名前 | 鄶(かい) |
時代 | 西周王朝ー周の東遷期 |
鄶は西周時代の諸侯の一つです。
鄶は河南省新密市の東北にあったと考えられています。
西周王朝の末期に周の幽王と申侯の対立があり、西周王朝は危機的な状況にありました。
こうした中で周の太史の伯陽は鄭の桓公に鄶や東虢などに民を預ける様に進言しました。
鄭の桓公は伯陽の進言に従い鄶や東虢に民や財産を預けています。
西周王朝が崩壊すると、鄶や東虢は鄭の桓公の財産を奪ってしまいますが、鄭の桓公が偽りの連判状を作り、鄶を混乱させ滅ぼしています。
今回は春秋戦国時代に早々と滅亡してしまった鄶を解説します。
因みに、鄶は769年に滅んだとも考えられており、春秋戦国時代の数多くある国の中で最初に滅んだ国ではないかともされています。
鄶は周の平王が洛陽に移る周の東遷よりも前に滅んだと言えるでしょう。
貪欲な鄶仲
鄭の桓公は周の幽王が褒姒を皇后・太子を伯服とし、申后と太子の宜臼を廃した事で危機感を抱きました。
鄭の桓公が伯陽に相談すると、鄶や東虢などに財産を預ける様に進言しています。
この時に伯陽が鄶の君主である鄶仲を次の様に評しました。
※国語 鄭語より
鄶仲は険阻な地形を頼りとし、驕侈怠慢であり貪欲です。
伯陽は鄶仲の性格を問題視している事が分かります。
しかし、伯陽にとってみれば鄶仲が傲慢であるが故に、与しやすい相手だとも考えたのでしょう。
鄭の桓公は鄶仲と虢叔らに民と財産を預けたいと願い出ると、鄶仲らは喜んで申し出を受け、さらには土地の一部を鄭の桓公に献上しました。
この時の鄭の桓公は西周王朝の司徒になっており、鄭の桓公に恩を売っておければ、何かしらの利益が得られると考えたのでしょう。
鄶仲は割譲した土地に、鄭の桓公の民や財産を置いたのかも知れません。
鄶の滅亡
韓非子の『内儲説篇 下 六微』に鄭の桓公が鄶を滅ぼす内容が書かれています。
韓非子によると鄭の桓公は鄶を襲撃しようと考えたと書かれています。
西周王朝の滅亡の前後で鄭の桓公は成周(洛陽)におり、預けて置いた財産を奪った鄶を予定通りに攻撃する手はずとなっていたのでしょう。
この時点で鄭の桓公は成周の軍隊を抑えていたはずであり、兵力で言えば鄶を圧倒していたはずです。
ただし、国語の伯陽の言葉で「鄶仲は険阻な地形を頼み~」の言葉にある様に、鄶は守りに適した地形だったのでしょう。
鄭の桓公は鄶を滅ぼすのに直線的に攻撃しようとせず、策を使う事にしました。
鄭の桓公は鄶の豪傑、良臣、智謀の士、武勇の士を調べ上げ、姓名を記して「良田を贈ると書き官爵の名前も入れて」偽の連判状を作成したわけです。
鄭の桓公は鄶の城門の外に偽の祭壇まで作り、連判状を埋めました。
この連判状を鄶の君主が発見してしまう事になります。
韓非子によると鄶の君主は臣下が謀叛を起こすと考え、連判状に名前があった者は全て殺害したとあります。
鄶の役に立つ優れた臣下がいなくなった所で、鄭の桓公は鄶を攻撃し、難なく攻め滅ぼしました。
鄶は鄭の桓公に計略に引っ掛かり、滅亡したと言えるでしょう。
韓非子には鄶の君主の名前がなく国語で言う所の鄶仲だったのかは不明です。
鄶仲が何年頃まで生きていたのかは記録がなく分かっていません。
尚、韓非子での鄶の話は『内儲説篇 下 六微』の「廃置」の所に記載があり「偽の連判状により鄶には豪傑が一人もいなくなった」と書かれています。
韓非子は鄶の滅亡を君主がよく臣下を見極めていないと、敵の謀略により優れた臣下を罷免してしまったり、佞臣を登用する事になると述べているわけです。
鄶の滅亡は君主が臣下を見る目が無かった事が原因と韓非子は述べている事になるでしょう。
因みに、史記では西周王朝の崩壊時に鄭の桓公も亡くなり、鄭の武公が鄶を滅ぼした事になっています。
しかし、実際には韓非子の記述にもある様に、鄶を滅ぼしたのは鄭の桓公でしょう。