古代日本 天皇の治世

香坂王は赤い猪により最後を迎えた

2023年8月13日

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宮下悠史

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名前香坂王(かごさかのみこ)
別名麛坂王
登場古事記、日本書紀
両親父親:仲哀天皇 母親:大中姫

香坂王は日本書紀や古事記に登場する人物で、古事記では麛坂王の名前で記載されています。

麛坂皇子と表記される事もある状態です。

香坂王は仲哀天皇の子であり、彦人大兄命の娘である大中姫の子でもあります。

熊襲が叛いた時に仲哀天皇が九州に出向きますが、神の怒りにより崩御しました。

ここで神功皇后や武内宿禰らがまだ生まれていなかった応神天皇を後継者に決めました。

神功皇后は新羅遠征から帰国すると、応神天皇を生み香坂王や忍熊王らと対立します。

香坂王と忍熊王は神意を占いますが、ここで突如として赤い猪が現れ香坂王を攻撃しました。

香坂王は猪に食べられてしまい無念の最後を迎える事になります。

今回は仲哀天皇の子である香坂王を解説します。

仲哀天皇の後継者

仲哀天皇は熊襲討伐に向かいますが、神の言葉に従わず突如として崩御しました。

仲哀天皇が突然死だった事で、後継者も定められておらず、神功皇后のお腹の中の子(応神天皇)が次期天皇となります。

これらは神功皇后や武内宿禰らが秘匿にした事で、香坂王や忍熊王は知る由も無かったのでしょう。

神功皇后は新羅遠征を終えると都がある近畿に戻ろうとしますが、ここで香坂王や忍熊王は仲哀天皇の死と神功皇后の新羅討伐を耳にする事になります。

香坂王と忍熊王は相談し、次の様に述べました。

※日本書紀より

皇后には子があり群臣らは皆が従っている。

きっと謀を立てて幼い王を擁立するだろう。

我らは兄であるのに、どうして弟に従う事が出来ようか。

香坂王と忍熊王は神功皇后の子である応神天皇の即位に不満だったわけです。

これは当然と言えば当然であり、仲哀天皇が崩御した時点で応神天皇は生まれてはおらず、応神天皇が仲哀天皇の本当に子なのか?と疑う人が出てもおかしくはないでしょう。

実際に香坂王や忍熊王が疑うのは、ある意味、当然とも言えます。

日本書紀での神功皇后の話で現実離れした話が多いのは、神功皇后や応神天皇の正統性を担保する為のものだとも考えられるはずです。

迎撃の準備

香坂王と忍熊王は天皇の為に陵を造営すると称し、播磨に向かいました。

香坂王らは播磨の明石に陵を造営するとは言い船団を用意し、淡路島に行き石を運びました。

香坂王や忍熊王は淡路島で武装し、神功皇后と雌雄を決するつもりだったわけです。

この時に犬上君の先祖である倉見別(くらみわけ)と吉師(きし)の先祖である五十狭茅宿禰が香坂王らに味方しました。

香坂王の最後

香坂王と忍熊王は菟餓野に行き神意を占う事にし、次の様に述べました。

※日本書紀より

事が成就するのであれば、きった良い獲物が獲れる事になるであろう。

香坂王と忍熊王は占いによって事の成就を見定めようとしますが、ここで赤い猪が現れる事になります。

さらに、赤い猪は香坂王を食い殺してしまったわけです。

これにより香坂王は最後を迎えました。

尚、香坂王が亡くなった事で忍熊王は戦意を無くしてもよさそうなものですが、神功皇后と戦い敗れ命を落としています。

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