斉(戦国) 春秋戦国時代

斉の僖公が斉覇の始まりだった

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宮下悠史

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名前斉の僖公(きこう)
別名釐公(史記)
姓・諱姜禄甫
時代春秋戦国時代
生没年生年不明ー紀元前698年
在位紀元前730年ー紀元前698年
一族父:荘公 兄弟:得臣、荘姜、夷仲年 
子:襄公、公子糾、桓公、文姜、宣姜
コメント斉覇の礎を築いた

斉の僖公は春秋時代の斉の君主です。

春秋左氏伝では「僖公」と書かれていますが、史記では「釐公」となっています。

今回の記事は春秋左氏伝の記述を多く採用しており、「僖公」の名で記述する事にしました。

斉の僖公の同時代には、鄭の荘公がおり、僖公よりも目立った活躍をしている様に見えます。

しかし、国力で言えば、斉の方が上であり、諸侯同盟の盟主になったのは斉の僖公です。

覇者体制や諸侯同盟と言えば、春秋五覇の斉の桓公を思い浮かべる人も多いかと思いますが、実際には諸侯同盟を結成し斉が盟主になる流れは僖公の時代から、既に出来上がっていました。

斉の僖公は覇者の先駆けとも言える様な君主でもあります。

尚、斉の僖公は春秋左氏伝が始まった時の、斉の君主となっています。

斉鄭同盟

春秋左氏伝によると、紀元前720年に斉と鄭が石門で盟を交わしたとあります。

尚、石門の盟は以前に盧で盟を結びましたが、これを温め直したものです。

鄭の荘公はこの頃に、東周王朝とも不穏な空気があり、衛や宋とも関係が悪化していました。

外交的な孤立を防ぐ意味でも、斉の僖公との盟約は重要だったのでしょう。

斉の僖公と鄭の荘公の間で同盟を確認したわけですが、この同盟は長く続く事になります。

斉魯同盟

紀元前717年に斉の僖公が魯の隠公と艾で盟約を交わしました。

春秋左氏伝によると、斉と魯の講和が成立したのは、これが最初だとあります。

翌年である紀元前717年には、斉の僖公は弟の夷仲年を魯に派遣しました。

斉の僖公が魯に夷仲年を派遣したのは、前年の艾の盟を固める為だったと言います。

斉覇の始まり

斉の僖公の小伯

紀元前716年に鄭と宋の講和が実現しました。

衛は鄭を敵視しており、宋と衛の仲が悪化する事になります。

紀元前715年に宋の殤公と衛の宣公が垂(犬丘)で、非公式ではありますが会見を行っています。

宋の殤公と衛の宣公の会見の仲介を行ったのが、斉の僖公だった話が春秋左氏伝にあります。

斉の僖公は会期まで決めて、垂でのおぜん立てをしました。

斉の僖公は宋、衛、鄭の講和も成し遂げ、温で会合を開いています。

ここで、瓦屋の盟が交わされました。

斉の僖公は魯に宋、衛、鄭の三国の講和が成立した事を通達する事になります。

斉は斉、魯、鄭、衛、宋の諸侯同盟を締結したのであり、これが小伯でもあるのでしょう。

覇者と言うのは、諸侯同盟の結成が元になっており、斉の僖公による斉覇の始まりでもあったわけです。

覇者の先駆け

斉の僖公が中心となり、温や瓦屋で盟が行われましたが、注目すべきポイントは温や瓦屋が東周王朝の領土だった事でしょう。

参加国である斉や宋、衛などの国は、東方の国であり温や瓦屋とは距離が離れています。

それにも関わらず、斉の僖公が温や瓦屋で盟約を行うことが出来たのは、同盟関係である鄭の荘公を懐柔していたのが大きいのではないでしょうか。

鄭の荘公は東周王朝の卿士にもなっており、盟約の直後に斉人が入朝しており、温や瓦屋の盟約が周の桓王の支持に基づくものとなったと言えます。

斉の僖公による諸侯同盟の締結は、覇者の先駆けと言ってもよいでしょう。

斉魯鄭同盟

斉の僖公が中心となり、結成された諸侯同盟ですが、翌年である紀元前714年には揺らぐ事になります。

宋が東周王朝への朝覲を怠ったとし、鄭の荘公は周の桓王の命により、宋を攻撃する事になります。

この時に、斉の僖公と魯の隠公が防で会見を行いました。

斉の僖公と魯の隠公の会見の目的は、宋を攻撃する為の相談です。

さらに、翌年である紀元前713年に、斉の僖公は鄭の荘公と中丘で会合しました。

鄧で盟約を結び、宋への出兵の期日を決める事になります。

これにより、斉、魯、鄭の三国は軍事行動を共にする事になります。

斉の僖公が盟主の同盟

紀元前713年に斉、魯、鄭の三国は宋に出兵しました。

翌年の紀元前712年には、衛、蔡、郕が王命に従わなかったとし、郕を降しています。

さらに、この年に許を攻撃しました。

許の荘公は衛に逃亡する事になります。

この時に、斉の僖公が許の処置を魯の隠公に任せようとしました。

魯の隠公は「私は許が貢納を怠っていると聞き、貴君(斉の僖公)に従いお供をして許を討ったのです」と応えています。

魯の隠公の言葉から見るに、斉の僖公が盟主となり、東周王朝に貢納を行わない許を討伐した事になっているのが分かるはずです。

斉の僖公は最終的に、鄭に許を与えていますが、盟主としての役割を果たしたとも見てとれます。

これも斉の僖公による小伯の一因だと考えられています。

斉の僖公の小伯の復活

紀元前710年に、宋の大宰であった華父督は、主君の宋の殤公と司馬の孔父嘉を殺害しました。

宋では主君の弑逆が起きたのであり、斉の僖公、魯の桓公、陳の桓公、鄭の荘公は、稷で会合を開く事になります。

議題はもちろん、乱が起きた宋への対処でしょう。

稷の会での斉の僖公の意向としては、宋の乱を平定する狙いがあったと思われます。

この動きを察知した華父督は、鄭にいる公子馮を宋で擁立する事になります。

華父督の狙いは鄭を懐柔する事でしょう。

さらに、華父督は斉、魯、陳、鄭にも賄賂を贈りました。

華父督の懐柔政策は功を奏し、斉、魯、陳、鄭の諸国との講和が成立する事になります。

紀元前709年には斉の僖公が蒲で衛の宣公と会見を行っています。

ここにおいて、斉と宋、衛、蔡との講和が成立し、斉の僖公による小伯が再び復活したと言えるでしょう。

斉と魯の婚姻

紀元前709年に斉の僖公は魯の桓公と嬴で会合し婚約を約束しました。

魯では公子翬(羽父)が公女を迎えに、斉に赴く事になります。

春秋左氏伝では、斉と魯の婚姻を先君以来の友好を固めたと評価しました。

しかし、春秋左氏伝では斉の僖公が文姜を送って来たのは礼に合していないとも述べています。

春秋左氏伝には、斉の僖公を批判する内容として、つぎのものを挙げています。

※春秋左氏伝(岩波文庫より)

一国の公女が同格の国に嫁ぐ場合は、現君の姉妹ならば上卿が送り、先君への礼を尽くす。

現君の女ならば下卿が送る。

大国に嫁ぐ場合は、現君の女でも上卿が送る。

天子に嫁ぐ場合は、諸卿が揃って行くが、公自身は送らない。

小国に嫁ぐ場合は、上大夫が送る。

この後に、斉の仲年が使節として、文姜を送り届けた話が掲載されていますが、これを礼に合していないと考えたのでしょう。

それと同時に、斉の僖公の外交を高く評価している様にも見えます。

斉の僖公の小伯の限界

周の桓王と鄭の荘公は対立し、紀元前707年に繻葛の戦いが勃発しました。

鄭に対し、東周王朝は蔡、衛、陳の連合軍で挑む事になります。

繻葛の戦いは鄭の荘公の勝利に終わりました。

ここで注目したいのは、斉と同盟関係である鄭に対し、同じく同盟関係にある衛が戦っているという事です。

斉の僖公としては、当然ながら同盟国同士の対決は望まなかったのではないでしょうか。

鄭や衛は斉を盟主として仰いでいたはずですが、斉の僖公には止められなかったとみる事も出来ます。

それと同時に、斉と衛、斉と鄭が同盟を結んでいても、衛と鄭が戦いになる事が分かるはずです。

春秋五覇の斉の桓公は同盟内でも紛争を固く禁じていました。

この辺りに、斉の僖公による小伯の限界があったとも言えるでしょう。

斉の僖公と公子忽

斉の僖公の25年(紀元前706年)に北戎が、斉を攻撃しました。

この時に、斉の斉の僖公は鄭に援軍要請し、鄭の荘公は鄭の太子忽(鄭の昭公)を斉に派遣しています。

同盟国でもある鄭の太子忽の采配が見事だったのか、斉の僖公は公女を娶らせようとしています。

しかし、太子忽は「大国の斉の女性では、釣りあいが取れない」として断りました。

史記では斉の僖公の記述は簡略ですが、太子忽との話は掲載されています。

北戎との戦いで、魯も食糧援助などを行っていた様であり、鄭と魯の関係が悪化した話があります。

尚、前年に繻葛の戦いがあり、斉の僖公は鄭に援軍を送っていませんが、特に険悪になる事もなかったとみる事も出来るはずです。

郎の戦い

北戎との戦いで内輪もめがあり、紀元前702年に、鄭は斉に魯を攻撃する様に求めました。

斉の僖公は魯への出兵を決め、衛も側として出陣する事になります。

これが郎の戦いです。

郎の戦い以降は、当然ながら斉と魯の関係は悪化しました。

同盟解体

紀元前701年に斉は衛、鄭と悪曹で盟約を行っています。

尚、紀元前701年に鄭の荘公が亡くなり、鄭の昭公は宋の意向もあり出奔し、鄭の厲公が鄭の君主となりました。

鄭の昭公は衛に亡命した事から、宋と衛の関係が悪化しています。

ここで宋の荘公が過分な賄賂を要求した事で、宋と鄭の関係も悪化しました。

斉の僖公の同盟が解体に向かった様にも感じています。

こうした中で、斉の僖公は鄭、衛と共に魯を攻撃しました。

魯の桓公は宋、陳、蔡と盟し、紀元前700年には宋、鄭との調停を行っており、魯の桓公は盟主になろうとしたのでしょう。

過去に斉の僖公が諸侯同盟を成立させ、盟主になった事を魯もやろうとした様に見えます。

しかし、魯の要請に宋が拒否反応を起こし決裂し、魯は鄭と結ぶ事になります。

斉の僖公は兵を出し、紀元前699年に斉、衛、宋、南燕と魯・鄭の戦いとなりますが、戦いに敗れました。

翌年に斉の僖公は亡くなっており、斉の僖公が何処まで関与したのかは不明です。

晩年の斉の僖公の諸侯同盟は、解体に向かったとみる事が出来るはずです。

斉の僖公の最後

春秋左氏伝の698年の項目に「冬十有二月丁巳、斉侯禄父、卒ス」とあります。

これが斉の僖公が亡くなった春秋左氏伝の記録です。

残念ながら、斉の僖公に対する伝文は伝わっていません。

史記では、斉の僖公が亡くなる前年に、僖公の弟の夷仲年が亡くなり、息子が公孫無知だと記録しています。

斉の僖公は公孫無知を寵愛していた話が掲載された後に、史記では「釐公(僖公)はその三十三年に亡くなった」とあります。

僖公の子である斉の襄公が後継者になりました。

先代:荘公僖公次代:襄公

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