古代オリエント

カルカルの戦いはオリエント版の合従軍が結成された戦い

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宮下悠史

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カルカルの戦い紀元前853年
勢力アッシリア反アッシリア同盟
総大将シャルマネセル3世アダド・イドリ
兵力、損害、勝敗不明不明

カルカルの戦いはアッシリアと反アッシリアの間で起きた戦いです。

アッシュル・ナツィルパル2世の後継者となったシャルマネセル3世の時代になっても、アッシリアは勢力拡大を続けました。

アッシリアに対しダマスクスを中心に反アッシリア同盟が結成された事で、カルカルの戦いが勃発しました。

カルカルの戦いに関しては、アッシリア側の記録ではアッシリアが勝利した事になっていますが、実際にはカルカルの戦いは「引き分け」とも「同盟軍の勝利」とも言われています。

それでも、カルカルの戦いは古代オリエントの一大決戦であった事は間違いないでしょう。

「反アッシリア連合軍(合従同盟)」の結成

​破竹の勢いで急拡大を続けるアッシリアに対し、危機感を募らせた周辺の小諸侯国や大国は、ただ手をこまねいていたわけではありませんでした。

国家の存亡をかけた凄まじいリスクに対し、彼らは歴史上初となる大規模な軍事同盟、いわば古代オリエント版の「合従の同盟」を結成して対抗を試みたのです。

これが決起となり、カルカルの戦いに向かう事になります。

​この「反アッシリア同盟軍」の最高指導者(盟主)として打倒アッシリアを宣言し、諸国へ団結を呼びかけたのが、ダマスクス(アラム人国家)の王「アダド・イドリ」でした。

(図は古代オリエント全史(中公新書)からの引用)

アッシリアの公式記録に遺された同盟軍の軍勢の内訳からは、民族や国境を越えた多国籍な総力戦の実態が浮かび上がってきます。

​ダマスクス(アダド・イドリ):同盟軍の中核となるアラム人の軍勢であり、最大の兵力を投入しました。

​イスラエル王国(アハブ王):旧約聖書においては批判的に描かれることの多いアハブ王ですが、国防においては強力な軍事力を保有しており、同盟軍の中で最多となる「戦車2000両」および歩兵1万人という主力を率いて参戦します。

その圧倒的な機動力には、同盟全体の極めて大きな期待が寄せられていました。

​多民族の連合:フェニキア人の都市国家であるビブロスや、さらにはるか南方の「エジプト」から派遣された軍勢など、多種多様な民族の利害関係がアッシリアという巨悪を前に一致し、結集していました。

ここからカルカルの戦いが勃発しますが、古代オリエントの一大決戦でもあったわけです。

「らくだ兵」の登場:歴史に刻まれたアラブ人の初記録

​カルカルの戦いの同盟軍の記録において、世界の歴史学・考古学上、最も重要な注目点として挙げられるのが、初めて「アラブ人」の存在が明確に文字史料として登場する点です。

​アッシリア側の粘土板(碑文)には、連合軍の一角として「アラブ人のギンディブ(Gindibu)王が、らくだに騎乗した1000人の兵士を率いて参戦した」という旨が明確に記録されています。

これは、世界史において「アラブ(Arab)」という名称およびその勢力が公式の外交・軍事の舞台に現れた、人類史上最初の確実な歴史的記録です。

後世、イスラム教の発祥と共に世界史を大きく塗り替える大発展を遂げるアラブ民族ですが、この紀元前9世紀の段階においては、強大なアッシリア帝国の戦車隊と比べれば、まだ砂漠の辺境における局地的な遊牧勢力に過ぎなかったことが、当時のパワーバランスからうかがえます。

オリエント最大の激突「カルカルの戦い」とその真相

​紀元前853年、シャルマネセル3世率いるアッシリア帝国軍と、アダド・イドリやアハブ王ら率いる反アッシリア連合軍は、シリア北部の要衝である都市カルカル(Qarqur)の平原において、当時のオリエント史上最大規模の大決戦、通称「カルカルの戦い」を迎えます。

総兵力においては、各国の混成部隊であった連合軍側の方がアッシリア軍を上回っていたと推測されています。

​この世界史的な大決戦の勝敗の結末については、史料の客観的検証において、今日でも議論が分かれています。

​アッシリア側の公式な戦勝碑文の記述においては、「アッシリア軍が連合軍を完膚なきまでに撃破し、カルカルの戦いに完全勝利を収めた」と大々的に喧伝されています。

しかし、古代の大半の帝国は「自軍が苦戦した、あるいは敗北した」という不名誉な記録を国家の歴史に一切残さないという情報管理を徹底していました。

​事実として、カルカルの戦いが終了した直後以降の時系列を検証すると、アッシリア軍はシリアの奥深くへ進軍することなく、軍を引き返しています。

さらに、その後も長年にわたってこの連合軍による強固な抵抗と防衛線が維持され続けたという状況から、現在の歴史研究においては、
「アッシリアは名目上は勝利した(あるいは引き分けた)ものの、実際には連合軍の猛烈な反撃に遭って軍のインフラに甚大な損害を被り、
実質的に西進を阻まれた(事実上の敗北、あるいは膠着状態であった)」とみなす見方が極めて有力です。

​このように、国家の公式記録が語る「大勝利」の裏には、小諸侯国が一致団結して大帝国の軍を一時的に決壊させたという、生々しい戦いの真実が隠されていたのです。

カルカルの戦いに関しても、今後の発見を期待したいと感じています。

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