名和長年は伯耆国の豪族だったとも武装商人だったとも考えられています。
後醍醐天皇が元弘の乱で隠岐に流されますが、脱出し助けを求めたのが名和長年です。
名和長年は後醍醐天皇を迎え入れ船上山の戦いで隠岐守護の佐々木清高を破りました。
これにより足利尊氏が朝廷軍に寝返り最終的に討伐は成し遂げられたわけです。
後醍醐天皇による建武の新政が始まると名和長年は楠木正成、結城親光、千種忠顕と共に三木一草と呼ばれる寵臣となります。
足利尊氏が中先代の乱で建武政権から離脱後の戦いで名和長年は討死しました。
名和長年は最後まで後醍醐天皇に仕え最後を迎えた忠臣だと言えるでしょう。
尚、名和長年が倒幕の大功労者だという事は疑いの余地はありませんが、活躍した期間は僅か3年ほどしかありません。
名和長年の解説動画も作成してあり、記事の最下部から視聴できる様になっています。
名和長年の出自
名和長年は伯耆国の長田荘の長田行高の子だとされています。
伯耆の名和荘を本拠地とし商業を行っていた武士だとされていますが、不明な点も多いです。
名和長年は村上源氏の後裔だともされていまが不明な点も多いと言えるでしょう。
商業で利益を得ていたのか太平記や梅松論などに名和長年の一族が繁栄していた事が書かれています。
名和長年は海上交易で利益を得ていた武装商人だったとも考えられています。
名和長年は楠木正成と同様に上級武士ではなかったため、分かっている事が極端に少ないと言えるでしょう。
船上山の戦い
後醍醐天皇との出会い
後醍醐天皇は笠置山の戦いで捕虜となり、鎌倉幕府により千種忠顕や阿野廉子らと共に隠岐に流されました。
これまでの名和長年は表舞台に出る事もなく、普通に商業をしていたと考えられています。
後醍醐天皇は隠岐に流されますが護良親王と楠木正成が挙兵し、幕府軍は乱を鎮める事が出来ず手を焼く事になります。
こうした中で後醍醐天皇が隠岐を脱出し伯耆国までやってきました。
後醍醐天皇は名和長年に協力を申し入れ、名和長年は自らの館に火を放ち後醍醐天皇と共に船上山に入る事になります。
太平記によると、この時に名和長年は輿を用意する事が出来ず、後醍醐天皇を背負って船上山にまで送り届けた話があります。
名和長年の苦悩
後醍醐天皇を受け入れる事にした名和長年ですが、そこには苦悩があったと考えられています。
後醍醐天皇の身柄を鎌倉幕府に引き渡せば恩賞を貰えるはずであり、逆に後醍醐天皇に味方すれば、鎌倉幕府の攻撃により滅ぼされる可能性もあったわけです。
承久の乱では後鳥羽上皇が鎌倉幕府の軍勢に敗れ配流されており、朝廷は幕府に軍事力では敵わない事は明らかでした。
さらに、鎌倉時代の後期には両統迭立や文保の和談など鎌倉幕府の意向が朝廷に大きな影響力を持ち、朝廷の意向だけで天皇を決められる様な状態でもなかったわけです。
こうした事情もあり、名和長年は後醍醐天皇を受け入れるのはギャンブル要素が強かったと言えるでしょう。
しかし、名和長年の一族は後醍醐天皇に味方する道を選びました。
名和長年の巧みな采配
名和長年は私財を放出し民衆に兵糧を船上山まで届けさせました。
船上山の戦いで名和長年が敗れれば一族滅亡であり、家財を残しても仕方がないと考え全て放出してしまった可能性もあります。
幕府軍の隠岐守護である佐々木清高が船上山に攻め寄せてきますが、名和長年の守りは固く崩せなかったわけです。
船上山は三方を山に囲まれた険阻な地形であり、隠岐勢の攻撃を寄せ付けませんでした。
名和長年は船上山の戦いで佐々木清高を破り、小浪城の戦いで勝利し佐々木清高を伯耆から駆逐しています。
船上山の戦いで名和長年の武勇は天下に鳴り響きました。
鎌倉幕府の軍勢は近畿では楠木正成が籠る千早城を落す事が出来ず、船上山の戦いでは名和長年の采配の前に敗れ去ったわけです。
さらに、足利尊氏や新田義貞が寝返り六波羅探題と鎌倉幕府を滅ぼしてしまいました。
歴史を変えた船上山の戦い
船上山の戦いで名和長年が佐々木清高に敗れていたら、足利尊氏の寝返りは無かったのではないかとする説があります。
実際に名和長年が後醍醐天皇を捕え鎌倉幕府に引き渡していたら、建武の新政は無かったはずです。
後醍醐天皇が捕虜になったのであれば、足利尊氏も寝返る事はなく幕府軍の士気は多いに上がり、楠木正成が籠る千早城も陥落させていたのかも知れません。
これらを考えると名和長年の決断が歴史を変えており、鎌倉時代最末期の重要人物でもあるはずです。
破格の恩賞
鎌倉幕府が滅亡し後醍醐天皇が京都に戻り建武の新政が始まりますが、太平記によると名和長年は伯耆と因幡の二カ国を与えられました。
さらに、名和長年は従四位下に叙されています。
千早城に籠った楠木正成が従五位下であり、位階において楠木正成よりも上となったわけです。
楠木正成の千早城の戦いは後醍醐天皇は直に見ておらず遠くの戦いとなりましたが、船上山の戦いではすぐ近くで戦っている名和長年の采配を目撃しており、後醍醐天皇は楠木正成よりも名和長年の評価を上としたのかも知れません。
足利尊氏は正三位となり名和長年よりも上の存在となっていますが、無位だった名和長年に比べ足利尊氏は上級武士であり、仕方がない部分もあったのでしょう。
名和長年は建武政権では雑訴訟決断所、記録所、恩賞方、武者所に名前を連ねています。
東市正
1334年の9月頃から名和長年は建武政権で東市正(ひがしいちのかみ)に任じられていた事が分かっています。
東市正は過去には平安京の商業を管理する役職であり、検非違使の中原氏が世襲して来た役職です。
商業から生まれる富は莫大だったとも考えられており、後醍醐天皇は大事な役目を名和長年に与えた事になります。
名和長年自身も伯耆では商業で大きな利益を上げていたとされており、後醍醐天皇は商業に精通した名和長年を東市正に任命したのでしょう。
東市正の職務の一つとして京都警護の任務もあったのではないかと考えられています。
三木一草
建武政権で名和長年は楠木正成、結城親光、千種忠顕と共に三木一草と呼ばれ後醍醐天皇の寵臣となります。
梅松論では名和長年らを「朝恩に報いる事、傍若無人ともいいつべし」とも批判されており、世間から注目される存在となったわけです。
三木一草の千種忠顕は建武政権では活躍出来なかった様ではありますが、名和長年は佐々木高貞らと内裏の警備をするなどし活躍しました。
鞍馬寺の事件では名和長年が反乱者を捕える様に命じられています。
護良親王捕縛事件
護良親王は鎌倉幕府打倒の中心人物でもあり、功績は絶大であり征夷大将軍に任命されました。
しかし、足利尊氏との対立や部下の制御が出来なかったなどもあり、令旨の停止や征夷大将軍の身分も剥奪されています。
護良親王は足利尊氏の暗殺も企てていたとされていますが、清涼殿の詩会に参加する時に、名和長年と結城親光により捕らえられました。
後醍醐天皇は名和長年と結城親光に護良親王の捕縛を命じたとされています。
この事から名和長年や結城親光は後醍醐天皇の命令を忠実に実行するものだったとも考えられています。
名和長年らに捕らえられた護良親王ですが、鎌倉に流され足利直義により殺害されました。
間違って西園寺公宗を処刑
鎌倉時代の西園寺家は朝廷と鎌倉幕府の橋渡し役である関東申次になる事で権勢を得ていました。
しかし、鎌倉幕府が滅びてしまった事で威勢は衰え西園寺公宗には苦悩があったわけです。
こうした中で西園寺公宗は北条泰家に接近し後醍醐天皇の暗殺を企てました。
後醍醐天皇暗殺計画は弟の西園寺公重の密告により失敗に終わり、西園寺公宗は捕らえられてしまいます。
西園寺公宗は中院定平に預けられますが、出雲に配流される事が決定しました。
ここで中院定平は「早く」と述べ直ぐに配流先に送らせようとしますが、名和長年は「早く」を「早く処刑せよ」と勘違いし、西園寺公宗を妻の前で処刑してしまった話があります。
北畠親房の神皇正統記には西園寺公宗が高師直と楠木正成により捕らえられ、名前が記載されていませんが、西園寺公宗が間違って処刑された事が書かれています。
西園寺公宗が誤って処刑されてしまい間違って処刑してしまったのが、名和長年だと考えられるわけです。
瀬田の戦い
1335年になると北条時行による中先代の乱が勃発し、足利尊氏が鎮圧のために東国に向かいますが、そのまま建武政権から離脱しました。
足利尊氏は鎌倉で論功行賞を始め後醍醐天皇は新田義貞に鎌倉討伐を命じています。
箱根竹ノ下の戦いで新田義貞が敗れた事で、足利尊氏は近畿にまで兵を向ける事になります。
名和長年は足利軍を防ぐために、千種忠顕や結城親光と共に瀬田に陣を布きました。
名和長年らは足利直義や高師直を相手に奮戦しますが、近畿での戦いは全体的にみれば不利であり、後醍醐天皇も京都を出て東坂本に移ったとする話を聞き内裏に兵を引いています。
名和長年の涙
内裏に向かった名和長年ですが、敵の追撃もあり疲弊しながらも内裏に辿り着く事になります。
太平記によると、この時の名和長年は荒廃した内裏を見て涙を流し、敵に荒されるよりはマシと考え内裏に火を放ちました。
名和長年は後醍醐天皇を追い東坂本に向かう事になります。
太平記の別バージョンでは内裏に火を放ったのは四国や西国の兵という事になっています。
尚、内裏が焼けた時に近くにあった公卿や楠木正成、結城親光、名和長年の家まで燃えてしまった話があります。
これらの事から内裏の近くに楠木正成、結城親光、名和長年らが住んでいた事になります。
三木一草の面々は後醍醐天皇に何かあった時でも対応できるように、近場に住んでいたと考える事も出来るはずです。
三木一草の面々は後醍醐天皇の親衛隊とも呼べる立場だった事は明らかです。
足利尊氏が京都を占拠し、結城親光が亡くなりました。
しかし、奥州から北畠顕家や結城宗広らの援軍がやってきて形勢が逆転し、足利尊氏は赤松円心の進言により九州に落ち延びています。
三木一草最後の一人
足利尊氏は多々良浜の戦いで菊池武敏に勝利し九州勢を味方に付け短期間で復活し上洛戦争を起こしています。
楠木正成と新田義貞は湊川の戦いで敗れ、楠木正成は討死しました。
三木一草の2番目の犠牲者が楠木正成だったわけです。
後醍醐天皇は比叡山に移り足利軍が京都に乱入し激しく争う事になります。
足利直義と千種忠顕の間で雲母坂の戦いが勃発しますが、この戦いで千種忠顕が戦死し三木一草は名和長年だけが生き残りました。
しかし、名和長年の最後も確実に近づいていたわけです。
名和長年の最後
太平記では名和長年が比叡山から出撃し近江の白居を通り過ぎた時に、女童部が名和長年を見て次の様に歌ったと言います。
※戎光祥出版 南北朝武将列伝南朝編より引用
この比、天下に結城、伯耆、楠木、千種頭中将とて、三木一草と云いはれて、あくまで朝恩に誇りたる人々なりしが、三人は討死して、伯耆守一人残りたる事よ
女童部の言葉を聞いた名和長年は次の様に述べています。
名和長年「自分が今まで討死しないのを見て世の人々は不甲斐ないと言っている。
それ故に、女・子供までかように言うのであろう。
今日の合戦で見方が負ける様な事があっても、自分だけはその場に留まり討死してやろう」
太平記では名和長年は決死の覚悟で戦場に向かった事になります。
梅松論によると足利尊氏が京都を占拠し、名和長年は新田義貞と共に足利軍への総攻撃を仕掛けました。
この戦いは激戦であり、名和長年は大内裏跡の内野で戦い三条猪熊辺りで豊前国の草野左近将監により討ち取られたと伝わっています。
名和長年が亡くなった事で、三木一草は全員が命を落としました。
尚、太平記の女童部と名和長年の話は余りにもよく出来ており、創作だとも考えられています。
それでも、京都を巡っての戦いで名和長年が命を落とした事は間違いないのでしょう。
名和長年は何の為に戦ったのか
名和長年は後醍醐天皇に忠義を尽くして戦った様に見えますが、何の為に戦ったのかは生駒孝臣先生の次の言葉が的確だと感じています。
※戎光祥出版・南北朝武将列伝南朝編326ページより
長年の一連の後醍醐への奉仕は、後醍醐に対する「忠」というよりも、伯耆の片隅で埋もれるだけだった自分を、ここまで引き上げてくれた「恩」に報いる為だったのかも知れない。
名和長年は後醍醐天皇の恩に報いる為に戦ったと言うのが、しっくりくると感じています。
名和長年の子孫
室町幕府と持明院統の北朝と後醍醐天皇の南朝に分かれて戦う南北朝時代に突入しますが、子の名和長義は南朝に味方しました。
名和長年の孫の名和顕興は九州に移り懐良親王とも共闘しており、名和長年の子孫は戦国時代でも生き残っています。
名和長年の子孫は柳川藩に仕えるなどし、明治時代に名和長恭が華族となりました。
名和長年の子孫は500年以上も続いたと言えるでしょう。
名和長年の動画
名和長年のゆっくり解説動画となっています。
この記事及び動画は戎光祥出版の南北朝武将列伝・南朝編を元に記述しました。