室町時代

吉良満義は名門としての待遇を受けた

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宮下悠史

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名前吉良満義
生没年生年不明ー1356年
時代南北朝時代
一族父:吉良貞義 兄弟:助時 配偶者:渋川義季の娘
子:満貞、一色有義、尊義、岡山満康、橋田満長
コメント名門吉良氏の嫡流

吉良満義は吉良貞義の子で南北朝時代に活躍しました。

吉良氏は足利一門の中でも家格は最上位であり、同じく名門の渋川氏の娘を妻として迎えています。

建武の乱では足利尊氏派として各地を転戦しました。

後に室町幕府の引付頭人になっています。

観応の擾乱では最初に足利直義に与するも、足利尊氏に鞍替えしたとも考えられています。

子の吉良満貞は足利直義に与しており、吉良氏は観応の擾乱で二つに割れてしまったと言えるでしょう。

吉良満義の生前に吉良満貞が幕府復帰する事はありませんでした。

尚、吉良満義と足利尊氏は同年代であり、足利一門としても家格が高く将来を期待されていました。

建武の新政と吉良満義

後醍醐天皇による建武の新政が始まると、吉良満義は関東吉良氏の吉良貞家と共に関東に下向しました。

関東廂番の渋川義季の娘が吉良満義の妻となっています。

渋川氏も足利一門の中では名門であり、吉良満義の妻になったのでしょう。

尚、渋川義季の姉が足利直義の正室である渋川氏です。

さらに、渋川義季の別の娘は足利義詮の妻になるなど、足利氏、渋川氏、吉良氏などは足利一門でありながら、婚姻関係を張り巡らしている事が分かります。

鎌倉将軍府は成良親王を長とする機関ですが、若年であった事から、足利直義が執権の様な形で権力を握りました。

吉良貞家は関東に残った様ではありますが、吉良満義は早い段階で京都に戻り、後醍醐天皇の賀茂両社への行幸に従うなどしています。

ただし、吉良満義も京都で安寧の生活を送っていたわけではなく、信濃に出陣し北条氏の残党と戦うなどしました。

建武の乱

北条時行による中先代の乱が勃発すると、足利尊氏は後醍醐天皇に無許可で鎮圧に乗り出しますが、吉良満義も従いました。

中先代の乱が終わると、足利尊氏は朝敵に認定され、建武政権では新田義貞脇屋義助を中心とする討伐軍を差し向けています。

太平記によると足利直義と共に吉良満義も迎撃軍に参加しますが、新田軍の前に敗れました。

足利尊氏が出陣すると箱根竹ノ下の戦いで朝廷軍を破り、そのまま京都に進撃しますが、北畠顕家らに敗れて九州に落ち延びています。

九州から反撃に転じた足利尊氏は室町幕府を開きますが、後醍醐天皇が吉野で南朝を開き南北朝時代が始まりました。

尚、建武三年(1336年)10月の段階で吉良満義が三河国美保の所職を今川氏に与えており、三河にいたと考えられています。

北畠顕家の上洛を阻止

後醍醐天皇は起死回生の一手として、奥州の北畠顕家に上洛を命じました。

当時の奥州は荒れていましたが、北畠顕家は二度目の上洛軍を起こす事になります。

三河国では吉良満義が北畠顕家の上洛を阻止しようとしますが、突破されました。

しかし、近畿での戦いでは高師直の活躍もあり、北畠顕家は石津の戦いで命を落としています。

引付頭人

吉良満義は京都に戻ると、引付頭人に選ばれています。

引付方は不相談訴訟を扱う幕府の部署であり、足利直義が管轄する部署でした。

こうした関係もあり、足利直義と吉良満義は関係を深めていく事になります。

足利直義は征夷大将軍の足利尊氏の弟であり、吉良満義は足利一門の名門であり、働き盛りであった事から活躍を期待された事でしょう。

関東吉良氏の吉良貞家も吉良満義に遅れはしましたが、引付頭人に就任しました。

尚、父親の吉良貞義は康永二年(1343年)に亡くなっています。

名門吉良氏

康永三年(1344年)頃に、足利一門で摂津国勝尾寺に馬一疋を奉加しました。

この行事に参加した者は下記の通りです。

足利尊氏足利直義吉良満義
吉良貞家斯波高経石橋和義

足利尊氏や直義と共に足利一門の家格の髙い者が参加しており、吉良満義の名も存在しています。

翌年の天龍寺落慶供養では足利尊氏と直義の他にも、吉良満義と斯波高経が牛車に乗るなどの特別待遇を受けています。

この行事では吉良満義の子の吉良満貞も政界入りを果たしました。

特別待遇を受けるあたりは、吉良氏が足利一門の中でも名門として位置づけられているのが分かるはずです。

吉良満義と足利直義

足利直義と吉良満義は極めて良好な関係だったと考えられています。

足利直義は長らく子供が出来ませんでしたが、40歳を超えて妻の渋川氏が子を授かりました。

妻の渋川氏は如意丸を出産するわけですが、吉良満義の二条京極にある宿所を使っています。

観応の擾乱

直義派として戦う

四條畷の戦いで高師直の戦功が大きく、足利直義と対立する事になります。

室町幕府は分裂に向かい足利尊氏義詮、高師直の派閥と足利直義、直冬の派閥闘争が勃発する事になります。

太平記にも様々なバージョンがありますが、吉良満義が足利直義の派閥とするものもあれば、高師直の派閥だったとするものがあります。

現在では吉良満義は最初は足利直義派だったのではないかと考えられています。

足利直義と高師直の対立により観応の擾乱が始まりますが、こうした中で吉良満義は光厳上皇の御所である仙洞の警護をしました。

不穏な空気が流れる中で、足利直義は大高重成に二条京極にある吉良満義に宿所に移る様に求めています。

軍事衝突

観応の擾乱は軍事衝突に発展しました。

足利尊氏が京都を占拠する事もありましたが、この時に吉良満義の二条京極にある宿所に陣取るなどしています。

こうした事から、吉良満義は途中から足利尊氏に与したと考えられています。

子の吉良満貞は足利直義を支持しました。

足利尊氏は京都を出る時には、二条京極の宿所を焼き払っています。

観応の擾乱は足利尊氏の勝利に終わりますが、子の吉良満貞は幕府に帰順しませんでした。

後光厳天皇の警護

正平一統が破棄され光厳上皇らが南朝の賀名生に拉致されると、後光厳天皇が即位しました。

1355年の正月から吉良満義が後光厳天皇の警備を行っています。

吉良満義は牛車を許されただけではなく、四位の位階を持っており、こうした事から後光厳天皇の警護を行ったのではないかと考えられています。

吉良満義は昇殿も許されていました。

吉良満義の最後

吉良満義は延文元年(1356年)に亡くなりました。

晩年の吉良満義は臨済宗聖一派に深く帰依したと伝わっています。

吉良満義の最後の時であっても、息子の吉良満貞は幕府に帰順していませんでした。

吉良満義の晩年の悩みは吉良満貞の事だったのではないかとも考えられています。

吉良満貞が幕府に帰順したのは、足利義詮の時代になってからです。

尚、吉良氏は後に東条吉良氏と西条吉良氏に分裂する事になります。

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