名前 | 微叱己知波珍干岐 |
読み方 | みしこちはとりかんき |
登場 | 日本書紀 |
コメント | 大和王権への人質となる |
微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)は日本書紀に登場する新羅人で、大和王権への人質となりました。
微叱己知波珍干岐は古事記には登場しません。
人質として倭国に連行された微叱己知波珍干岐ですが、後に新羅王が派遣した汙礼斯伐・毛麻利叱智・富羅母智らが機転を利かせた事で、新羅に戻る事が出来たわけです。
今回は新羅から倭国への人質となった微叱己知波珍干岐を解説します。
尚、日本書紀では微叱己知波珍干岐は複数の名前で記録されています。
下記は微叱己知波珍干岐のその他の呼び方ですが、全て同一人物として考えられています。
表記 | 読み方 |
微叱許智伐旱 | みしこちほっかん |
微叱旱岐 | みしかんき |
許智伐旱 | こちほっかん |
微叱智 | みしち |
大和王権の人質となる
神功皇后は仲哀天皇の死後に武内宿禰らと、新羅討伐を行いました。
神功皇后の神懸かり的な奇襲の前に新羅王は対処する事が出来ず、降伏しています。
この時に新羅王の波沙寐錦は降伏し、微叱己知波珍干岐を日本軍への人質としました。
波沙寐錦と微叱己知波珍干岐の関係は不明ですが、人質になる位ですから親族の一人だった可能性が高いと言えるでしょう。
神功皇后は新羅からの貢物を受け取ると、倭国に戻りますが、微叱己知波珍干岐もそのまま倭国に連れていかれる事になります。
神功皇后は忍熊王と香坂王の乱を鎮圧すると、自らの子である応神天皇を皇太子とし自らは摂政となりました。
新羅王の配慮
日本書紀によれば神功皇后の5年に新羅王は汙礼斯伐・毛麻利叱智・富羅母智を派遣し、倭国への朝貢の使者としました。
新羅王はこの時に微叱己知波珍干岐を取り返そうとしたとあります。
新羅王は策を練り汙礼斯伐らには、微叱己知波珍干岐に次の様に言わせています。
※日本書紀より
微叱己知波珍干岐「新羅から使者である汙礼斯伐や毛麻利叱智らが、次の様に述べています。
『わが王は私が長らく帰らないので、妻子を没収して官奴にしてしまいました』
私はこの事が本当なのか、真実を調べたいと考えております」
微叱己知波珍干岐は家族が心配だと告げて、神功皇后に帰国を願ったわけです。
神功皇后は微叱己知波珍干岐の帰還を認めますが、ここで葛城襲津彦を付き添いとして新羅に向かわせる事にしました。
微叱己知波珍干岐、葛城襲津彦、汙礼斯伐・毛麻利叱智・富羅母智らの一行は新羅に向かいました。
新羅への帰還
微叱己知波珍干岐らは新羅に向かいますが、密かに別の船を用意していました。
ここで毛麻利叱智らは機転を利かせ、密かに別の船で微叱己知波珍干岐を新羅に帰還させています。
毛麻利叱智らは葛城襲津彦には見つからない様に、病気と称し草の人形であたかも微叱己知波珍干岐がいるかの様に見せかけました。
これにより微叱己知波珍干岐は無事に新羅に帰還出来たわけです。
ただし、最終的に葛城襲津彦にバレてしまい汙礼斯伐・毛麻利叱智・富羅母智らの三名は処刑されています。
微叱己知波珍干岐は新羅に帰った様ではありますが、この先、どの様になったのかは不明です。