古代日本 古墳時代 天皇の治世

ワカタケル大王は鉄剣で有名な倭の支配者

2024年4月10日

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宮下悠史

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名前獲加多支鹵大王
読み方ワカタケルダイオウ
コメント雄略天皇、倭王武と同一人物だとされる

ワカタケル大王は稲荷山古墳出土鉄剣で一躍有名になりました。

獲加多支鹵大王も文字が読めないという方も多いのですが、読み方は「わかたけるだいおう」です。

ヲワケの臣が制作した稲荷山古墳出土鉄剣に獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)の名が刻まれていた事で注目される様になったわけです。

ワカタケル大王は通説としては第21代雄略天皇の事であり、倭の五王の最後の一人である倭王武の事ではないかと考えられています。

雄略天皇や倭王武とワカタケル大王が同一人物であれば、ワカタケル大王が何をした人かと言えば、中国の南朝の宋に朝貢を行ったり、日本の国を整備するなどの実績があります。

ただし、雄略天皇には暴君としての姿も見せており、同一人物であればワカタケルも暴君としての一面を見せた君主という事になるでしょう。

尚、ワカタケル大王の名が日本武尊(ヤマトタケル)の名前は似ていますが、ヤマトタケルは第12代景行天皇の時代の人であり、明らかに別人となります。

ワカタケル大王が雄略天皇だと言われる理由

稲荷山古墳出土鉄剣にはワカタケル大王の名前が書かれていましたが、ワカタケル大王が誰なのかという問題があります。

現時点で通説となり最有力となっているのが、ワカタケル大王が雄略天皇だとする説です。

稲荷山古墳出土鉄剣が製造されたのは、471年とする説が有力であり、日本書紀を見ると雄略天皇の御世が457年から479年となり年代的にも重なる事になります。

ただし、日本側の暦は春秋歴を使っている話もあり、実際には雄略天皇の御世がもう少し後ろ倒しになる可能性もあります。

日本書紀では雄略天皇の名が大泊瀬幼武(おおはつせわかたける)であり、古事記では大長谷若建(おおはつせわかたける)の名前が見える事で「ワカタケル」の文字が重なる事で雄略天皇だと考えられているわけです。

因みに、過去にワカタケル大王は大和王権の天皇を指すのではなく、東国の地方政権の王を指すとする説もありました。

しかし、熊本県の江田船山古墳からの出土品である銀錯銘大刀に「獲□□□鹵大王(ワカタケル大王)」となるのではないかとする記述があった事で、現在ではワカタケル大王は雄略天皇を指すとする説が強いです。

ワカタケル大王の本拠地

稲荷山古墳出土鉄剣を見るとワカタケル大王が斯鬼宮を本拠地とした事が書かれています。

斯鬼宮が何処かというのが問題となります。

先ほど雄略天皇とワカタケル大王が同一人物の可能性が高いと言いましたが、古事記では雄略天皇は長谷の朝倉宮で天下を統治したとありますが、長谷の朝倉宮が何処だったのかはっきりとしません。

しかし、一説によると大和盆地にある磯城の事ではないかとされているわけです。

尚、ワカタケル大王が東国の王だと考えた場合は、栃木県の大前神社に磯城宮の名前が存在し、ここがワカタケル大王の本拠地だとする説もあります。

現時点ではワカタケル大王が都とした場所は大和の磯城を支持する人の方が多いようです。

ワカタケル大王の治天下

稲荷山古墳出土鉄剣に刻まれた文字を見ると「天下を佐治」という言葉が見え、ワカタケル大王が天下人の様な書き方をしています。

船山大刀銘では「台天下獲□□□鹵大王」とする言葉があり、台(治)天下ワカタケル大王だとされているわけです。

倭の五王の倭王武(雄略天皇)は中国の南朝の宋から安東大将軍倭国王に冊封されており、宋の配下という体裁になっており、天下を治めるとは言えません。

しかし、倭王武が中華王朝への朝貢を取りやめたのは、大和王権の権勢が倭国内で上昇し、中華王朝の後ろ盾が必要なくなったとみる事も出来ます。

さらに、日本書紀には雄略天皇の時代に吉備氏や葛城氏が没落したとも考えられ、地方の古墳は縮小に向かっている事から、地方豪族の力が弱まり大和王権の力が強くなった結果だとも考えられています。

ワカタケル大王の時代には南朝の宋の権威を背景に国内を纏める必要が無くなったからだとも言えるでしょう。

478年に南朝の宋に提出された倭王武の上表文の中で東の毛人や西の衆夷などを討った話があります。

大和王権は近畿を本拠地としており、東の毛人や西の衆夷は日本列島内にいる異民族と見ていた節もあります。

こうした日本列島にいる異民族や海を渡った先にいる朝鮮半島の国々を征服するなど、国威は盛んになったとみる事も出来るはずです。

ワカタケル大王の時代には、倭国内で大和王権は絶大なる権力を得たとみる事も出来ます。

倭王武の上表文が提出された478年から遣隋使の派遣までの100年以上もの期間で、倭国は中華王朝への朝貢を取りやめています。

他にも、475年に百済が一時的に滅亡し倭国の協力の元で復興した話もあり、倭国が百済、新羅の対高句麗同盟の盟主となり、ワカタケル大王の権勢が上がったとも見て取れるはずです。

結果として倭国は独立色が強くなり「治天下」の名前が登場したとも言えるでしょう。

尚、ワカタケル大王の治天下というのは、全世界を指すのではなく当時の大和王権の支配地域を指すと考えられています。

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