古代オリエント

シャルマネセル3世は勢力拡大するも晩年は内乱に悩まされた

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宮下悠史

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名前シャルマネセル3世
生没年生年不明ー紀元前824年
在位紀元前859年ー紀元前824年
アッシリア
コメント勢力は拡大したが、晩年は内乱状態になった。

シャルマネセル3世は新アッシリアの時代のアッシリア王です。

シャルマネセル3世の治世のアッシリアは強く、ビート・アディニを完全に征服するなど西方への勢力を拡大させました。

反アッシリア連合が結成され、カルカルの戦いが勃発しますが、こちらは勝利したとも言われていますが、かなりの苦戦があった様です。

それでも、シャルマネセル3世の時代にイスラエル王国を服属させるなどしました。

ただし、晩年は後継者のアッシュル・ダイン・アピルに反乱を起こされアッシリアは内乱状態に突入する事になります。

​シャルマネセル3世の拡大路線と属州支配の確立

​紀元前859年、新アッシリア帝国の地盤を固めたアッシュル・ナツィルパル2世が没すると、その息子である「シャルマネセル3世」が王位を継承しました。

シャルマネセル3世は父王が推し進めた強硬な拡大路線をそのまま引き継ぎ、その35年におよぶ長期在位期間の中で、国家規模の軍事遠征を全方位へと展開していくことになります。

​その決定的な成果が、即位直後の紀元前858年に達成された、アラム人国家「ビート・アディニ」の完全な征服と滅亡です。

先代の時代には領土の一部を奪うに留まっていたこの西方の強国を完全に解体したことで、アッシリアは軍事・経済の生命線である「ユーフラテス川の両岸」を完全に支配下に置くことに成功しました。

​このユーフラテス川の完全掌握がもたらした地政学的意義は極めて甚大でした。

アッシリアは、それまで間接的に朝貢(臣従)させていたに過ぎなかった周辺の都市国家(交易の要衝であるカルケミシュなど)を、次々と直轄の「属州(ぞくしゅう)」へと編入していきます。

これにより、従来の「貢物を奪うだけの遠征」から、「現地の土地と関税を中央がダイレクトに管理・支配する」という、世界帝国への強固な中央集権システムが確立されたのです。

​その後もアッシリアの勢力伸長は止まらず、南方ではバビロニアの北部を制圧して影響力を誇示し、西方ではシリア全域からパレスチナ地方にまでその覇権を拡大させました。

さらに北方においては、当時同じく辺境で急速に力をつけていた新興勢力「ウラルトゥ王国」とも激しい国境紛争を展開し、これを抑え込むなど、世界に対して圧倒的な軍事的優位性を断言・証明していったのです。

シャルマネセル3世の時代のバビロンはE王朝のマルドゥク・ザキル・シュミ1世の時代であり、バビロンを助けた話しも残っています。

尚、シャルマネセル3世の時代である紀元前853年に反アッシリア同盟との間に、カルカルの戦いが勃発しています。

カルカルの戦いは諸説があり、どちらが勝利したのかも正確な部分は不明です。

​イスラエル王国の服属と「黒のオベリスク」

カルカルの戦い以降も西進を続けたシャルマネセル3世の治世において、アッシリアの圧倒的な国際的優位性を今日に伝える決定的な考古学的遺物が、有名な「黒のオベリスク(Black Obelisk)」です。

​紀元前841年、イスラエル王国においてクーデターを断行して新王となった「イエフ(Jehu)」は、周辺諸国との極めて不安定な政治情勢や
国内の基盤を揺るがす地政学リスクに対抗するため、大国アッシリアに臣従を誓い、救援・後ろ盾を乞う選択をしました。

(画像:ウィキペディア

この黒のオベリスクのレリーフ(浮彫図像)には、イスラエル王イエフがシャルマネセル3世の足元に深く平伏し、貢物を捧げて屈服している姿(いわゆる土下座の姿勢)が、アッシリア側の絶対的な外交的名誉の記録として生々しく刻まれています。

​これはイスラエル王国にとっては至高の屈辱を意味する歴史的事件でしたが、アッシリアにとっては周辺の全領土を「属国化」「朝貢化」させる再征服・領土回復のシステムが、パレスチナ地方にまで完全に浸透していたことを証明していると言えます。

​王位継承制度の不備と「アッシュル・ダイン・アピルの反乱」

​35年という長期にわたって大帝国を統治したシャルマネセル3世でしたが、その晩年は加齢に伴う身体的な衰えが顕著となり、自ら最前線の戦場へ赴いて軍隊を指揮することが事実上不可能となりました。

そこで王は、自らの後継者として決定していた息子「アッシュル・ダイン・アピル(Aššur-daʾʾin-aplu)」に対し、全軍の指揮権を委ねる決断を下します。

​しかし、この軍事権の委譲は、国家の安泰ではなく、帝国を揺るがす凄まじい内乱の引き金となってしまいました。

​当時の新アッシリア帝国においては、長子相続などの「誰が次の正統な王位継承者となるか」という明確かつ厳格な明文化された制度・ルールが、まだ確立されていませんでした。

そのため、どれほど事前に「後継者」として指名され、全軍の指揮権を与えられていたとしても、「父王が急に変心して他の兄弟に王位を譲るかもしれない」という疑心暗鬼や、周囲の高官たちの権力闘争による失脚のリスクが常に付きまとっていたのです。

​このような不安定な王権ガバナンスの不備に危機感を募らせたアッシュル・ダイン・アピルは、父王の死を平然と待つ道を選ばず、自らの手で確実に実力行使によって王位を確保するため、自らに与えられたアッシリア軍の指揮権をそのまま悪用する形で、現体制に対して大規模な反旗を翻しました。

シャルマネセル3世の最後

​シャルマネセル3世の晩年に勃発した王位継承を巡る内乱は、主要都市を巻き込む大規模な分断へと発展しました。

​シャルマネセル3世は、身内のこの超弩級の謀反を鎮圧するために自ら軍を動かしたものの、その反乱鎮圧の最中に病(あるいは寿命)によって世を去ることになります。

​反乱の首謀者である兄アッシュル・ダイン・アピルは、帝国の政治的中心地である首都「カルフ」や、宗教的な聖地である「アッシュル」といった主要な重要拠点の支配権を掌握し、戦況を極めて優勢に進めていました。

しかし、最終的にこの絶望的な劣勢を覆して勝利を収めたのは、弟の「シャムシ・アダド5世」でした。

​この未曾有の兄弟対決は、アッシリアの公式記録において「王家内部の権力闘争」として確認できる最初の重大な悪例となりました。

歴史研究においては、この王家内部における内紛の常態化こそが、後世において帝国の権威を内側から崩壊させ、最終的なアッシリア滅亡を招く決定的な構造的要因の一つになったと分析されています。

シャルマネセル3世は紀元前824年に世を去りました。

尚、シャルマネセル3世はアッシュル・ダイン・アピルに反乱を起こされた事で、後継者にはシャムシ・アダド5世を指名したとも伝わっています。

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