名前 | 倭の五王 |
時代 | 421年ー479年? |
年表 | 413年 高句麗と共同朝貢(偽使説あり) |
421年 倭王讃が宋へ遣使 | |
425年 司馬曹達が宋へ出向く | |
438年 倭王珍が宋へ遣使・安東将軍・倭国王となる | |
443年 倭王済が宋へ遣使 | |
451年 倭王済が使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加号される | |
460年 倭国が宋へ遣使 | |
462年 倭王興が宋へ遣使 | |
477年 倭王武が宋へ遣使 | |
478年 倭王武が使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王となる | |
479年 南斉が倭王武を鎮東大将軍に昇進させる | |
502年 梁が倭王武を征東大将軍に昇進させる |
倭の五王は中国の南北朝時代の宋の歴史書である宋書倭国伝に登場する倭国の五人の王を指します。
倭国が中華王朝へ朝貢を行うのは邪馬台国の卑弥呼や台与が遣使して以来であり、倭の五王により空白の150年が終わり、中国の歴史書にも倭が再び登場する事になりました。
倭の五王は讃・珍・済・興・武であり、中国の宋の皇帝から倭国王として認められ、安東将軍などの将軍号も授与されています。
倭の五王は日本の天皇だとも考えられており「倭王讃が仁徳天皇だ。応神天皇だ。倭王武だけは雄略天皇で決まりだろう」とも言われていますが、読み方や系譜などを見ても完全に合致しない問題があり、倭の五王の特定は出来てはいない状態です。
さらには、九州王朝説の様な「倭の五王は天皇ではない」とする説まであります。
しかし、九州王朝説を支持している人は現在では極めて少数であり、倭の五王は大和王権の天皇だと考えるのが一般的です。
今回は倭の五王が中国王朝へ遣使した理由なども合わせて徹底解説します。
尚、倭の五王の時代である5世紀は古墳時代の全盛期でもあり、古墳からは中国の遺物が多く見つかっており、倭の五王の時代に大和王権と中国とで盛んに交流があった事は確実でしょう。
倭の五王は下記の人物となっています。
倭の五王前夜
西暦372年頃に百済から倭国に七支刀が贈られ、倭国と百済が同盟を結んだと考えられています。
それと同時に百済は東晋に朝貢を行い友好を深めました。
百済が倭国や東晋と友好を結んだのは北の脅威である高句麗に対抗する為です。
高句麗で広開土王が391年に即位すると百済は劣勢となり、百済の阿莘王は倭国に太子の腆支を人質に出し、倭国も百済に軍事支援を行いました。
倭国の軍と高句麗軍が戦った様子も広開土王碑に描かれています。
405年に高句麗の広開土王が亡くなり長寿王が立ちますが、百済でも阿莘王が亡くなりました。
腆支は倭国にいましたが、百済では訓解が政治を代行しましたが、弟の碟礼が訓解を殺害し、百済王に立とうとします。
倭国では100人の護衛と共に腆支を百済に送り届け、碟礼も殺害された事で、腆支は百済の王として即位しました。
百済の腆支王は長く倭国におり人脈も築いていおり、後の事を考えれば腆支王と倭国の関係が倭の五王の始まりに繋がって来るとも言えます。
腆支王と倭国の関係は良好であり日本側が夜明珠を百済に贈り、百済も倭国に白綿が贈られた記録が残っています。
百済の腆支王は406年に余映の名で朝貢を行い416年に東晋から使持節・百済諸軍事・鎮東将軍・百済王に叙任されました。
倭の五王の讃が朝貢する直前ですが、百済は先代からのやり方を踏襲し東晋に冊封される道を選んだわけです。
この百済のやり方を倭の五王たちは見習う事になります。
しかし、当時の東晋は末期状態となっており403年に桓玄により滅亡し復興しましたが、将軍の劉裕が南燕や後秦を滅ぼしますが、今度は劉裕が禅譲により宋を建国しました。
南北朝時代の宋に倭の五王らは遣使する事になります。
宋が建国された翌年である421年に倭の五王の最初の一人である倭王讃が朝貢を行い、倭の五王の時代が始まる事になります。
413年に倭国が高句麗と共に朝貢した話しがありますが、こちらは偽使節だとも考えられ、実際には倭国は413年に朝貢を行ってはいないともされているわけです。
413年の東晋への遣使に関しては、倭王讃の記事で書いてあります。
倭の五王は中国風の名前を名乗った
倭の五王は讃・珍・済・興・武は中国風の名前を名乗った事が分かります。
日本の歴代天皇を見ると、中国風の名前を名乗った記録がなく不思議に思うかも知れません。
しかし、先に東晋への朝貢を行った百済や高句麗の王と遣使した時の名を比較すると下記の様になっています。
図は河内春人さんの倭の五王の書籍を元に作成してあります。
百済王の名
王 | 中国名 | 朝貢年 |
近肖古王 | 余句 | 372年 |
近仇首王 | 須 | 379年(東晋未達) |
枕流王 | 不明 | 384年 |
辰斯王 | 余暉 | 386年 |
阿莘王 | ー | ー |
腆支王 | 余映 | 406年 |
百済は近肖古王の時代に東晋へ遣使し、近肖古王は余句と名乗った事が分かるはずです。
近肖古王の名は肖古であり、7代前の肖古王と区別する為に、肖古と呼ばれています。
百済王は「余」を姓としているのは、初代高句麗王の朱蒙は扶余からの亡命者であり、朱蒙の2番目の子が温祚であり初代百済王となっています。
実際には百済は馬韓の一国である伯済国が発展したと考えられていますが、百済王家は扶余の血統だと宣言していたわけです。
こうした事情もあり、扶余の「余」を姓として、中国へ遣使したのでしょう。
高句麗を見ると、次の様になっています。
高句麗王の姓名と中国名
王 | 諱 | 別名 | 中国名 | 朝貢年 |
故国原王 | 斯由 | 国岡上王 | 釗 | 343年 |
小獣林王 | 丘夫 | 小解朱留王 | ||
故国壌王 | 伊連 | 於尺支 | ||
広開土王 | 談徳 | 安 | 397年頃 | |
長寿王 | 巨連 | 高璉 | 413年 |
高句麗では長寿王が高璉という中国名を名乗った事が分かるはずです。
高句麗が「高」を姓としたのは、国号から採用したのでしょう。
倭の五王たちも中国に遣使する際に、百済や高句麗に倣い倭を姓とし、讃・珍・済・興・武と一字の中国名を名乗ったのでしょう。
尚、倭王讃の場合であれば、倭が姓であり讃が名前となります。
倭国と倭国王の違い
倭の五王の最初の一人である倭王讃が中国に遣使したのが、421年だと考えられています。
413年にも倭国が高句麗と共に東晋へ朝貢した話しがありますが、413年の朝貢は高句麗による偽使説があり、倭国の朝貢は信憑性が低いと言えます。
倭王讃は朝貢を行うと安東将軍及び倭国王に冊封されました。
倭の五王の中で倭王武だけは「倭王」としていますが、讃・珍・済・興の4名は「倭国王」としています。
邪馬台国の卑弥呼は三国志の魏に朝貢を行うと親魏倭王に冊封されており「倭王」となっている事が分かるはずです。
倭国王と倭王の違いですが、遠方で軍事協力が期待出来ない場合を倭国王とし、軍事協力が期待できる場合を倭王とします。
左の図が邪馬台国時代の中国の勢力図ですが、魏では邪馬台国の卑弥呼に軍事協力を期待し親魏倭王にしたともされているわけです。
魏はライバル国である呉の牽制や朝鮮半島の高句麗などへの軍事協力を期待したのでしょう。
それに対して、倭の五王たちが朝貢した宋は南方であり、宋の方でも遼東半島を支配しているわけでもなく、軍事協力が期待出来ないと考え倭国王にしたとも考えられます。
尚、倭の五王の時代であっても倭国の詳細な場所が分かってはおらず、実際の位置よりも倭国は南にあったとも考えられているわけです。
倭の五王の目的
倭の五王は自ら中国の南朝の宋へ頭を下げて君臣関係を結んでいます。
倭の五王の方でも目的もなく朝貢するわけもなく、狙いがありました。
倭の五王らの目的の一つは府官制にあったと言えます。
府官制は高句麗や百済が導入しており、倭の君主が宋へ朝貢し将軍号を授与される事で、将軍府を開設する事が可能となります。
将軍府を開設すると倭国王がトップとなり、臣下の者達に将軍府の役職を与える事が可能となります。
倭王讃の時代の曹達などは、倭王讃から将軍府の司馬に任命された人物という事になるわけです。
倭国の臣下が宋の官爵を望んだ場合に、倭国王に最初に話を通し、正式に宋の承認を得るスタイルだった事で、倭国王の権威が上昇したとも考えられています。
倭の五王は宋に権威を背景に国内を纏めたとも言えるでしょう。
倭の五王が宋へ朝貢した目的の一つは国内を纏める事だったと言えるでしょう。
倭王済の時代になると「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」が加えられました。
さらに、倭王武の時代になると使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に任命されています。
倭国は新羅、任那、加羅、辰韓、馬韓の軍権も任されており、朝鮮半島での戦いを優位に進めようとしたのが分かるはずです。
新羅は宋に朝貢を行った事もなく、宋の方でも新羅は朝貢にも来ていない事から、倭国が新羅の軍権を望んだので与えたのでしょう。
名目上ではありますが、他国の軍権を承認される事を倭の五王らは権威を得ようとしました。
倭の五王の系図
倭の五王の系図ですが、宋書倭国伝を見ると下記の様になっています。
宋書倭国伝だと倭王讃と倭王珍が兄弟で、倭王珍と倭王済の関係が不明となっている事が分かります。
梁書倭伝の記述だと倭王珍の子が倭王済だとなっていますが、梁書は著者の姚思廉が整合性を取るために勝手に文章を付け足した事で知られています。
その為、倭王讃・倭王珍と倭王済・倭王興・倭王武のグループは別系統だとも考えられています。
一つの説として当時の倭国は様々な王家の連合政権であり、倭王済らは倭王珍の時代に平西将軍となった倭隋のグループだとも考えられています。
当時の倭国では古市古墳群と百舌鳥古墳群の二大勢力が形成されており、こうした事情から倭王済から別系統の王朝に移ったともされているわけです。
倭の五王と天皇名
松下見林の説
倭の五王の最大の謎と言えば、倭の五王が日本のどの天皇を指すかという事ではないかと感じています。
倭の五王が日本のどの天皇になるのかは江戸時代には既に行われており、松下見林、新井白石、本居宣長らも考察を行っています。
松下見林は異称日本伝を著した人物ですが、倭の五王に対して次の様に考えました。
・倭王讃は履中天皇の諱であるイザホワケの読みを省略し讃とした。
・倭王珍は反正天皇の諱である瑞歯別(ミヅハワケ)の「瑞」を間違えて「珍」とした。
・倭王済は允恭天皇の雄朝津間稚子の「津」を間違って「済」とした。
・倭王興は安康天皇の穴穂を誤って書いた。
・倭王武は雄略天皇の大泊瀬幼武を略記して武とした。
江戸時代の医者である松下見林の倭の五王ですが、書き間違えが多いのと、倭王武が突如として名前が省略されているなどの指摘もある状態です。
さらに、倭王珍は「瑞」と「珍」の文字を間違えたとの事ですが、古事記では反正天皇の諱は「水歯別」となっています。
梁書では倭王珍の名が「彌」となっている事に着目し、彌の字の形から「ミヅハ」と読むのではないかとする説もあります。
倭の五王が活躍した5世紀に日本で使用されていた漢字もイマイチよく分かってはおらず、松下林見の説は事実確認が出来ない問題もあります。
尚、松下見林の説に対し新井白石は松下見林の天皇名が間違っていたのではないと考え、珍は瑞であり、済は「ツー」と読み、興は「ホン」と読むから間違いではないとしました。
しかし、新井白石は讃を「ザ」と音読みで解釈し、武を「タケル」と訓読みで解釈しており、一貫性がない事を問題視されている状態です。
本居宣長の斬新な説
本居宣長は古事記こそが研究の根本とすべきだと考えました。
倭の五王に関しては、中国側が中華思想に当てはめ都合よく書いたものであり、倭の五王の正体は日本の天皇ではないと考えたわけです。
本居宣長は当時の天皇が中国の宋に頭を下げる事はありえないと考えました。
本居宣長は吉備などの地方政権が勝手に宋に朝貢を行ったと考えたわけです。
倭の五王の正体が地方政権だとする考えは、九州王朝説などにも繋がって来る考え方となります。
現代人の感覚だと本居宣長の考えは極端すぎるとなるのかも知れませんが、書き手の心情を考察する面で評価されています。
ただし、倭の五王の正体が吉備などの地方豪族だとする説は支持する人は少ないでしょう。
倭の五王を系譜から特定
明治時代にイギリスの外交官のウィリアム・ジョージ・アストンが倭の五王の正体を読み解こうとしました。
アストンは讃・珍・済・興・武は諡号だと考え、天皇の存命中の名前とは一致しないと考えたわけです。
さらに、天皇の系譜から倭の五王を読み解こうとしました。
アストンは宋書倭国伝の記述に従い倭王讃の弟が倭王珍であり、倭王済の子に倭王興と倭王武がいる事に着目したわけです。
アストンは履中天皇、反正天皇、允恭天皇の三兄弟と、允恭天皇の子の安康天皇と雄略天皇を倭の五王に比定しました。
当時の日本では日本書記と古事記を重視して考えるのが普通であり、アストンの宋書倭国伝と記紀を同列に扱う考え方は異色だったわけです。
しかし、アストンの考えは戦前の日本では天皇を絶対視された事で受け入れられませんでした。
天孫降臨が実在したとか、万世一系が当たり前だと考えられる様になった時代でもあります。
二つの王家
戦後になると戦前の呪縛から解放されたが如く騎馬民族征服王朝説や三王朝交代説などの意見も出されムーブメントを巻き起こしたりもしています。
ただし、現在では騎馬民族王朝説や三王朝交代説を支持する人は殆どいません。
こうした中で藤間生大は倭の五王は「倭王讃と倭王珍」「倭王済、倭王興、倭王武」で別系統だと考えたわけです。
これが「二つの王家」に繋がっており、王朝交代説の派生だとも言えるでしょう。
しかし、倭の五王の倭王讃から倭王武までの全員が倭姓を名乗っており、同族だと考える事も出来ます。
こうした事情から倭王済の時代に王朝が移ったとする説は否定されたりもしている状態です。
藤間生大自身も二つの王家説を唱えながらも、必ずしも血縁関係が途切れたわけでもないと述べています。
倭の五王が活躍した5世紀に大阪平野には古市古墳群と百舌鳥古墳群の二大勢力がいたとも考えられており、二つの王家説を完全に否定する事は出来ないはずです。
可能性を突き詰めていけば、春秋時代の晋は分家が本家を乗っ取っており、梁の蕭衍も禅譲により同族である南斉から帝位を譲り受けています。
こうした例を考えれば、倭王済が本家を乗っ取ってしまった可能性もないとは言い切れないでしょう。
尚、倭姓は日本列島で中国に朝貢する時の姓とも考えられ、倭王=倭姓だったのではないかとする説もあります。
倭王讃と仁徳天皇・応神天皇
倭王讃に関しては応神天皇や仁徳天皇を指すのではないかと考える人も多いです。
応神天皇は記紀では仲哀天皇と神功皇后の子で実在したと考える人も多いと言えます。
仁徳天皇に関しては古代日本の聖王として名高く大阪平野を大発展させた話が残っています。
古墳時代の中でも応神天皇陵と仁徳天皇陵は古墳の大きさで1,2を占めている状態です。
倭王讃の「讃」の文字が仁徳天皇の名前である「オオサザキ」の音読みで「サザキ」と読み、倭王讃は仁徳天皇だとも考えられています。
それに対し応神天皇の名は「ホムタワケ」であり、讃の文字を訓読みで「ホムタ」とする説もあります。
他にも、記紀の系譜で考えて、倭王讃を履中天皇ではないかとする説も存在します。
倭王讃は応神天皇、仁徳天皇、履中天皇のいずれかとするのが大半の説です。
倭王武は雄略天皇なのか
倭の五王の中で雄略天皇を倭王武だと考える人は極めて多いです。
倭王武ですが、雄略天皇の名が「大泊瀬幼武(オオハツセワカタケル)」であり、さらに名前の最後に「武」が付いている事から倭王武が雄略天皇だと考えられています。
倭王武を雄略天皇に比定するにあたり「武」の文字を「タケル」と読んだりするわけですが、武の文字をタケルと読むのは訓読みであり、当時の日本に訓読みが存在していたのかは分からない部分もあります。
さらに、埼玉県から出土した稲荷山古墳出土鉄剣には「獲加多支鹵大王」の文字が刻まれていました。
獲加多支鹵大王はワカタケル大王と読む事が出来ますが、タケルの部分が「武」ではなく「多支鹵(タケル)」となっている事が分かるはずです。
日本書紀では幼武で「ワカタケル」ですが、古事記では「若建(ワカタケル」となっており「武」の名前は使われてはいません。
倭王武が雄略天皇だとする説は多くの人が支持しますが、欠点もない様な完璧な説でもないという事です。
尚、倭王武が雄略天皇だとするのを起点とし、兄の倭王興が安康天皇、父親の倭王済が允恭天皇とする説を支持する人も多いと言えるでしょう。
倭王興と安康天皇の「コウ」の文字が一致する事から、支持されたりもする説です。
ただし、安康天皇の名は穴穂(アナホ)となっており、興とはどうやっても読めないとする問題点もあります。
それに対し、安康天皇の名は穴穂ではないとする説もあります。
安康天皇は穴穂宮を本拠地としており、穴穂は安康天皇の名前ではなく地名とする説もあるという事です。
系譜の欠点
倭の五王を比定するに辺り、音読み、訓読み、文字が似ているなどを考慮し話を進めるよりも、系譜が一番信頼できると考える人も多いのではないでしょうか。
しかし、系譜で倭の五王を特定する方法に関しても問題がないわけではありません。
倭の五王の系譜に関しては、倭国からやってきた使者に対し、南朝の宋が聞き取りを行い、それを元に記述したと考えられています。
宋側が倭の五王の系図に関して改編を行ったとしてもメリットはないとも考えられ、倭の使節団から聞いた話をそのまま書き示したとされているわけです。
日本書紀を見ると初代の神武天皇から第41代の持統天皇まで男系で脈々と受け継がれていた事になっています。
ただし、初代天皇である神武天皇から持統天皇までの系譜が全て歴史的な事実なのか?と考えると、必ずしも言い切れない部分があります。
神武天皇と崇神天皇が「ハツクニシラススメラミコト」と呼ばれており意味は「初めて国を治めた」という意味でもあります。
これを見ると初代天皇は神武天皇だけではなく、崇神天皇も初代になるわけであり、初代天皇が二人いる事になってしまいます。
さらに、欠史八代は欧州のハプスブルク家の様に婚姻により勢力を拡大させた説もありますが、不明な点も多いと言えるでしょう。
特に古代日本において成務天皇の後継者が日本武尊の子である仲哀天皇になった事を除けば、親子相続で継承されているわけです。
神武天皇の時代は神代文字があったとも言われていますが、漢字が導入する前には、日本には文字が無かったともされています。
文字が無かった時代において、系譜は口伝となるわけですが、どれ程に遡る事が出来るのかという問題があります。
口伝で何処まで遡る事が出来るのか
アフリカには無文字社会があり、部族長の継承が、何処まで詳細に分かっているのかを文化人類学者の川田順造が調査を行った話があります。
アフリカ部族の部族長の継承に関しては、事績や系譜的な位置が詳しいのは、傍系継承であり直系継承では名前と継承順位くらいしか分からない事が多かったわけです。
さらに、系統が異なる部族長が誕生すると、新部族長の先祖が首長系譜に組み込まれる例も存在しました。
傍系継承やインパクトがある逸話が存在する人物は人々の記憶に残りやすく、アフリカの無文字社会は興味深い結果だったとも言えるでしょう。
倭の五王と日本の天皇を比定する場合に、履中天皇から反正天皇、允恭天皇は傍系での継承あり、安康天皇と雄略天皇も傍系継承です。
アフリカの無文字社会で考えれば傍系継承は記憶に残りやすいとも言えるでしょう。
神武東征が実際にあったとすればインパクトがある記憶として人々の心に刻まれますし、綏靖天皇とタギシミミの皇位継承争いなども人々の心には残りやすいと言えます。
帝紀の系譜は正しいのか
記紀の系譜の元になっているのが、欽明天皇の時代に作成された帝紀だとされています。
帝紀は現存していませんが、名前、子供、在位年数、本拠地とした場所などが記載されていたと考えられています。
ここで注目したいのは、先祖の名前が何処まで正確に分かっているのかという問題です。
欽明天皇は越前からやってきた継体天皇の子です。
父親の継体天皇は武烈天皇が崩御した時に後継者がいなかった事で、男系皇統を維持する為に応神天皇の代まで遡り天皇として即位しました。
欽明天皇は父親の継体天皇は勿論知っていましたし、祖父位であれば聞いていた事でしょう。
欽明天皇の曽祖父は大郎子という名前であり「若君」くらいの名前でしかありません。
それを考えると、天皇などは別としても、口伝として記憶に残るのは曽祖父くらいまでと考えた方がよいのかも知れません。
倭王武が雄略天皇だとしても、雄略天皇死後に倭国内で混乱があったとも見受けられ、皇位継承の複雑さなどから上手く伝わらない可能性もあったはずです。
武烈天皇の暴虐ぶりに関しては多くの専門家が創作だと考えています。
こうした事情もあり、記紀の系譜の混乱が見受けられ、倭の五王と天皇家の間を埋める事が出来ない原因ともされています。
結局のところ倭の五王が誰を指すのかに関しては、様々な事が言われており特定が困難になっています。
ただし、下記の図の様に考える人は極めて多いです。
倭王讃が応神天皇、仁徳天皇、履中天皇の誰かを指し、倭王珍が反正天皇、倭王済が允恭天皇、倭王興味が安康天皇、倭王武が雄略天皇を指す事が多いと言えるでしょう。
尚、倭王武は502年に梁から征伐大将軍に任命されていますが、この時には雄略天皇は既に崩御しており、時代的に考えて武烈天皇だったのではないかとも考えられています。
倭王武が南斉への朝貢を中止してしまった事で、梁では倭王武が亡くなった事も通達されず、倭王武を征東大将軍にしたのでしょう。
倭の五王の特定動画
倭の五王が誰なのかを述べたゆっくり解説動画となります。
本文をベースに作成してあります。
倭の五王時代はなぜ終焉したのか
倭国が朝貢を止める
中国側の宋書倭国伝を見ると、478年の倭王武の上表文を最後に倭国の記述が終わっている事が分かります。
この頃の宋の順帝はお飾りであり、実権は蕭道成が握っており、宋の国運は風前の灯だったわけです。
479年に蕭道成が禅譲により、南斉を建国し宋は滅亡しました。
479年に南斉が倭王武を鎮東大将軍に昇進させた話もありますが、南斉が勝手に進号させた話もあれば、諸番職貢図巻に従い倭王武が南斉へ朝貢したとする説もあります。
しかし、478年もしくは479年を最後に倭国は宋の冊封関係から抜けるが如く、朝貢を止めてしまったとする見方が有力です。
南斉は短期間で滅亡し、一族の蕭衍が梁の皇帝に即位すると、502年に倭王武を征東大将軍とし昇進させていますが、これも梁側が勝手に任命したと考えられています。
既にこの頃には倭国は中華王朝への朝貢を取りやめていたわけです。
宋が山東半島を北魏に奪われる
宋が山東半島を北魏に奪われた事で、倭国は朝貢を取りやめたとする説があります。
469年に南宋は北魏に山東半島を奪われてしまいました。
倭の五王たちは百済に道を借りて山東半島から宋へ朝貢していましたが、山東半島が北魏の手に落ちれば朝貢が行いにくくなる事実があります。
山東半島が北魏が領有する様になった469年以降で考えれば、実際に倭国や百済が宋へ朝貢する回数は減っています。
しかし、倭国はそれ以降も倭王武が上表文を以って朝貢を行うなどしており、山東半島が北魏が領有した事は理由にはならないと考える専門家もいる状態です。
ただし、北魏に山東半島を奪われれば高句麗、百済、倭国は宋、南斉、梁、陳などの南朝への遣使を行うのに難易度が上がった事は間違いないでしょう。
南斉や梁の家柄を気にした説
479年に宋が滅び南斉、梁、陳と短期の王朝が続きました。
最終的には北方を平定した隋が陳を589年に滅ぼし天下統一しています。
南斉の初代皇帝である蕭道成は軍人であり、名門出身の貴族ではありませんでした。
さらに、南斉と梁は同族間での王朝の移行でしかなく、陳の初代皇帝である陳覇先も軍人出身です。
倭国側が南斉、梁、陳と王朝が名門ではない事を理由に、遣使しなくなったとする説もあります。
しかし、倭国が朝貢を行った宋も初代皇帝の劉裕は貧しい家の出身であり、名門ではありません。
劉裕は家柄ではなく己の軍事能力を頼りに皇帝まで昇りました。
それを考えると倭国が名門でない事を理由に南斉、梁、陳に朝貢を行わなかった理由としては薄いと言わざるを得ないでしょう。
尚、宋は東晋からの禅譲により皇帝を名乗りましたが、東晋は西晋の後裔の国でもあり、西晋の基礎を作った司馬懿は三国志でも有数の名士出身でもあります。
倭国の天下が誕生した
倭の五王時代の倭国と宋の関係を見ると、宋の天下に倭国が組み込まれている事になります。
倭の五王たちは宋の皇帝に忠誠を誓い安東将軍や倭国王などに冊封されているわけです。
しかし、稲荷山古墳出土鉄剣や江田船山大刀銘には「天下」の文字が入っており、倭国が独自の天下を形成しようとしていた事が分かります。
倭国が天下の文字を使用している事から、倭国の権力が成熟し中国との冊封関係から離脱しようとしたとも考えられるわけです。
実際に倭の五王らも宋に忠誠を誓ったのは、宋の権威を背景に国内を纏めたり朝鮮半島での戦いを優位に進めたかったのが現状でしょう。
倭国内の権力が確立した事で中華王朝からの冊封関係から離脱した説もあるという事です。
ただし、倭国が朝貢を止めても百済や高句麗は南斉や北魏に朝貢を行っており、冊封関係を維持し続けています。
倭の五王たちが宋に遣使したのは、倭国王や将軍号の官爵の授与であり、配下の者達にも将軍号を与える事で、倭王の王権強化に繋げてきた事は間違いないでしょう。
それでも、倭国内に何かしらの変化があり、朝貢を取りやめて倭の五王の時代は終焉に向かったと言えるでしょう。
倭の主君は宋だけだった
倭の五王以降に中華の南朝へ朝貢しなくなったのは、宋の滅亡と関係しているとする説があります。
倭王讃が出来たばかりの宋に朝貢を行い、倭の五王は一貫して宋から冊封を受けています。
冊封関係になるという事は当然ながら、宋と君臣関係を結んだ事になります。
倭の五王たちは宋の皇帝の下で安東将軍や六国諸軍事に任命されました。
百済も宋とは冊封関係になっており、倭国と百済は宋の臣下同士だった事にもなります。
倭国と百済は戦争を行った記録がありませんが、宋からの冊封という国際的なルールに則り協力したとも考えられているわけです。
朝鮮半島の東部に位置する新羅は宋への朝貢を行っていないわけであり、倭国が新羅を攻撃対象にしたとみる事が出来ます。
475年に百済が一時的に滅亡し、宋も479年に滅亡した事を考えれば、倭国も朝鮮や中国の状況に対応する必要に迫られた可能性は十分にあります。
479年に倭国は南斉に一度は遣使しましたが、朝貢する価値はないと考え朝貢を止めた可能性もあるのかも知れません。
倭国の主はあくまでも宋だと考えれば、南斉は何処か違うと思ったの可能性もあるはずです。
倭国が一度だけ遣使した話では、邪馬台国を例に取る事も出来ます。
卑弥呼の時代には、何度か邪馬台国は三国志の魏に朝貢しましたが、魏が西晋に代わると倭の女王(台与だと思われる)は一度しか朝貢を行った記録がありません。
西晋が誕生したのは265年であり、266年に倭国は朝貢しており、台与は様子見で西晋に朝貢し、価値を感じずに朝貢を止めてしまった可能性も残ってはいるでしょう。
南斉を建国した蕭道成は、倭王武が朝貢を行った時は驃騎将軍であり、倭王武よりも将軍位では格上だったものの同じく宋の皇帝の配下であり、認めがたいものがあったのではないかとも考えられます。
倭国が蕭道成にどれ程の対抗意識があったのかは不明ですが、何かしらの感情的なものがあり、南斉や梁、陳への朝貢をしなかった可能性は残っているという事です。
倭の五王時代後の世界
百済の東城王の即位
先に述べた様に倭王武の479年の朝貢を以って、倭の五王時代は終焉したと考えられています。
しかし、479年は重要な年でもありました。
百済では479年に三斤王が亡くなり、日本国内にいた末多が五百の兵と共に帰還し百済の東城王になっています。
日本書紀では雄略天皇の時代の事として記録が残っている状態です。
倭国にいた末多が百済王になるのは、日本側にとっても好都合だったのでしょう。
479年に宋が禅譲により滅亡し南斉が勃興すると、倭王武は鎮東大将軍となり高句麗も昇進し、百済だけは480年に鎮東大将軍に任ぜられ倭国と肩を並べました。
この時点で倭国と百済は同列として並んだ事になります。
倭国は南斉により将軍号をランクアップされはしましたが、この後に倭国が南斉に朝貢した記録がなく、疎遠になって行った事も先に述べた通りです。
倭国は南斉を重視しませんでした。
加羅国の遣使
479年に着目すると、加羅国の王が南斉に朝貢した記録があります。
伽耶地域の盟主が南斉に遣使した事になるのでしょう。
479年の伽耶の朝貢は、諸番職貢図巻の話と合わせると、倭国と一緒に朝貢を行った可能性も出て来るはずです。
しかし、加羅や伽耶が朝貢したと言うのは、479年だけであり、次の遣使が行われた記録はありません。
伽耶は後に百済や新羅によって蚕食されてしまう事になります。
伽耶は百済や新羅の様に国家として発展していく事はありませんでした。
倭国の朝鮮半島への介入
朝鮮半島の情勢を見ると、高句麗は475年に百済の首都の漢城を落す大戦果を挙げ、次にターゲットにしたのが新羅でした。
5世紀後半になると、高句麗は何度も新羅を攻撃しているわけです。
新羅が滅びれば百済に危機が迫るのは明白だった事で、百済は新羅に援軍を派遣したり、婚姻関係を結ぶなどもしています。
強国の高句麗に対し百済と新羅は合従の同盟で対抗しようとしたのでしょう。
しかし、倭国の方でも480年代に2度ほど新羅を攻撃しています。
倭王武が最期の朝貢を行った後に、倭国は新羅を攻撃しました。
倭国は百済とは友好国だったはずですが、百済の同盟国である新羅を倭国は攻撃したわけです。
倭国が百済の同盟国である新羅を攻撃した理由ですが、倭国としては百済と新羅が仲良くする事は望ましくなかったからだとも考えられています。
倭国にとってみれば対高句麗戦線で百済、新羅、伽耶諸国の盟主として倭国が君臨するのが望ましかったはずです。
倭国としては百済の東城王は親倭国派だと考え、親新羅派を封じ込む事が出来ると考えた可能性もあります。
東城王は日本側が500の兵で百済に贈り届けたわけであり、東城王は親倭国派だと見る事が出きるからです。
倭国は百済と新羅の同盟を妨害しようと考えて、新羅を攻撃した可能性も残っています。
倭国は朝鮮半島では一貫して新羅を攻め続けました。
倭国の新羅攻撃は豪族が独自に行ったのか
倭国が百済を攻撃した一つの説として、当時の倭国では豪族たちが、それぞれの軍を指揮していたとも考えられています。
倭国の新羅攻撃は、豪族が勝手に兵を出し新羅を攻撃したとする説もあるという事です。
顕宗天皇の時代に紀生磐なる人物が三韓の王になろうと考えて、伽耶で自立した話が残っています。
紀生磐の乱は最初は好調だった様で日本書記には「向かうところ敵なしだった」や「1で100の敵を討った」などの話が残っています。
しかし、紀生磐は結局は百済に敗れて敗北し乱は鎮圧されました。
顕宗天皇の時代に勝手に三韓の王になろうとするような人物が出現する辺りは、倭国が一枚岩ではなかった証明になるともされています。
顕宗天皇は倭王武とされる雄略天皇の二代後の天皇であり、倭国内が安定性に欠ける状態を表しているとも考えられるはずです。
雄略天皇が崩御した後は、倭国内でも混乱があったとする見解もあります。
490年代の朝鮮半島の情勢
490年には北魏が百済を攻撃した記録が残っています。
北魏が百済を攻めるには、海を渡る必要があり、百済と北魏が戦争をするイメージがない人も多いかと感じています。
490年の戦いで百済軍は北魏軍を撃退し、495年に百済は南斉へ遣使を行い北魏の軍を破った事を報告しています。
倭国が朝貢を取りやめた後も百済は朝貢を続け冊封関係を続ける事になります。
百済は朝鮮の国だけあり、中華の南朝への朝貢は継続していました。
491年には高句麗の長寿王が遂に亡くなりました。
高句麗の広開土王が亡くなってから、78年間も高句麗王だった長寿王も遂に亡くなったわけです。
長寿王の後継者となったのが文咨明王ですが、長寿王の対外政策を継承し百済や新羅に出兵したりしています。
文咨明王は長寿王の政策を継承しました。
存在感を無くす倭国
490年代になると倭国は影が薄くなり朝鮮半島は高句麗対百済・新羅という形となっていました。
雄略天皇が亡くなり倭国に混乱があり、朝鮮半島に介入する事が出来なくなった可能性もあります。
尚、雄略天皇の死に関しても古事記だと489年で、日本書紀だと479年となっており、10年の開きが出ている状態です。
雄略天皇が崩御すると清寧天皇、顕宗天皇、仁賢天皇、武烈天皇と続く事になりますが、清寧天皇の時代には南朝への遣使は完全に中止しており、朝鮮半島への影響力も減らしたと考えられています。
清寧天皇は倭の五王の政策を継承しませんでした。
倭国が海外への影響力を減らしている事から、倭国内で何かあったのではないかとも考えられています。
雄略天皇が死んで何かしらの混乱があったとみる事も出来るはずです。
もしくは朝鮮半島への侵略を止める政策に転換した可能性もあるでしょう。
清寧天皇などは生まれつき髪の毛が白髪だった話もあり、健康面で不安があった可能性もあります。
雄略天皇死後の政治的な混乱で考えれば、雄略天皇が多くの皇子を殺害してしまった事で、皇族の力が激減していたとも考えられるはずです。
武烈天皇の時代には男系皇統の維持が出来なくなり、継体天皇の即位に繋がりました。
尚、502年に梁が倭王武を征東大将軍にした話がありますが、502年の段階では雄略天皇は崩御しており、502年の倭王武は武烈天皇を指すとする説もあります。
継体天皇の即位と大兄の誕生
武烈天皇が崩御した時に、男系の後継者がおらず大和王権の大臣達は相談し、越前にいた応神天皇五世の子孫である皇子が即位しました。
これが継体天皇です。
継体天皇は即位しても直ぐに大和の地に入らず、初期の頃は河内を本拠地としました。
継体天皇が直ぐに大和に入らなかったのは、大和の地に反継体天皇の勢力がおり、身の危険を感じて大和に入らなかった可能性はある様に感じています。
継体天皇も武烈天皇の姉と結婚するなど、大和への懐柔政策も行っている状態です。
継体天皇の方でも皇位継承権が不安定だという事を自覚していたのか、大兄という制度が誕生する事になりました。
大兄は同じ母親から生まれた王子たちの小集団の代表を大兄とし、王位継承者候補とする仕組みです。
こうした事情もあり、問題はありながらも皇室は継体天皇の子孫へと受け継がれて行く事になります。
倭の五王の時代では百舌鳥古墳群と古市古墳群の勢力が共存し、倭王を輩出していったとする説もありますが、継体天皇の即位で倭国は新たな局面を迎えたとも言えるでしょう。
こうした事情から古市古墳群の勢力も百舌鳥古墳群の勢力も倭王を出す事が出来なくなり、衰退していったんじゃないかとも考えられています。
継体天皇の即位により、倭の五王の時代は完全に終了を迎えたとも言えるでしょう。
継体天皇が即位した時点で複数の王統から最有力者が倭王として即位する仕組みではなく、近親の者が引き継ぐ世襲王朝としての色が濃くなりました。
継体天皇の時代までくれば、日本の暦も流石に1年を1年で計算する方式になっていますし、継体天皇が存在しなかったと考える人はかなり少数だと言えます。
武烈天皇が日本書記で殷の紂王の様な暴虐な人物として描かれたのは、継体天皇を引き立たせる為だとも考えられています。
しかし、残念ながら継体天皇の御世は百済に朝鮮半島の領地を割譲したり、磐井に乱を起こされたりとパッとしません。
ただし、継体天皇は武烈天皇の姉と結婚している事から、継体天皇の即位は倭王権の統合とする見方も出来るはずです。
女系ではありますが、仁徳天皇の血統も残りました。
それでも、朝鮮半島に関する記述も少なくなる事から、倭王武が朝貢をやめた時期から継体天皇の即位までは倭国内の混乱があったとみる事も出来ます。
隋が南北朝時代を終わらせ中国の主となると倭国では聖徳太子が小野妹子を遣隋使として派遣したりしていますが、「日出処の天子」の文言で分かる様に、日本が下手に出る様な事はありませんでした。
日本側の態度に煬帝が激怒した話も伝わっています。
倭の五王と聖徳太子の時代では使者の態度が明らかに違うとも言えるでしょう。