その他 春秋戦国時代

蔿章(いしょう)は楚の外交官として活躍した

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宮下悠史

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名前蔿章(いしょう)
生没年不明
一族父:蚡冒 子:蔿呂臣
コメント外交官として他国に赴いた

蔿章は楚の蚡冒の子で、楚の武王に仕えた人物です。

楚の武王は蚡冒の子を殺害し即位しましたが、蔿章は外交官として仕える事になります。

楚の武王が随と戦えば、蔿章は随国や黄国への使者となり、の間で問題が起きれば、薳章が使者となり鄧に向かいました。

蔿章を楚の武王は便利がって使っている様に見えなくもないですが、蔿章は楚の重臣としての役目を果たしたと言えるでしょう。

因みに、蔿章の子が蔿呂臣となります。

楚の武王を主君と仰ぐ

楚の武王は兄の蚡冒が亡くなると、蚡冒の太子を殺害して即位したとあります。

蔿章は蚡冒の子であり、普通で考えれば兄弟を殺害されたわけであり、の武王とは対立してもよさそうですが、何故か重用される事になります。

蔿章は何らかの理由で、叔父の楚の武王を支持していたと考えられています。

楚の武王の時代の楚の重要な臣下の一人として、蔿章の名が挙がる事になります。

外交官として活躍

紀元前706年に楚の武王は随に進軍しました。

楚の武王は随に使者を派遣し和議を求めますが、この時に使者になったのが蔿章です。

春秋左氏伝では楚の闘伯比や随の季梁の賢さばかりが目立ちますが、蔿章も重要な役目を担ったと言えるでしょう。

紀元前704年に楚の武王は沈鹿に諸侯を集めますが、随と黄が招集に応じなかったわけです。

の武王は蔿章を黄に派遣し責めさせ、楚の武王は自ら随に向かって出陣しました。

ここでも蔿章は黄国との交渉を行ったはずであり、重要な役目を与えられたとみる事が出来ます。

紀元前703年に楚の武王は、巴国の韓服と共に楚の道朔をに派遣しました。

楚の武王は巴国と鄧国の仲介を行ったわけですが、鄧の南にある鄾の人々は楚と巴の使者を殺害しています。

この時に楚の武王は蔿章を鄧に派遣し、問責を行わせたとあります。

ただし、鄧の人々は蔿章の言葉に取り合わなかったようであり、楚は巴と共に鄾を攻撃し破りました。

鄧への問責の使者になったのが、蔿章の最後の記録であり、これ以降は史書にも登場しません。

蔿章が活躍した時期は、数年しかありませんでした。

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