
| 名前 | 季梁(きりょう) |
| 生没年 | 不明 |
| 国 | 随(春秋) |
| コメント | 随の賢臣として名高い人物 |
季梁は春秋時代の随に仕えた人物です。
賢臣として名が通っていた様であり、楚の熊率且比は高く評価していました。
楚の武王の一度目の随遠征の時は、随侯は季梁の言葉を聞き難を逃れますが、2度目の侵攻では季梁の進言を却下し少師の言葉を信じました。
結果として、随は楚に大敗北を喫しました。
季梁は随の賢臣として名を残しています。
季梁の名は楚まで鳴り響いていた
春秋左氏伝によると紀元前706年に楚の武王は随に侵攻しました。
この時に隋と楚の間で和議の動きがあり、楚の責任者が蔿章となり随の責任者が少師となりました。
この時に楚の闘伯比は随の少師に弱みを見せて随が傲慢となり、小国を見棄てる為の策を出しています。
闘伯比の策に対し熊率且比は「随には季梁がいるから、そんな策は通用しない」と述べました。
熊率且比の言葉から、季梁が賢臣として楚にまで名が響いていた事が分かるのではないでしょうか。
しかし、楚の武王は闘伯比の策を実行する事になります。
楚の武王としても季梁がいたとしても、策を実行するだけであれば、大したコスパもいらず闘伯比の策を受け入れたのでしょう。
季梁の諫言
随の少師は楚の陣営から戻って来ると、楚を攻撃する様に進言しました。
この時に、随侯も乗り気になりますが、季梁は次の様に述べています。
※春秋左氏伝上(岩波文侯・77頁から78頁)
季梁「天はいやま楚に味方せんとしています。楚が弱みを見せたのは、きっと誘いの手です。
慌てる必要はありません。『小が大と並べるのは、小に道あり大が淫なる場合』と臣は聞いております。
道ありとは、民に対して忠、神霊に対して信なること。上の者が利をはかるのが忠であり祝・史(祭祀官)が祭文を正直につくるのが信であります。
ところが今、民は飢えているのに国君は勝手に(出兵を考え)・祝・史は嘘を並べて祭っています。
これでは、とてもいけません」
季梁は随侯を諫めたわけですが、随侯も引かず「私は供え物もちゃんとやっているし、穀物も山盛りにして取り揃えている。神霊に対して信なしと言われる覚えはない」と述べました。
随侯は祭祀は余念なく行っていると自信があったのか、季梁の言葉に反発したと言えるでしょう。
しかし、季梁は「民は神の祭り手であり、聖王は必ず民を安定させてから、神を祀り、民を安定させる博碩肥腯が重要」と説く事になります。
随侯は季梁の言葉を聞くと、不安になり内政を整え、楚は随を攻撃するのを中止しました。
季梁は民を安定させた上で、祭祀を行わないと意味がないと伝えたかったのでしょう。
季梁が随侯に比べると、遥かに論理的な思考の持ち主だという事も分かる話となっています。
それと同時に、楚では熊率且比の読み通りの展開になったと言えるでしょう。
速杞の戦い
紀元前704年までには、随では少師が随侯に気に入られていました。
随侯は季梁の述べた言葉を、既に忘れてしまったのか、この頃には季梁よりも少師を信頼していたのでしょう。
少師の方が季梁に比べると、気持ちがいい事を言ってくれたのかも知れません。
こうした状況を見た楚の武王は闘伯比の進言もあり、再び随に侵攻しました。
この時の楚軍は漢水と淮水の間に陣を布き、随軍と対峙する事になります。
ここで季梁は「一旦降伏を申し出て、許されなければ戦うべきです。それで、こちらを憤激させ、敵を油断させるのです」と進言しました。
季梁は楚に一旦は降服し、降伏を拒否されれば将兵らは「逃げ場がない」と懸命に戦うと考えた部分もあるのでしょう。
それと同時に、降伏を申し出れば楚軍は油断すると見越した事になります。
しかし、少師は「楚軍を逃してしまう」と短期決戦を主張し、随侯は正面から楚軍との戦いを選択しました。
季梁は進言を却下されてしまいましたが、勝負はまだ諦めておらず、随侯に次の様に進言しています。
季梁「楚の人は左を尊んでおり、楚王は左軍にいるに違いありません。
楚王の軍とはぶつからずに、右軍を攻めるべきです。
右軍には精鋭がおらず、きっと崩れます。
一部隊が敗れれば将兵はバラバラになります」
季梁は精鋭部隊で固められた左軍を攻撃するのではなく、弱点の楚の右軍を撃破すれば、敵は浮足立ち右軍から崩れて勝利出来ると考えたのでしょう。
しかし、少師は「楚王と正面からぶつからねば対等とは言えぬ」と主張し、随侯は楚と正面からぶつかりました。
この戦いは最初に季梁が降伏を進言している様に、楚軍の方が数では明らかに上回っていたのでしょう。
随軍は大敗し、随の少師は捕虜となりました。
楚の武王は随をさらに攻撃しようとしますが、闘伯比が止めており楚と随は盟約を結び戦いは終わりました。
これが速杞の戦いであり、随が大敗北を喫した戦いとなります。
ただし、闘伯比の言葉を見ると随侯は季梁を再び重用する様になったのかも知れません。
尚、この後に季梁がどの様になったのかは不明です。