西園寺寧子(広義門院)は後伏見上皇の後宮に入り光厳天皇や光明天皇の母親となった人物です。
崇光天皇や後光厳天皇は孫となります。
南朝が正平一統を破棄し、京都を占拠すると光厳、光明、崇光、直仁らを賀名生に連れ去りました。
室町幕府では北朝を再興しようとしますが、この時に後光厳天皇を上皇の代わりに指名したのが西園寺寧子です。
西園寺寧子は渋々引き受けたわけですが、彼女のお陰で北朝は復活しました。
1357年に光厳上皇らが京都に帰還すると間もなく亡くなっています。
今回は三代の国母と呼ばれた西園寺寧子を解説します。
西園寺寧子の誕生
西園寺寧子の父親は西園寺公衡であり、この点ははっきりとしています。
女院次第によると母親は「従一位藤(藤原兼子)」とあり、名門出身の女性を匂わす様な事が書かれています。
ただし、尊卑分脈には「家女房、左馬助光保女」と記録されており、出身は下級公家だともされているわけです。
実際の所、西園寺寧子は摂関家庶流の身分の低い公家の娘でしたが、西園寺寧子が天皇の后となり従一位の高位を与えられたのでしょう。
西園寺家は鎌倉幕府と京都の朝廷の取り次ぎ役として名を馳せた家柄であり、大覚寺統と持明院統の両方に接近しました。
西園寺寧子が成長し父親の西園寺公衡は、持明院統に嫁がせる方向で行く事になります。
後宮に入る
嘉元四年(1306年)2月に西園寺寧子は15歳になっており、後伏見上皇の後宮に入りました。
西園寺寧子は後宮の女御となり、将来的には皇子の出産を期待されたわけです。
1308年に大覚寺統の後二条天皇が病により崩御しました。
これにより持明院統の傍流である花園天皇が践祚し、伏見上皇による院政が始まる事になります。
後二条天皇の崩御により持明院統の治世となっていましたが、当時の持明院統では花園上皇に続く男児がおらず、西園寺寧子にも男児の誕生が待望された事でしょう。
花園天皇の准母
西園寺寧子は18歳の時に花園天皇の准母となります。
西園寺寧子が准母となったのには理由があり、後伏見上皇には子がなく仕方がなく、弟の花園天皇が猶子となり即位しています。
後伏見上皇は花園天皇を中継ぎの天皇として位置付けており、自ら子が生まれたら、その子を後継者にする様にとしました。
こうした理由もあり、立場的には花園上皇は後伏見天皇の子となり、西園寺寧子が准母になったという事なのでしょう。
この時から、西園寺寧子は広義門院とも呼ばれる事になります。
国母となる
西園寺寧子は正和元年(1313年)に量仁親王(光厳天皇)を出産しました。
持明院統では待ちに待った後継者が誕生した事になるでしょう。
後の事を考えれば、この時点で西園寺寧子は国母になった事になります。
さらに、元亨元年(1321年)には豊仁親王(光明天皇)が誕生しました。
持明院統の後継者を二人も誕生させた事により、西園寺寧子の後宮での地位は不動のものとなります。
ただし、文保二年(1318年)に大覚寺統の攻勢により治天の君が後宇多上皇、天皇が後醍醐天皇、皇太子が邦良親王と大覚寺統が独占しました。
辛うじて西園寺寧子の子の量仁親王が次期皇太子となっており、持明院統は総出で量仁親王を育成する事になります。
最初の国母
後醍醐天皇は元弘の変で鎌倉幕府に捕らえられ隠岐に流される事になります。
この時に後伏見上皇の院政が始り、量仁親王が光厳天皇として即位しました。
光厳天皇が即位した事により、西園寺寧子は天皇の母となり国母になったと言えます。
ただし、この後に後醍醐天皇の反撃があり、持明院統は苦難の道を歩む事になります。
鎌倉幕府の滅亡
護良親王や楠木正成が挙兵し倒幕の狼煙を挙げ、後醍醐天皇も隠岐を脱出しました。
こうした中で赤松円心や足利尊氏が京都に侵攻して来たわけです。
糟屋宗秋が東国での決戦を主張し六波羅探題の北条仲時と共に、東国に移り決戦を挑む事になります。
この時の京都は慌ただしく最初に女性を脱出させており、西園寺寧子も六波羅館を後にしました。
六波羅館脱出時は広義門院や后妃などが履物も吐かず脱出したと太平記にあり、かなり苦しい立場にいた事が分かるはずです。
西園寺寧子は実科の西園寺家がある北山第に避難したのではないかと考えられています。
しかし、鎌倉幕府は新田義貞により滅ぼされ、北条仲時は光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇と共に近江に逃げますが、番場で自害しました。
光厳上皇らは捕虜となり都に昇りますが、天皇の座は廃され後醍醐天皇による建武の新政が始まりました。
この時の西園寺寧子は42歳になっていたと言います。
西園寺公宗の後醍醐天皇暗殺計画
当時の西園寺家の当主は西園寺寧子の甥にあたる西園寺公宗が務めていました。
西園寺公宗は北条泰家と結託し、後醍醐天皇を北山第で暗殺する計画を立てています。
この時に西園寺寧子が北山第にいた可能性があるのではないかとも考えられています。
しかし、西園寺公重の密告もあり、北山第は楠木正成や高師直により包囲されました。
西園寺公宗は捕虜となり名和長年により処刑されています。
後伏見上皇の崩御
西園寺公宗は世を去りましたが、密告したのが弟の公重であり、公重が西園寺家の当主として認められました。
西園寺寧子の実家である西園寺家は没落を免れたわけです。
こうした中で北条時行による中先代の乱が勃発し、足利尊氏や直義が建武政権から離脱しました。
後醍醐天皇の建武政権が安定しない中で、西園寺寧子の夫である後伏見上皇が建武三年(1336年)に崩御しています。
後伏見上皇の崩御に伴い西園寺寧子は出家しました。
西園寺寧子が45歳の時です。
再び国母となる
足利尊氏は九州から復活し湊川の戦いで楠木正成や新田義貞を破りました。
足利尊氏は京都を占拠すると光厳上皇を治天の君とし、光明天皇を即位させています。
光明天皇は西園寺寧子の子であり、当然ながら西園寺寧子は国母となりました。
ここで何も無ければ安楽の一生を過ごせたのですが、西園寺寧子は再び苦難が襲ってくる事になります。
1348年には光明天皇が退位し、孫の崇光天皇が即位しています。
息子と孫が南朝に拉致される
足利直義は高師直や足利尊氏との対立により、観応の擾乱が室町幕府内で勃発しています。
足利尊氏は最終的に東国遠征を行い足利直義を倒しました。
この時に足利尊氏は南朝と和議をした上で、義詮に京都を守らせた上で東征を行っています。
しかし、突如として南朝の軍は京都を攻撃し、足利義詮は皇族の守らずに近江に逃亡しました。
光厳上皇、光明上皇、崇光天皇、直仁親王は取り残される形となり、南朝の捕虜として賀名生に送られる事になります。
西園寺寧子にとってみれば、息子や孫が捕虜となり、心配したと同時に義詮に対しては嫌悪感を抱いた事になるでしょう。
太平記では三上皇と直仁親王が北畠顕能に牛車に無理やり入れられる姿を見て、涙を流し悲しむ西園寺寧子などの女性の姿が描かれています。
ただし、この時に西園寺寧子は捕虜にならなかった事だけは間違いなさそうです。
南朝の方でも「まさか西園寺寧子が次期天皇を指名する」とは思いもよらなかったのでしょう。
上皇の代理人
足利尊氏が武蔵野合戦で勝ち抜いた事もあり、足利義詮は京都を奪還しました。
北朝皇族は南朝に拉致されており、北朝の再興が求められたわけです。
皇位継承に必要な三種の神器は南朝に回収されていましたが、三種の神器が無くとも後鳥羽天皇や後光厳天皇も践祚しており、上皇の伝国詔宣があれば天皇を即位できると言う結論となりました。
ただし、三上皇は既に後村上天皇により拉致されており、指名する上皇も京都にはおらず、白羽の矢が立ったのが、光厳上皇、光明上皇の母親である西園寺寧子です。
室町幕府では京都に残った皇族である弥仁王を即位させ、上皇の代理人として西園寺寧子に任せようと考えたわけです。
西園寺寧子の怒り
この時の西園寺寧子は既に61歳になっており「物書きが難しくなった」とする記録もあり視力の低下などもあったと考えられています。
西園寺寧子に上皇の代理を任せようとしますが、西園寺寧子は皇族を置き去りにした足利義詮や、三上皇及び直仁親王の拉致の手引きをした洞院公賢に対し、気分を害していました。
洞院公賢の日記には西園寺寧子が怒っている様子が書かれており「皇位など幕府で勝手にしろ」と言った態度だったとあります。
北畠親房の神皇正統記にも広義門院が怒っている姿が描かれています。
しかし、幕府では北朝を復活させる事は物理的不可能であり、勧修寺経顕を使者に派遣するなど再三に渡り協力要請をしました。
バサラ大名と呼ばれ破天荒な生き様をする佐々木道誉でさえも、西園寺寧子に懇願しています。
幕府が連日の様に依頼した事で、16日後に西園寺寧子は渋々と引き受けました。
ただし、西園寺寧子は洞院公賢だけは許す事が出来ず、仙洞の出禁としています。
三代の国母
西園寺寧子の名で天下一同の法が公布され、官位などが全て正平一統前に戻されました。
足利尊氏も征夷大将軍に返り咲く事が出来たわけです。
年号も観応に戻されました。
古代の継体天皇の即位を参考に、西園寺寧子の指名により後光厳天皇の践祚が来まりました。
後光厳天皇は崇光上皇の弟であり、光厳上皇の子ではありますが、西園寺寧子は三代の国母と言われる事になります。
尚、室町幕府の西園寺寧子に後光厳天皇を指名させたやり方は「正統性がない」と批判もありますが、室町幕府の柔軟性を褒め称えられたりする場合もあります。
西園寺寧子は1353年頃まで政務を行い後光厳天皇に譲っています。
西園寺寧子の最後
1357年までには光厳法皇、光明法皇、崇光上皇、直仁親王らが京都に戻ってきました。
この時の西園寺寧子は66歳になっていましたが、息子や孫が京都に帰還する事が出来てホッとしたのではないでしょうか。
光厳法皇らが京都に帰還後まもなく西園寺寧子は世を去る事になります。
※この記事は中世奇人列伝(草思社)をベースに作成しました。