名前 | 興良親王 |
読み方 | おきよししんのう |
生没年 | 1326年 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 祖父:後醍醐天皇、父:護良親王、弟:陸良親王 |
コメント | 関東王朝樹立構想があった |
興良親王は護良親王の子であり、弟には陸良親王がいます。
ただし、興良親王と陸良親王は同一人物説もあり、この辺りははっきりとしない部分でもあります。
興良親王は北畠親房に招かれて常陸で奮戦しますが、北畠親房と仲違いし小山朝郷の元に移りました。
小山朝郷は近衛経忠と組み関東王朝樹立構想があり、これに興良親王を組みこもうとしたのではないかと考えられています。
しかし、北畠親房が高師冬に敗れると暫くして興良親王も関東を離れ計画は頓挫しました。
護良親王の子
興良親王は護良親王の子です。
母親は北畠師重の娘で北畠親房の妹にあたる女性だとされています。
興良親王の母親の名前ははっきりとしない状態です。
父親の護良親王は鎌倉幕府を滅ぼす戦いで大きな功績を挙げましたが、建武の新政が始まると早々と干されました。
護良親王は後に足利直義がいる鎌倉に送られますが、北条時行の中先代の乱の時に殺害されています。
この時に、興良親王はまだ子供であり、ショックは大きかったのかも知れません。
興良親王と北畠親房
興良親王が常陸に入る
後醍醐天皇と足利尊氏が対立し、足利尊氏は室町幕府を起こし北朝を開きますが、後醍醐天皇は南朝を開いています。
ここにおいて南北朝時代が始まりますが、南朝では早い段階で楠木正成、北畠顕家、新田義貞などの有力武将が世を去りました。
後醍醐天皇は結城宗広の策に従い大船団を組織し、地方から挽回を企てますが、南朝の大船団は嵐により壊滅し、それから間もなく後醍醐天皇は崩御しました。
南朝の大船団は壊滅しましたが、北畠親房や伊達行朝などは常陸にまで辿り着き小田治久の支援を得る事になります。
こうした時期に興良親王は南朝の皇族として常陸に入りました。
興良親王の母親の兄が北畠親房であり、北畠親房は血統も近い興良親王を常陸に呼び寄せたのでしょう。
興良親王からみて北畠親房は伯父となります。
北畠親房との決別
北畠親房や興良親王は常陸で奮戦しますが、北畠親房の結城親朝らの勧誘が上手くいかず苦しい立場となります。
幕府軍の高師冬に南朝の軍は押され、小田治久までもが北朝に鞍替えしました。
こうした中で北畠親房は新たなる皇族を常陸の国に迎え入れようとしたわけです。
北畠親房が迎え入れようとした皇族の名前ははっきりとしませんが、これに怒ったのが興良親王となります。
興良親王は自分が権威であり「他の皇族など必要ない」と感じたのかも知れません。
これにより北畠親房と興良親王による対立が起きます。
当時の興良親王は大宝城にいましたが、小山朝郷の元に奔りました。
北畠親房の興良親王への想い
北畠親房は出て行ってしまった興良親王に対し「粗忽の振る舞い」や「出て行っても惜しいとは思わない」などの辛辣な事を述べた手紙が残っています。
これだけを見ると北畠親房は怒っている様に思うかも知れませんが、別の手紙では「室町幕府が興良親王の身柄を引き渡す様に要求した話を聞き心配している」と述べています。
北畠親房にしてみれば「裏切られた」という気持ちもあれば「甥の事が心配だ」とする気持ちもあったのでしょう。
愛憎入り混じった感情が北畠親房の手紙から読み取る事が出来ます。
関東王朝樹立構想
当時の京都には近衛経忠がおり、藤氏長者であった事から関東の藤原氏に声を掛けて天下を狙っていました。
小山氏、小田氏、宇都宮氏、結城氏などは元は藤原氏であり、近衛経忠が声を掛けたわけです。
藤原氏の一族は藤氏一揆と呼んだりもします。
近衛経忠は藤氏一揆らと共に、自らが天下を取り小山朝郷には坂東管領に就任させる予定でした。
坂東管領及び鎮守府将軍を目指す小山朝郷にとってみれば、後醍醐天皇の孫で護良親王の子である興良親王は価値がある存在に見えたのでしょう。
興良親王を権威とし京都の近衛経忠、関東の小山朝郷で関東王朝樹立構想があったのではないかとも考えられています。
関東からの撤退
この時に幕府では鎌倉府の足利義詮を補佐する上杉憲顕と高師冬の関係が上手く言っておらず、チャンスでもありました。
中央での足利直義と高師直の対立が関東にまで波及し、上杉憲顕は積極的に高師冬を助けなかったわけです。
しかし、南朝でも北畠親房と南朝分派の興良親王、小山朝郷の対立があり南朝方も一枚岩とはいきませんでした。
元々南朝の方が戦力的に劣勢であり、北畠親房が関城を出て吉野に戻り、それから間もなく興良親王も関東を去った話があります。
興良親王も関東王朝樹立構想なる壮大な計画があっても失敗に終わったと言えるでしょう。
先に述べた様に興良親王と陸良親王の同一人物説があり、これが本当であれば興良親王は赤松円心の子の赤松氏範と共に南朝の後村上天皇を打倒しようと挙兵し失敗した事になります。