名前 | 劉冑(りゅうちゅう) |
生没年 | 生年不明ー233年 |
時代 | 三国時代、三国志 |
所属 | 南方の異民族 |
年表 | 233年 南方で反乱を起こす |
画像 | ©コーエーテクモゲームス |
劉冑は正史三国志の蜀書・張翼伝などに記録がある人物です。
劉冑は南方の異民族であり、正史三国志に伝はありません。
諸葛亮の南征が終わると、張翼が南方を統治する事になりますが、張翼の治め方がまずかったのか劉冑は反旗を翻しました。
蜀の朝廷でも張翼に非があると考えたのか、馬忠と変わらせています。
劉冑は馬忠と戦いますが、張嶷の活躍もあり、ここで命を落し亡くなっています。
今回は蜀の南方で反乱を起こした劉冑の解説をします。
尚、劉冑は三国志演義には登場しません。
反乱を起こす
正史三国志の蜀書・張翼伝によれば、劉冑は異民族の頭目だったと書かれています。
諸葛亮は南征が終わると張翼に南方を任せますが、劉冑は張翼のやり方に不満を持ったのか反旗を翻しました。
劉冑は張翼が赴任してから2年目に反旗を翻す事となります。
正史三国志には劉冑が反乱を起こした理由が書かれておらず、正確な部分は不明です。
しかし、張翼伝に張翼は厳格な人であり、法律通りに施行した話があります。
それを考えると張翼が土地の風習にあった政策を行わず、蜀の法律に従った事が原因だとも考えられます。
異民族の地は反乱がおきやすい地ではありますが、張翼の統治にも問題があったのでしょう。
馬忠に敗れる
劉冑は反乱を起こし、張翼は討伐に出向きました。
しかし、蜀の朝廷でも張翼の異民族統治が問題になっていたのか、張翼を召し出し馬忠に変わらせようとします。
張翼の部下達は、張翼が異民族統治の失敗を理由に罰せられるのではないか?と考え、急いで蜀の朝廷に戻る様に進言しました。
しかし、張翼は劉冑と対峙している最中であり、次の様に述べ蜀の朝廷には向かいませんでした。
※正史三国志張翼伝より
張翼「私が都に呼び戻されたのは、蛮族が騒ぎ立てて職務に耐える事が出来ないと考え都に呼び戻されたのである。
しかし、後任者(馬忠)は未だに戦場に到着していない。
私は戦場に挑んでいるし、兵糧の輸送と穀物の蓄積を行い賊(劉冑)を殲滅する為の基礎を構築しておく必要がある。
職務を解かれるからと、任務を放棄してよいはずがない」
張翼は後任の馬忠が到着するまでの期間は戦場に残り、劉冑との対峙を続けたわけです。
劉冑は戦いの準備を怠らない張翼を倒す事が出来ず、張翼と馬忠が交代となりました。
馬忠は異民族討伐のプロフェッショナルでもあり、馬忠が到着すると劉冑も耐えきる事が出来ず、張嶷の活躍もあり劉冑は斬られました。
劉冑はここで最後を迎え反乱は失敗したと言えるでしょう。
尚、劉冑と最初に対峙した張翼は後に蜀の武の中心人物の一人となり、姜維の北伐にも参加し劉禅の降伏による蜀の滅亡まで生き抜く事となります。
劉冑を破った馬忠は南方で乱が起きるたびに派遣され、費禕が政務を執る時代に亡くなっています。