名前 | 北畠具行 |
読み方 | きたばたけともゆき |
時代 | 鎌倉時代 |
主君 | 後醍醐天皇 |
コメント | 佐々木道誉と最後に友人となる |
北畠具行は鎌倉時代の末期の人物であり公家です。
北畠具行は後醍醐天皇の側近となり、忠義を尽くす事になります。
後醍醐天皇は文保の和談以降では倒幕を目指しており、元弘の乱が勃発しました。
笠置山城の戦いで敗れ北畠具行は後醍醐天皇と共に捕虜となっています。
北畠具行は佐々木道誉に預けられますが、佐々木道誉は北畠具行の人柄を好み鎌倉幕府に助命嘆願を行っています。
しかし、許されず北畠具行は辞世の句を詠み最後を迎えています。
北畠具行の最後
北畠具行は北畠師行の子として1290年に誕生しました。
北畠親房の祖父が北畠師親であり、北畠師親の弟が北畠師行となります。
同時代の北畠具行と親房は親戚の関係になります。
太平記によると北畠具行は後醍醐天皇が太宰府師の宮と呼ばれていた頃から、側近として仕え忠勤は抜きんでたと書かれています。
後醍醐天皇も自分の手足となって働いてくれる人々を求めており、北畠具行を寵愛しました。
後醍醐天皇は大覚寺統の中では傍流であり、支持する者が少なく四条隆資など不遇の者にも目を掛け出世させています。
捕虜となる
後醍醐天皇は倒幕を目指し笠置山城に籠城しますが、城を持ちこたえる事が出来ず落城に憂き目にあいます。
後醍醐天皇が捕虜になっただけではなく宗義親王や千種忠顕らと共に、北畠具行も捕虜となっています。
北畠具行は佐々木道誉に預けられ、鎌倉に送られますが、その道中で斬首される事が決定されていました。
佐々木道誉は婆娑羅としても名が通って入り、公家の北畠具行を毛嫌いしていたとも伝わっています。
尚、太平記によれば北畠具行に道中で処刑される事を知らせた者がおり「行くを限りを逢坂の関」と詠んだとする話を掲載しています。
北畠具行と佐々木道誉
何を思ったのか佐々木道誉は北畠具行に話しかけてみると、意外にも道理をわきまえた人物であり驚嘆したと言います。
佐々木道誉は北畠具行の人柄を惜しみ、幕府に対し赦免を訴えかけました。
太平記では佐々木道誉が赦免に失敗した事を北畠具行に伝え、北畠具行は佐々木道誉に感謝の言葉を述べた話となっています。
この時点で北畠具行と佐々木道誉は心を多いに通わせていたわけです。
北畠具行の最後
北畠具行は己の最後を悟ると硯と紙を取り寄せて辞世の句を詠む事になります。
※太平記(上) 山崎正和訳より
生死に逍遥す 四十二年
山河一革 天地洞然
(生死の間をさまようこと四十二年、いま死にのぞんで山河ことごとくあらたまり、天地の万物が空漠としている)
北畠具行が辞世の句を詠み日付と名前を書くと、多児六郎左衛門尉が後ろへ周り首を落としました。
これにより北畠具行は最後を迎えています。