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魏志倭人伝の信憑性

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宮下悠史

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名前魏志倭人伝
読み方ぎしわじんでん
収録正史三国志魏書東夷伝
書かれた時代西晋
コメント邪馬台国の場所が書かれるなどの貴重な資料

魏志倭人伝は正史三国志の東夷伝にある倭人に関して書かれている部分を指します。

日本では魏志倭人伝の名前で有名ですが、正確には魏志倭人伝という「伝」は立てられてはおらず、正史三国志魏書東夷伝倭人の条というのが正しいです。

ただし、ここでは多くの方々が聞きなれた魏志倭人伝の名前で話を進めていきます。

魏志倭人伝に関しては専門家の中でも意見が分かれており、魏志倭人伝の中身は大方当たっているのではないか?と考える人もいれば「真実ではない」「嘘も含まれている」と考える専門家もいます。

魏志倭人伝に関していえば、当たっている部分もあれば、事実と合致しない部分もあると考えるのが妥当でしょう。

尚、魏志倭人伝を読み解くには、原文として内容に書かれている部分の他にも、陳寿の頭の中をインストールする必要もあります。

現在と三国志や西晋の時代では価値観が変わっており、儒教の思想なども考えた上で考察するべきだと考えています。

今回は魏志倭人伝の信憑性に関して考えてみました。

正史とは何か?

魏志倭人伝は陳寿が書いた正史三国志に記載されています。

それを考えると魏志倭人伝の信憑性を検証する上で、正史とは何か?を考える必要があるはずです。

正史に関して「魏志倭人伝の謎を解く」の著者である渡邉義浩氏は、次の様に述べています。

「正史」とは正しい史実を記録する事で「正史」と呼ばれるわけではない。

歴史事実と異なる記録をしてまで正統を示す史書である。

「正史」には偏向(記述の歪み)が含まれる。

魏志倭人伝の謎を解く

渡邉義浩氏の言葉は言い得て妙と言うべきであり、陳寿は決して正しい情報を書いたわけではなく、西晋の司馬氏の正統を示す為に書いた書物でもあったわけです。

陳寿は正史三国志を書くにあたり司馬懿が政権を掌握した事に関して「司馬懿が皇族の曹爽を姑息な方法で不意打し皇帝を蔑ろにして魏を牛耳った」とは書きませんでした。

魏に忠義を尽くし反旗を翻した様に見える諸葛誕や毌丘倹らを、正史三国志の中では悪心を起こした様な書き方をしています。

さらに、西晋は魏からの禅譲により皇帝になっており、三国志の中では魏の正統性を認め曹操の事は太祖と書き陳寿の出身地であった蜀の劉備劉禅に対しては、先主、後主で記載しました。

陳寿は呉との関係は薄く孫権の事は「権」と呼び捨てにしている状態です。

陳寿は己を曲げない性格だったともありますが、司馬氏の一族を配慮した書き方になっています。

こうした理由から、正史三国志は信用出来ないとか、魏志倭人伝の情報は「嘘」などとする見解も出てしまうわけです。

陳寿が配慮する存在

魏志倭人伝の信憑性を考える上で、陳寿が倭国に対し気を遣う必要があるのか?は考察する必要があります。

陳寿が倭国に対し、気を遣う存在であれば、正しい情報は書けない事になります。

陳寿が正史三国志を記載する上で、配慮しなければならないのは、次の三点だと考えられるはずです。

  • 西晋の司馬一族への配慮
  • 故郷の蜀漢への配慮
  • 政府高官への配慮

陳寿が仕えた西晋の皇帝である司馬一族に関しては、配慮する必要があるのは当然の事でしょう。

実際に正史三国志では司馬懿の事は司馬宣王と記載したりしており、一般の魏の臣下と同列にはしてはいません。

司馬懿、司馬師、司馬昭、司馬炎には最大限の配慮が必要としたはずです。

陳寿は西晋に仕える前に蜀漢に仕えており、故郷である蜀に関しても気を遣う存在でした。

しかし、西晋の正統性が無くなってしまう様な書き方は出来ず、それでいて劉備劉禅を呼び捨てにするわけにも行かず、先主、後主の言葉を使い誤魔化した様にも見受けられます。

西晋の政府高官の先祖に対しても配慮したのではないか?と考えられます。

正史三国志の魏書を読むと「慈愛があった」「思いやりの心があり人間性に優れていた」など人間性を称賛している人物もいるわけです。

政府高官というのは陳寿にとっても怖い存在であり、配慮が必要だったように感じています。

ただし、逆を言えば董卓袁紹袁術などの様に滅んでしまった家であれば、遠慮なく書く事も出来たはずです。

陳寿が倭国に対して配慮する必要があるのか?で考えてみると、そこまでは配慮する必要はなかったのではないか?と考える事が出来ます。

陳寿にとってみれば、倭国は東夷の果ての国であり、配慮する必要は余りなかったのではないか?と思えるからです。

ただし、後述しますが、邪馬台国卑弥呼が朝貢するのに、司馬懿公孫淵を滅ぼして朝貢させた事実があります。

後述しますが、西晋の祖とも言うべき司馬懿の功績が倭国朝貢であるならば、倭国に対して一定の配慮は必要とした事でしょう。

魏志倭人伝以前の倭国と中華帝国の関係

魏志倭人伝以前の中華帝国と倭国の関係を見ると、紀元前221年に始皇帝は天下統一しますが、始皇帝死後に僅か4年で秦は滅亡しました。

楚漢戦争で劉邦が勝者となり前漢王朝を樹立し、漢の武帝の時代になると朝鮮半島北部を支配し楽浪郡などを設置しました。

前漢が楽浪郡を手中に収めた事で、倭人も中華王朝とコンタクトを取る様になります。

この時の倭国は百余国に別れていたとあります。

前漢は王莽への禅譲で滅亡しましたが、王莽の新とも倭国は交流があった可能性が残っています。

新の貨幣が丹後で発見されています。

しかし、新は短期間で滅び光武帝(劉秀)が後漢王朝を建国しました。

倭の奴国や倭王師升が後漢王朝に朝貢した話が残っています。

後漢王朝後期の桓帝や霊帝の時代になると、倭国大乱が勃発しました。

倭国大乱に関しては卑弥呼が共立された事で収まりを見せますが、諸説があり謎が多いです。

霊帝死後に何進董卓が政治を行った時期もありましたが、結局は群雄割拠となり最終的に魏、呉、蜀の三国が生き残りました。

この時代に遼東公孫氏が遼東で割拠した事で、倭国は朝貢出来なくなります。

魏では蜀の諸葛亮の北伐への対処を最優先した事で、遼東公孫氏に兵を向ける事が出来ませんでした。

しかし、諸葛亮が亡くなると司馬懿が公孫淵を滅ぼした事で、倭国の卑弥呼はすかさず魏に朝貢しています。

ここからの卑弥呼の行動や魏の曹叡もしくは曹芳が発行した制詔が魏志倭人伝に記述されているわけです。

ここまでの記述を見ると分かる様に、魏志倭人伝の時代である三国時代よりも前から、倭国と中華帝国はコンタクトを取っていました。

三国志の時代になって突如として、倭国と友好を結んだわけではないという事です。

卑弥呼が魏に朝貢した238年もしくは239年が魏志倭人伝の時代の幕開けだと言えるでしょう。

陳寿はどの様にして魏志倭人伝を書いたのか

直接取材したわけではない

魏志倭人伝を読むと、倭人の風習など様々な事が書かれている事が分かります。

こうなると、陳寿は魏志倭人伝をどの様にして書いたのか?という問題が出てきます。

司馬遷の史記を読むと、次の記述があります。

※史記 魏公子列伝(信陵君列伝)より

「私は大梁の廃墟を訪ねて、夷門がどれなのかを訪ねると東の城門だと言われた」

上記の記述を見ると司馬遷は信陵君の事を調べる為に、自ら戦国時代の魏の首都であった大梁まで足を運んだ事が記載されています。

司馬遷は戦国四君に対しては、思い入れが強かったのか全員の現地調査を行った事が記述されているわけです。

魏志倭人伝を見ると分かる様に、陳寿は倭国まで行き現地調査を行った記録がありません。

魏志倭人伝は陳寿が直接みたものではなく、伝聞なども入っていると考える事が出来ます。

陳寿が直接みたものでないのであれば、噂話や先入観も含まれると考えられ真実とは違う情報も混ざると考えられます。

尚、魏志倭人伝には侏儒国、裸国、黒歯国など遠方の国々に関しても記録されていますが、これらの国は倭国で話を聞いただけであり、実際には行ってはいないと考えられています。

魏の使者からの情報

魏志倭人伝なのですが、帯方郡にいた役人が書いた報告書を元に書かれたとする説があります。

魏では倭国に使者を派遣し、帯方郡で多くの情報を纏めて魏の洛陽に送ったとする説です。

魏志倭人伝を見ると、魏では弓遵と梯儁が倭国に行った記述があり、この二人が倭国に多くの情報を魏にもたらした可能性もあります。

魏の使者の報告を元に魏志倭人伝が書かれたのであれば、問題になってくるのが魏の使者が倭国の何処まで行ったのか?という問題です。

伊都国問題

ここで出て来るのが伊都国の問題です。

魏志倭人伝を読むと「伊都国は魏の使者が留まる場所」だと書かれており、読み方によっては「魏の使者は伊都国までしかいっていない」という事になります。

ただし、別の読み方をすれば「一時的に魏の使者は伊都国に留まった」と解釈する事が出来るはずです。

ここで誕生した説が邪馬台国放射説であり、伊都国を起点として奴国、不弥国、投馬国を書いたとする説です。

(伊都国を起点にして放射状に考える説)

魏志倭人伝を読むと対馬国、一大国末盧国、伊都国までは、農地が少ないなどの詳しい描写がありますが、伊都国からは距離、長官の名前、人口が書かれているだけで民衆の描写が無くなります。

こうした理由から、魏の使者は伊都国までしか行っておらず、これが原因で魏志倭人伝の伊都国以降の国が簡略になったとされた説です。

実際に倭国最大勢力の邪馬台国、第二位、三位の人口を誇る投馬国、奴国の記述は極めて簡略であり、民衆の描写は描かれていません。

実際に「見たもの」と「聞いたもの」では文章のリアリティが違ってくるのも当然であり、伊都国までしか魏の使者が行っていない説は根強く支持されています。

ただし、卑弥呼は魏の皇帝から親魏倭王に冊封されているわけであり、魏の使者が卑弥呼の代理である一大卒の長官に印綬を渡し、卑弥呼に贈り届けるのは無理があるのではないか?とする説も存在します。

魏の使者というのは、皇帝の代理人でもあり責務も重かったはずです。

それらを考慮すると、魏の正使は伊都国までしか行ってはいないが、魏の副使は邪馬台国まで行ったのではないか?とも考えられます。

魏では皇帝からの詔書や印綬、下賜された品々を持ってきたわけであり、皇帝の詔書や印綬を卑弥呼が直接、受け取らないとかは考えにくいとも言えるでしょう。

尚、魏の張政は邪馬台国と狗奴国が戦争になった時に調停を行っています。

張政は台与の時代になっても倭国に滞在していたとも考えられ、戦争の調停までしてくれた張政が邪馬台国まで行っていないというのも不自然に感じました。

張政は倭国での経緯を魏の本国に連絡していたはずであり、張政の報告書も魏志倭人伝の記述に掲載されている可能性はあるはずです。

倭人が出鱈目を言った説

魏志倭人伝の記述が出鱈目だと考える人がいます。

倭国の人々がなぜ魏に対し、出鱈目を言ったとする理由は「邪馬台国の正確な場所を教えてしまったら魏に攻撃されてしまう」というものです。

確かに、本拠地の場所を教えてしまうのは危険だと感じます。

しかし、魏志倭人伝を見ると張政は邪馬台国の為に尽力している姿が描かれているわけです。

倭国を訪れ戦争の調停までしてくれた張政に対し、嘘が通用するのか?という問題もあります。

ただし、逆の考え方をすれば、魏が西晋に変わった266年に倭国の女王が西晋に朝貢した記録を最後に記述が無くなっています。

西暦266年以降は空白の150年に突入します。

これらを考慮すると、倭人が出鱈目ばかりを言うから、朝貢させなくなったと見る事が出来るのかも知れません。

個人的には「邪馬台国の正確な場所を倭人が教えなかった説」は、何処かしっくりこないと感じました。

魏志倭人伝はなぜ魏書東夷伝に掲載されるのか

正史三国志は正統性があるのは魏としながらも、蜀と呉の三部構成になっています。

魏が正統な王朝だとするのは、陳寿が仕えた西晋が魏から禅譲により出来た国であり、政治的な背景から仕方がない部分でもあります。

正史三国志を見ると夷狄に関する情報は全て魏書に書かれています。

儒教が大きな位置を占める中華思想では、天子の徳を慕って異民族は朝貢するわけであり、蜀や呉に異民族が朝貢されては魏の面子が潰れてしまうという実情があるわけです。

魏に朝貢した異民族は正統性を示す為の夷狄にもなり優先的に記載されたと考えられます。

呉などは末期になっても山越などの異民族を延々と討伐しており、諸葛亮が孟獲を破った南蛮征伐なども有名ですが、正史三国志に呉書山越伝や蜀書南蛮伝・西戎伝は立てられていません。

それらを考慮すれば、魏志倭人伝が魏書の東夷伝に収録されるのは分かる気がします。

魏略の存在

東夷伝は魏略の記述がベースになっている

正史三国志は、陳寿が全くのゼロから書いたような書物ではありません。

正史三国志は陳寿が一から構想したわけではなく、王沈の「魏書」、魚豢の「魏略」、韋昭の「呉書」がベースになっている事が分かっています。

既に正史三国志の元となった魏書、魏略、呉書は散逸し分からなくなっている状態です。

それでも、それらの書物は裴松之などの注釈から内容を知る事が出来ます。

魏志倭人伝は正史三国志の魏書東夷伝に収録されており、ベースになっている魏略を考える事も重要です。

魏略を書いた魚豢ですが、意外にも史官ではなかったとされています。

魚豢は魏の郎中になった話はありますが、史官ではなかった事から、比較的自由に書く事が出来たとも言われています。

ある意味、趣味の延長戦上で魚豢が魏略を書いたなんて話もあるくらいです。

魏略の書いてあった事を「ほぼ丸写し」にしたのが、魏志倭人伝だったとも考える専門家もいます。

それを考えると、魏志倭人伝を書いたのは陳寿ではなく魚豢だと思えて来てしまう人もいるのではないでしょうか。

魏志倭人伝には嘘が混ざっているのか

魚豢の書いた魏略ですが、賛否両論の意見があります。

魏略の内容が煩雑で纏まりが無いとかの意見もあれば、普通の史書とは着眼点が違っており、優れているという評価もあります。

魚豢が史官ではないからこそ、記録出来た部分もあるのでしょう。

ただし、諸葛亮が五丈原の戦いで自分の命が尽きる事を悟ると、後継者に魏延を指名したとする話を魏略では掲載されています。

魏略では魏延は諸葛亮の言いつけを守り蜀軍を撤退させますが、魏延と不仲であった楊儀が謀略を使って魏延を抹殺した話になっています。

これを見ると魏延と諸葛亮のイメージがかなり変わって来ますが、諸葛亮が魏延を後継者に指名した魏略の記述は「単なる敵国の噂に過ぎない」と裴松之は一蹴している状態です。

魏略は噂話に近い様な話しも記録しているのが実情となります。

それを考えれば、魏志倭人伝も真実とは異なった噂話も掲載されているとも考えるべきでしょう。

魏志倭人伝には脚色が少ない

魏略の魚豢に関しては謎が多いわけですが、劉表に会った事も記録されており、三国志の時代を生き抜いた人物だとも言えます。

魚豢は史家ではなく当時の噂話なども多く掲載しましたが、政治的な意向は大して汲まなかったとも考えられています。

魏志倭人伝のベースとなった魏略は良い部分もあれば、悪い部分もあるという事でしょう。

こうした理由から魚豢は倭人の暮らしなどの聞いた話を直接書き込んだのではないかとも考えらています。

魏志倭人伝は倭人の暮らしなども詳細に書かれており「魏志倭人伝は博物誌」だと述べる人もいる位です。

魚豢の書いた記述を元に、陳寿の眼鏡を通し魏志倭人伝が出来たとも言えるでしょう。

魚豢の事を考えれば、魏志倭人伝の脚色は少ないとみる事が出来るはずです。

ただし、噂話や儒家の中華思想の影響も受けている事でしょう。

魏志倭人伝で倭人が好意的に描かれた理由

魏略は魚豢が伝聞なども含めて書いたとされていますが、陳寿は政治的な脚色を行ったのではないか?とする説もあります。

陳寿は西晋の役人でしたが、卑弥呼を朝貢させたのは遼東公孫氏を滅ぼした司馬懿の功績となります。

魏志倭人伝を見ると「倭人の女性は嫉妬しない」「礼儀正しい」などの記述があり、倭人を好意的に書かれている事が分かるはずです。

魏志倭人伝で倭人が好意的に描かれた理由は「司馬懿が公孫淵を滅ぼし倭国の善良な民を治める卑弥呼を朝貢させた」としたかったからではないか?とする説もあります。

司馬懿の政敵は曹爽でしたが、曹爽の父親の曹真には、クシャーナ朝を朝貢させ魏では親魏大月氏王に冊封したという功績があります。

曹真を超える功績を司馬懿のものとする為に、倭人を善良な民として陳寿が描いたとする説もあります。

魏志倭人伝の真実が含まれる部分

陳寿は魏略や王沈の魏書や韋昭の呉書など先行する資料があり、さらには西晋の史官として、国家が保管する皇帝の制詔を見る事が出来たはずです。

基本的に皇帝の制詔は書き直す事はしない為、当時の資料がそのまま記録されているわけです。

魏志倭人伝の中で最も信憑性が高いのは皇帝が卑弥呼を親魏倭王とする詔書の部分だと言えるでしょう。

魏の皇帝は卑弥呼を親魏倭王に冊封し多くの品々を下賜したのは事実だと考える事が出来ます。

中国人の書いたものは信用出来ない。邪馬台国は元々存在しなかった。などの意見もありますが、個人的には多くの部分で当時の倭人社会を比較的正確に語っていた様にも感じました。

ただし、魏志倭人伝に政治的な心情が全く反映されていないのか?となれば、そうでもないはずです。

魏志倭人伝には一定の信憑性はあると感じています。

魏志倭人伝の全てを否定するのは難しいと言えるでしょう。

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