李左車は史記にも登場する実在の人物であり、春秋戦国時代に活躍した趙の名将である李牧の子孫です。
李牧は幽繆王に殺されてしまうわけですが、子孫は生き残っていた事になります。
李牧の息子は李汨といい、その息子が李左車となります。
今回は李牧の子孫である李左車を紹介します。
李左車が秦の末期に何をしていたのかは分かりません。
胡亥や趙高が暴政を働いていた頃は、在野の士だった可能性もあるでしょう。
尚、李左車の父親である李汨も何をしていたのか記録がないわけです。
それでも、李左車が趙の陳余の配下にいると言う事は、秦の王離や章邯が趙の鉅鹿を囲んだ鉅鹿の戦いの時には、趙歇や張耳と共に城に籠城していた可能性もある様に思います。
李左車が登場するのは、項羽が秦を滅ぼし諸侯に封土を与えましたが、世の中は乱れて群雄割拠状態になってからです。
キングダムという漫画がありますが、こちらは秦が天下統一して終わりだと思いますので李左車は出てこないのではないかと感じています。
しかし、史実の李左車は李牧譲りの智謀を持っていたようです。
もしかしてですが、李左車の家には、李牧の兵法書なるものがあったのかも知れません。
陳余に進言する
李左車の登場シーンは、趙王歇と陳余が趙を守っていた時です。
劉邦の命令で進軍してきた韓信を迎え撃つ時に陳余に進言しています。
李左車は自分に3万の軍勢を与えてくれれば、漢(劉邦軍)の背後に回り込み糧道を立ち、それにより戦いに勝つことが出来ると進言しました。
しかし、陳余というのは、野戦に滅法強く猪武者のように突っ込んで行く性質だったわけです。
つまり、策を好まずに正々堂々と突っ込んで勝つタイプの将軍です。
戦いに正義を持ち込み策を弄ずる様な人物ではありませんでした。
陳余の性格的な問題により李左車の意見は却下された話があります。
李左車の意見を用いられない事が韓信に伝わると、韓信は喜んだそうです。
広武君李左車は、当時から軍略などでは一部の間では、凄く評価されていたのでしょう。
陳余と韓信の戦い
陳余と韓信の戦いが始まると、韓信は背水の陣で河を背にして戦います。
韓信軍は逃げ場がないため必死になって防戦するわけです。
その間に、別動隊が陳余の後方を立ち趙軍(陳余側)は大混乱に陥り韓信の大勝利に終わりました。
この戦いを井陘の戦いと呼ぶのですが、趙王歇は捕虜となり斬られ、陳余は戦死しました。
李左車も捕らえられたのですが、韓信は李左車を高く評価していて軍師と仰いでいます。
敗軍の将、兵を語らず
韓信に捕らえられた時に韓信は李左車に意見を求めています。
しかし、李左車は答えようとしませんでした、なぜ答えないのか韓信が訪ねたところ「敗軍の将、兵を語らず」と語ったそうです。
韓信は李左車を高く評価していた事で意見を求めます
その時に韓信が、「虞(国名)は百里奚を用いなかったが、秦は百里奚を用いて覇者になった。」
「趙が戦いに敗れたのは、陳余が李左車の意見を聞く耳を持たなかったからだ」と言います。
そこで、李左車は韓信に燕や斉をどのようにして攻略するのかを指南したとされています。
・韓信の兵は疲れているので休ませる事
・趙で大きな戦果を挙げ過ぎた為、韓信に斉や燕は恐れをなしていること
・趙の遺民に対して施しを行い趙の民を手名付けて燕を攻める
・同様な方法で斉を攻める
このような事を進言したそうです。
韓信は李左車の策を取り入れて燕王臧荼を服属させています。
その後の李左車
これを最後に李左車は史実から登場しなくなります。
一切の行動が分かりませんし、韓信の元にいたのかも分かりません。
もちろん、死亡した年も分かりませんし、劉邦が天下を取った時に役職を任命された可能性もあるでしょう。
この後、韓信は項羽に敗れた劉邦や軍師の陳平が乗り込んできて、印綬を取られてしまい指揮権を剥奪されてしまいます。
わずかな兵士を与えられて斉を攻略しなければならなくなってしまうわけです。
韓信と龍且の斉での決戦でも名前が登場しないのです。
劉邦の傲慢な態度に嫌気がさし、李左車は逃亡してしまったのかも知れません。
それか韓信もしくは、張耳(新しい趙王)の元にいた可能性もあるでしょう。
劉邦に従った可能性も考えられます。
しかし、李左車は劉邦に嫌気がさして逃亡したような気もするんです。
というのは、劉邦は項羽を倒して天下統一してしまうと、次々に功臣たちを粛清していきます。
楚王になった韓信や彭越や黥布も粛清されているのです。それを見越して逃亡した可能性もあるでしょう。
竹馬の友である燕王盧綰も劉邦の元を逃亡し匈奴に亡命していますし、功臣である張良、蕭何、陳平などは処刑される事はありませんでしたが、劉備に関してかなり気を遣った話が残っています。
陳余みたいに正々堂々とやるタイプであれば、安全に感じるかも知れませんが、劉邦だとそうは行きません。
劉邦の性格を危険視して、李左車は漢を去った事も考えられるでしょう。
歴史のIFになってしまいますが、陳余があそこで李左車の言う事を聞いていれば、違った展開があったかと思います。
李左車は李牧に負けず劣らずの策士だと私は思っています。
尚、李左車の子孫がどうなったのかは私は分かりません。また、分かったら記事にしたいと思います。
三国志などで李牧か李左車の子孫を名乗る人を注意深く探ってみたいとも考えています。