刻まれている事が分かり注目されています。
稲荷山古墳出土鉄剣で一躍有名になったのがワカタケル大王であり、雄略天皇の事ではないかとされています。
雄略天皇は倭の五王の中では倭王武だと考える人が多く、当時の日本を知る重要な手掛かりとなったわけです。
稲荷山古墳出土鉄剣が造られた年代
稲荷山古墳出土鉄剣に書かれてあった銘文ですが、下記の通りとなっています。
上記を見ると分かる様に稲荷山古墳出土鉄剣は全て漢字で書かれている事が分かるはずです。
稲荷山古墳出土鉄剣の冒頭の部分で「辛亥年七月」と書いてあり、辛亥年七月を調べれば、この鉄剣がいつ作られたのか分かる事になります。
辛亥の年は60年おきにあり計算すると411年、471年、531年がありますが、この中で最も支持されているのが471年です。
ただし、少数ではありますが531年だとする専門家もいます。
日本側の記録だと471年頃の天皇は雄略天皇とする説が強くあり、中国側の記録で見ると倭の五王の最後の一人である倭王武が478年に南朝の宋へ遣使し倭王武の上表文などが残っています。
それらを考慮し稲荷山古墳出土鉄剣は雄略天皇の時代の重要な資料となっているわけです。
稲荷山古墳出土鉄剣の銘文
稲荷山古墳出土鉄剣の銘文は下記の通りです。
(表面57文字)
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
(裏面58文字)
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
引用:金錯銘鉄剣(埼玉県立さきたま史跡の博物館)
稲荷山古墳出土鉄剣の銘文ですが、二つにブロックを分けることが出来ます。
最初に稲荷山古墳出土鉄剣の製作者であるヲワケの臣が始祖のオホヒコから始まり、ヲワケの臣に至るまでの八代の系統が記載されています。
稲荷山古墳出土鉄剣の表面の銘文を現代語訳に訳すと次の通りとなります。
※稲荷山古墳出土鉄剣の銘文(表)の訳
辛亥の年七月中記す。ヲワケ(乎獲居)の臣。上祖。名はオホヒコ(意富比垝)。その子。名はタカリスクネ(多加利足尼)、その子。名はテヨカリワケ(弖已加利獲居)、その子。名はタカヒシワケ(多加披次獲居)、その子。名はタサキワケ(多沙鬼獲居)。その子。名はハテヒ(半弖比)
表面は稲荷山古墳出土鉄剣の製作者であるヲワケの臣の祖先の名が書き連ねられているのが大半です。
裏面には次の様に記述されています。
※※稲荷山古墳出土鉄剣の銘文(裏)の訳
その子。名はカサヒヨ(加差披余)、その子。名はオワケ(乎獲居)の臣下。
世々。杖刀人の首(隊長)となり、奉事を行い今に至る。
ワカタケル大王(獲加多支鹵大王)の寺。シキ(斯鬼宮)に在る時、我、天下を佐治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を示す也
稲荷山古墳出土鉄剣の現代語訳を見れば分かるかと思いますが、ヲワケの臣の祖先の記述が半分以上を占めるわけです。
ヲワケの臣の一族は代々に渡り天皇家の杖刀人の首(親衛隊長)としての任務を帯び、ワカタケル大王はシキ(斯鬼宮)を都とし天下を治めたとあります。
ヲワケの臣はワカタケル大王を補佐し、鉄剣を作らせ奉事の根原としたとあります。
稲荷山古墳出土鉄剣の銘文からはヲワケの臣の事績と稲荷山古墳出土鉄剣が造られた目的が示されているわけです。
稲荷山古墳出土鉄剣はヲワケの臣の先祖が代々に渡って天皇に仕え杖刀人の長をしていたとする記録を残し、杖刀人の隊長という身分を子孫に受け継がれる事を願ったのでしょう。
見えてきた5世紀の大和王権の勢力範囲
熊本県和水町にある江田船山古墳から銀錯銘大刀が発見され、台天下獲□□□鹵大王世の文字が刻まれていましたが、読めない部分もありました。
稲荷山古墳出土鉄剣の発見で獲加多支鹵大王の文字と似ていると考えられ、両方ともワカタケル大王を示すのではないかと考えられる様になったわけです。
熊本県と埼玉県からワカタケルの名とみられる鉄剣が発見された事で、5世紀には大和王権の勢力が九州から東北にまで達していたと考えられる様になりました。
稲荷山古墳出土鉄剣は当時の大和王権を知る上で、重要な発見だったとも言えるでしょう。