名前 | 沙至比跪は |
よみかた | さちひこ |
登場 | 日本書紀、百済記 |
沙至比跪は日本書紀の百済記の引用の部分で登場する人物です。
沙至比跪は日本側の将軍として、新羅を攻撃しますが、新羅が美女を寄越した事で攻撃対象を加羅に変更してしまいました。
しかし、加羅の国王・己本旱岐の妹・既殿至が日本側に、沙至比跪の事を訴えました。
これにより、大和王権は木羅斤資に兵を与え、加羅の国を復興させています。
今回は古代日本の問題児でもある沙至比跪を解説します。
尚、百済記の沙至比跪の記述の前に、神功皇后の62年の記述があり、襲津彦が新羅を討ったとあります。
それを考えると、葛城襲津彦と沙至比跪は同一人物ではないか?とも考える事が出来ます。
美女に目が眩む
百済記によると、壬午の年に新羅が日本に朝貢しなかったとあります。
日本側は新羅の態度に怒り、沙至比跪を派遣し新羅を討伐しようとしました。
新羅側は二人の美女を用意し港に派遣し、沙至比跪を惑わそうと派遣しました。
沙至比跪は二人の美女を見ると気に入り、新羅ではなく加羅を攻撃しました。
加羅国の国王・己本旱岐や児百久至、阿首至、国沙利、伊羅麻酒、爾汶至らは民衆を引き連れて百済に逃亡する事になります。
当時の倭国と百済の関係は良好であり、児百久至らは百済に逃げたのでしょう。
百済国では加羅の人々を保護し厚遇しました。
加羅の己本旱岐の妹である既殿至は、沙至比跪の事を日本側に訴えました。
百済記の記述によると、既殿至の話を聞いた天皇は激怒したとあります。
この時代は神功皇后が摂政をしていた時代とも考えられ、神功皇后が激怒したという事なのかも知れません。
もしくは、神功皇后の末期に当たる事件であり、応神天皇が既に政務の中心となっており、応神天皇を指す可能性もあります。
しかし、大和王権が沙至比跪の行動を問題視した事だけは間違いないでしょう。
天皇の怒り
百済記によると、天皇は木羅斤資を派遣したとあります。
木羅斤資は兵を率いて加羅に到着すると、加羅国を復興させました。
百済記には別説があり、別説によると沙至比跪は天皇が激怒した事を知り、日本に帰還せず身を隠したとあります。
沙至比跪の妹が帝に仕えており、沙至比跪は密かに天皇がまだ怒っているのか探り出そうとしました。
沙至比跪の妹は天皇に「今日の夢の中に沙至比跪がやってきました」と述べると、天皇は激怒し「なぜ、沙至比跪の様な奴がやってきたのだ」と答えたわけです。
妹は天皇を態度を見て、沙至比跪の事をまだ怒っていると悟りました。
妹は天皇の言葉を沙至比跪に伝えますが、沙至比跪は許される事はないと悟り、岩穴に入って亡くなったとあります。
一時の美女という快楽の為に、沙至比跪は人生を棒に振ったと言えるでしょう。