
河津氏明は南北朝時代に活躍した人物であり、高師直に仕えました。
高橋英光と共に大旗一揆を率いています。
高師直に仕えた時期は遅いながらも、忠義を尽くしました。
太平記では打出浜の戦いの前日に、河津氏明は高師夏と共に聖徳太子の軍と戦う不思議な夢を見た話が掲載されています。
河津氏明は打出浜の戦いでは、勇敢に戦うも衆寡敵せず、重傷を負い敗れました。
足利尊氏と直義の間で和議が成立しますが、主君の高師直が討たれると、後を追い切腹しています。
亀田俊和先生は河津氏明を「仁義の勇者」と評価しました。
河津氏明と高師直
河津氏明は高橋英光と共に備中国の大旗一揆の盟主をしていました。
河津氏明は虎関師錬との関係しており、元に使者を派遣して画工に虎関師錬の肖像画を描かせています。
康永三年(1344年)に高師直の母親が死去しました。
高師直は虎関師練に追悼文の朗読を依頼しますが、虎関師練は高師直が足利尊氏の命令に従わない事を理由に拒否しています。
一見すると足利尊氏と高師直の対立があったようにも見えますが、実際には足利直義と高師直の間に亀裂が入り始めていたのではないかとされています。
この時に虎関師練と高師直の間に入ったのが、河津氏明であり、この頃から高師直と交流があった事が分かっています。
高師直との繋がり
河津氏明がどの様にして、高師直の重臣になったのかはイマイチよく分かっていません。
しかし、高氏一族の南宗継が備中守護に就任した事で、河津氏明と高師直は誼を結ぶようになったのではないかとも考えられています。
ただし、別説としては虎関師練を介して河津氏明と高師直は知り合ったともされています。
尚、北畠顕家と桃井直常らが戦った般若坂の戦いで、高師冬の軍に所属した吉川経久が軍忠を挙げますが、この時の証人が高橋英光となっています。
高橋英光は河津氏明と共に大旗一揆の盟主でもあり、般若坂の戦いの頃には、高師直と河津氏明は関係を持っていたのかも知れません。
高師泰が尾張の守護を務めていた時期がありました。
河津氏明には尾張国長岡荘西方郷を新田一町を北野社に寄進した話があり、他にも尾張国真福寺長老を尾張国安徳寺住任寺職に任命し、長岡荘西方郷の新田一町を真福寺に寄進しました。
これらの事から、河津氏明は尾張に地盤を持っていた事は明らかであり、高師泰と繋がりを持ち高師直に従うようになったとも考えられています。
河津氏明は尾張で地頭職も持っており、これらは元弘の乱から建武の乱において恩賞として後醍醐天皇もしくは足利尊氏から賜ったとされています。
四條畷の戦い
河津氏明は四條畷の戦いにも参戦した事が分かっています。
白旗一揆が飯盛山の南に布陣したのに対し、大旗・小旗一揆の軍勢は飯盛山の東に布陣しています。
南朝の楠木正行の軍は正面の高師直の軍勢と戦い、四条隆資の軍が飯盛山の軍と戦闘を行う事になります。
四条隆資が河津氏明ら飯盛山の軍勢を引き付けて、その隙に高師直を討つ作戦でした。
白旗一揆の盟主である県下野守は、楠木正行の狙いに気がついており、別ルートで下山し戦っています。
しかし、楠木正行の勢いは凄まじく、白旗一揆は壊滅し県下野守自身も負傷しました。
河津氏明は楠木正行の陽動作戦に引っ掛かり、下山が遅れますが、お陰で軍の壊滅から逃れています。
河津氏明は四条隆資とまともに戦っていたのでしょう。
佐々木道誉と共に河津氏明は下山しました。
河津氏明は楠木正行の後軍を壊滅させていますが、楠木正行は高師直の軍への突撃をやめず、一時は本陣が陥落し高師直が逃げ惑った程です。
四条畷の戦いでは河津氏明は目立った活躍は出来ませんでした。
しかし、楠木軍の後方を壊滅させ、兵力を減少させたのは功績だったと言えるでしょう。
放火事件
大炊御門冬信の屋敷が河津氏明と高橋英光により放火された事件が起きました。
高師夏の母親に大炊御門冬信が恋文を送った事に、高師直が激怒し河津氏明らに命じて行わさせたと言います。
高師直の無法に関する話は創作されたものが多いとされており、本当に河津氏明が大炊御門冬信の屋敷を放火したのかは不明です。
しかし、当時の人に認識として、河津氏明は高師直の股肱の臣として見ていた事は間違いなさそうです。
河津氏明の観応の擾乱
太平記に高師泰と上杉朝定が戦っていますが、高師泰を河津氏明と高橋英光率いる大旗一揆が、陶山兄弟の小旗一揆と共に高師泰を後方支援していた話があります。
足利尊氏が南宗継と共に、河津氏明を備中の守備を命じたと考えられています。
高師泰は上杉朝定に大勝しますが、河津氏明の活躍も大きかったとされています。
河津氏明は高師泰と共に美作で芳賀や角田などの黒人勢力を破り、高師直と合流しました。
河津氏明と高師夏の夢
太平記に打出浜の戦いの前日に、河津氏明と高師夏が全く同じ夢を見た話が掲載されています。
夢の中で西に陣した高師直や高師泰の軍は数万もおり、東に陣した足利直義、上杉憲顕、石塔頼房、畠山国清の軍には千騎ほどしかいませんでした。
高氏が圧倒的に有利な状況で戦いが始まりますが、突如として聖徳太子が蘇我馬子や小野妹子、秦河勝らを引き連れた軍勢が現れます。
高師直の軍が聖徳太子の軍を寡兵と侮り攻撃しますが、金剛蔵王が命じた矢が高師直、高師泰、高師夏、高師世の眉間に当たり、落馬した所で夢から覚めました。
河津氏明と高師夏が見た夢は、過去に高師直が吉野を焼き討ちし、聖徳太子廟を壊した報いだとされています。
太平記の作者は高師直の腹心として、河津氏明を認識しており、物語を面白くする為に、河津氏明と高師夏が同じ夢を見た事にしたのでしょう。
打出浜の戦い
河津氏明は打出浜の戦いにも参戦しました。
打出浜の戦いでは畠山国清の軍と交戦しています。
高橋英光と共に奮戦しますが、畠山国清の弓矢攻撃の前に軍は壊滅しました。
河津氏明の大旗一揆は突撃を得意としていた様ではありますが、足利直義を支持する武士が余りにも多く戦力差が響いてしまったのでしょう。
河津氏明は歩けない程の負傷をした話が太平記に記録されています。
河津氏明の相棒とも言うべき、高橋英光は逃亡しました。
河津氏明の最後
高師直と高師泰は足利尊氏の遥か後方にいましたが、打出浜の戦いで重傷を負った河津氏明は、馬に乗る事も出来ず、輿に乗りさらに後方にいました。
ここで、主君である高師直や高師泰の死を知る事になります。
河津氏明は付近の辻堂で、輿から降ろすように命じ自害して果てました。
仁義の勇者
高師直は落ち目になった時に、多くの者が離れていきました。
太平記では高氏に従っていた者たちを酷評しています。
こうした中であっても、河津氏明は高師直の為に最後まで忠義を貫き切腹しました。
亀田俊和先生は書籍「高一族と南北朝内乱」の中で、河津氏明について「彼こそは仁義の勇者と言えるのではないだろうか」と評価しています。