名前 | 宮之奇(きゅうしき) |
生没年 | 不明 |
国 | 虞(春秋) |
年表 | 紀元前658年 晋に道を貸す虞公を諫める |
紀元前655年 虞の滅亡を悟り虞を去る | |
コメント | 虞の滅亡を予言した賢人 |
宮之奇は虞公に仕えた人物であり、晋の危険性を感じ取っていた人物です。
晋は荀息の策により、虞に対し虢を攻めたいから道を貸して欲しいと述べます。
しかし、宮之奇は虢が滅亡すれば、虞も晋に滅ぼされると考え、虞公を諫めました。
虞公は宮之奇の諫言を却下し、晋に道を貸してしまいます。
宮之奇の予言は的中し、虞は晋により滅ぼされる事となります。
今回は春秋時代に虞国にいた賢人である宮之奇の解説を行います。
史実では考えられませんが、宮之奇が秦で宰相となる、百里奚を推挙した話もあり合わせて解説します。
尚、晋が虞を滅ぼした事例は、兵法三十六計の仮道伐虢の元になった話でもあります。
晋に道を貸す
紀元前658年に、晋の献公は宿敵であった虢を討伐しようと考えました。
虢を攻めるには、虞を通る必要があったわけです。
この時に、晋の献公の謀臣である荀息は、屈地の馬と垂棘の璧を虞に贈り道を借りる様に進言しました。
荀息は虢を滅ぼした後に、虞を攻撃すれば、屈地の馬と垂棘の璧を虞から奪う事が出来る為、宝庫に保管する様なものだと述べたわけです。
しかし、虞国には賢臣として名が通っていた宮之奇がいた事で、晋の献公は荀息の策は成功しないと考えます。
晋の献公の口から宮之奇の名前が出る辺りは、宮之奇の賢さが近隣諸国に広まっていた事の表れなのでしょう。
荀息は晋の献公に対し、宮之奇に関しては、次の様に述べています。
荀息「宮之奇は惰弱な性格をしており、虞公に対して強く諫める事が出来ないはずです。
また、虞公と宮之奇は幼少の頃より共に育ち、君主と臣下で距離が近すぎる関係にあります。
宮之奇が虞公を諫めたとしても、虞公は宮之奇の意見に従わないでしょう。」
荀息は宮之奇の性格を読んでおり、策は上手く行くと考えたわけです。
晋の献公は荀息の意見に従い、荀息を虞に派遣しました。
宮之奇は虞公に対し、晋に道を貸すのは大反対しますが、宝物に目がくらんだのか虞公は晋に道を貸す事を了承しました。
虞公はそれだけに飽き足らず、自ら軍隊を派遣し、晋と共に虢を攻撃し、晋・虞連合軍は虢の副都とも言える下陽を滅ぼす事に成功しています。
宮之奇から見れば、虢の下陽の陥落は、虞の滅亡に王手を掛けた状態だと感じたはずです。
宮之奇が虞を去る
唇亡びて歯寒し
紀元前655年に、晋の献公は再び虞に道を借りて、虢を攻撃しようと考えました。
宮之奇はここで晋が虢を滅ぼせば、次は虞が晋に滅ぼされると考えたのか、虞公に対して次の様に述べています。
宮之奇「虢と虞は表と影の関係にあり、虢が滅亡すれば虞も滅亡するのです。
晋の虞を滅ぼす野望に加担する必要はありませんし、外国の兵を甘く見てはいけません。
晋に道を貸すのは一度でも酷いのに、二度も道を貸すとは言語道断です。
諺に『輔・車は相依り、唇亡びて歯寒し』とございます。
これは、虞と虢の関係を言ったものです。」
宮之奇は荀息には惰弱な性格だと言われましたが、この時は虞公に対し強く諫めたのでしょう。
尚、輔・車は相依りは車は二つの車輪があって成立すると述べた諺であり、唇亡びて歯寒しは唇が亡くなれば歯が寒くなる意味です。
宮之奇は虢と虞はお互いがいなければ成立しないし、虢が滅びれば、次のターゲットは虞になると言いたかったのでしょう。
因みに、宮之奇の口から出た「唇亡びて歯寒し」は史記や春秋左氏伝、戦国策などによく出る言葉でもあります。
同姓の国であれば安全!?
宮之奇は虞公を諫めますが、虞公は晋に対し危機感を持っておらず、次の様に答えました。
虞公「晋と虞は同姓の国である。晋が同姓の国である虞を害すはずがない。」
虞公の言葉を聞いた宮之奇は呆れた可能性もありますが、虞も虢も周の文王と関係がある姫姓の国である事を指摘し、次の様に述べています。
虞公「虞の始まりは周の文王の父親・季歴の、兄である太伯と虞仲であり、姫昌(周の文王)を後継者にする為に、呉に出奔した者達です。
虢の始まりは、周の文王の弟である虢仲、虢叔であり、兄の文王を補佐し天下に功績がありました。
虢仲や虢叔の功績は盟府に保管されています。
その虢さえも、晋は滅ぼそうとしているのです。
晋が虞に対し同情するはずもありません。
さらに、晋の献公は桓叔、荘伯の一族も滅ぼしております。
虞が幾ら晋と親しくしても、晋から見れば所詮は外国であり、滅ぼされない理由はありません。」
虞公は晋と虞は同姓の国であり、滅ぼされないと考えたのですが、宮之奇は虢も晋と同姓の国であり、晋が虢を攻めるのであれば、虞も攻められると述べた事になります。
さらに、晋の献公は晋の公室の一族である桓叔、荘伯であっても、邪魔だと感じれば滅ぼす事が出来る様な人であり、とても晋を信頼する事は出来ないと考えたのでしょう。
宮之奇は虞公に対し「現状を見ろ」と言いたかったに違いありません。
鬼神は人に親しまず
宮之奇は晋に道を貸せば、必ず虞は滅ぼされると述べますが、虞公は次の様に述べています。
虞公「私は祭祀の供物は豊かに選び抜いておるし、神霊は我らに味方するはずである。」
虞公は自分が祭祀をちゃんと行っているから、決して不幸な事は起きないと述べた事になります。
現代人から見れば滑稽は話ではありますが、春秋時代の人の考え方の一環を指している様にも感じます。
宮之奇は虞公に対し、次の様に述べています。
宮之奇「鬼神は人に親しむ事はなく、徳のみぞ降ると聞いております。
周書にも『皇天に私心なし、徳ある者を輔ける』とも書かれております。
徳が無ければ民は和合しませんし、神も祭祀を受ける事はありません。
神を頼りに出来るのは徳がある人だけなのです。
もし晋が虞を滅ぼし徳を広め供物を捧げれば、神は供物を拒否したりはしないでしょう。」
宮之奇は虞公に対し、祭祀をちゃんと行っている事は役には立たないと述べた事になるでしょう。
しかし、虞公は宮之奇の諫めを聞かず進言を却下しました。
虞公は晋に道を貸す事を了承する事になります。
虞の滅亡
宮之奇は虞公が自分の意見に従わない事が分かると、一族を率いて虞を去る事になります。
宮之奇は自分の子らに「虞公には信と忠がない」とも述べて虞を去った話も存在します。
宮之奇は虞を去る時に、次の様に述べた話があります。
宮之奇「虞は年末まで持つ事はないであろう。
今度の出撃で晋は二度と出兵する必要はなくなるはずだ。」
宮之奇は「虞は今年中に滅亡する」と予言した事になります。
宮之奇の予言は的中し、晋は上陽を陥落させ虢を滅ぼすと、そのまま虞に駐屯し虞を急襲して滅ぼしてしまいました。
尚、虞公は捕虜にされた様ではありますが、命は助かったのではないかとする話があります。
虞を去った宮之奇ですが、その後に記録がなく、どの様な最後を迎えたのは分かっていません。
一族を連れてどこに逃げたのかも分からない状態です。
それでも、宮之奇の名は広く知られていたと思われ悪名もない事から、受け入れてくれた国はあった様に思います。
宮之奇が百里奚を推挙
東周列国志の中に、宮之奇が百里奚を推挙した話があります。
東周列国志だと蹇叔は、宮之奇の友人という設定となっており、百里奚と蹇叔は宮之奇を頼って虞国に行く事となります。
蹇叔は百里奚の事を宮之奇に語ると、宮之奇は百里奚を高く評価し、虞公に推挙したわけです。
虞公は宮之奇が推挙した百里奚を中大夫に任命した話があります。
蹇叔はこの後に、虞公に疑問を持ち虞を去りますが、百里奚はそのまま虞に仕えた話があります。
尚、宮之奇は虞が滅びる前に、虞を去りましたが、百里奚は虞公と共に晋軍に捕らえられた話もあります。
東周列国志は物語であり、どこまで信用できるかは不明ですが、宮之奇が後に秦の穆公に仕え、名宰相と呼ばれる百里奚を推挙した話があると言う事です。
宮之奇の評価
宮之奇は知者である事は間違いないでしょう。
しかし、人間関係において距離が近すぎると、意見を聞いて貰えないという話しにもなっている様に思いました。
前漢の劉邦が死去した後に、呂后が実権を握りますが、陸賈が陳平に相談に行った話があります。
この時に陸賈は陳平に自分と周勃は距離が近すぎて話を聞いてくれないと述べた話があり、人間は親しくし過ぎてしまうと、相手を軽く見る傾向があるのでしょう。
宮之奇の場合は、虞公と共に育った事もあり、難しい面もあるかも知れませんが、親し過ぎたのも問題だったと言えます。
宮之奇は晋、斉、楚、秦などの大国に仕えていれば、もっと活躍出来た様にも感じました。
宮之奇の性格は智はあっても、勇がない部分もあった様に思います。
参考文献:岩波文庫・春秋左氏伝(上) ちくま学芸文庫・史記3世家(上)など